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腰越状 - Wikipedia

腰越こしごえじょう

1185ねん日本にっぽん腰越こしごえ源義経みなもとのよしつねあにみなもと頼朝よりともててしたためた書状しょじょう

腰越こしごえじょう(こしごえじょう)とは、源義経みなもとのよしつねあにみなもと頼朝よりともててみとめたとされる手紙てがみもとこよみ2ねん5月24にち1185ねん6月23にち)、義経よしつね頼朝よりともいかりをい、鎌倉かまくらりをめられて腰越こしごえとどまっていたとき、満福寺まんふくじ心情しんじょうつづったものとつたえられる。この手紙てがみ公文こうぶんしょ別当べっとう大江広元おおえのひろもとてにかれ、頼朝よりともいでもらったとされるものの、結局けっきょく義経よしつね鎌倉かまくらりをゆるされず京都きょうとかえすこととなったとされる。

歌川うたがわ国芳くによし腰越こしごえじょう

明治めいじ時代じだい初期しょきまで、手習てなら教科書きょうかしょとしてもちいられた。

本文ほんぶん

編集へんしゅう

以下いかは『吾妻あづまきょうまき4からの現代げんだいやく原文げんぶん和様わようかん文体ぶんたい

左衛門さえもん少尉しょうい義経よしつねおそれながらもうげます。わたしは(頼朝よりともの)代官だいかんえらばれ、勅命ちょくめいけた使つかいとして朝敵ちょうてきほろぼし、先祖せんぞ代々だいだい弓矢ゆみやげいしめし、会稽かいけいはじはずかしめそそぎました。ひときわたか賞賛しょうさんされるべきところを、おそるべき讒言ざんげんにあい、莫大ばくだい勲功くんこう黙殺もくさつされ、功績こうせきがあってもつみはないのに、勘気かんきこうむり、むなしくなみだにくれております。つくづくおもうに、良薬りょうやくくちにがく、忠言ちゅうげんみみさからうとわれています。ここにいたって讒言ざんげんしたもの実否じっぴただされず、鎌倉かまくられていただけないあいだ素意そいべること出来できず、いたずら数日すうじつおくっています。こうしてながくおかお拝見はいけん出来できないままでは、けた肉親にくしんえんすでむなしくなっているようです。わたし宿運しゅくうんきたのでしょうか。はたまた前世ぜんせい悪業あくごうのためでしょうか。かなしいことです。

そうはいうものの、父上ちちうえれいがよみがえってくださらなければ、だれ悲嘆ひたんもうひらいてくださるでしょうか。あわれんでくださるでしょうか。今更いまさらあらたまってもうげるのも愚痴ぐちになりますが、義経よしつね身体髪膚しんたいはっぷ父母ちちははさずかりこのせいけてもなく父上ちちうえであるひだりあたま殿どのあさ)が他界たかいされ、孤児こじとなってはは懐中かいちゅういだかれ、大和やまとこく宇多うだぐんりゅうもんまきおもむいて以来いらいいちにちたりともしんやすらぐときがありませんでした。甲斐かいいのちながらえるばかりとはいえども、京都きょうと周辺しゅうへんらすことむずかしく、諸国しょこく流浪るろうし、所々ところどころかくし、辺土へんど遠国おんごくむために土民どみん百姓ひゃくしょうなどに使つかわれました。しかしながら、じゅくして幸運こううんはにわかにめぐり、平家ひらか一族いちぞく追討ついとうのために上洛じょうらくし、まず木曾きそ義仲よしなか合戦かっせんしてたおしたのちは、平家へいけほろぼすため、あるときけわしくそびえ岩山いわやま駿馬しゅんめにむちち、てきのためにいのちうしなことかえりみず、あるとき漫々まんまんたる大海たいかい風波ふうは危険きけんしのぎ、海底かいていしずめ、むくろくじらえさになることいといませんでした。また甲冑かっちゅうまくらとし、弓矢ゆみやをとる本意ほんいは、父上ちちうえたましいしずめるというかねてからのねがいであることほか他意たいはありません。そればかりか、義経よしつねじょうにんぜられたのは当家とうけ名誉めいよであり、まれ重職じゅうしょくです。これにまさ名誉めいよはありません。そのとおりとえども、いまなげきはふかせつなく、ふつしんのおたすけのそとは、どうしてせつなるなげきのうったえをげられるでしょうか。ここにいたって、しょかみしょしゃうしおうたからしるしうらもちいて、まった野心やしんこと日本にっぽんこくちゅう神様かみさまちかって、すうつう起請文きしょうもんおくりましたが、なおも寛大かんだいなおゆるしをいただけません。

くに神国しんこくであります。神様かみさま非礼ひれいをおけにはなりません。たよところく、ひとえ貴殿きでん広大こうだい慈悲じひあおぐのみです。便宜べんぎはかって(頼朝よりともの)おみみれていただき、手立てだてをつくされ、わたしあやまりがことをおみとめいただいて、おゆるしにあずかれば、善行ぜんこうがあなたの家門かもんさかえさせ、栄華えいがなが子孫しそんつたえられるでしょう。それによってわたし年来ねんらい心配しんぱいごとくなり、生涯しょうがい安穏あんのんられるでしょう。言葉ことばはいいつくせませんが、ここで省略しょうりゃくさせていただきました。ご賢察けんさつくださることをねがいます。義経よしつねおそつつしんでもうげます。

もとこよみねんがつ にち 左衛門さえもん少尉しょうい源義経みなもとのよしつね

進上しんじょう因幡いなばぜんつかさ殿しんがり

研究けんきゅう

編集へんしゅう

研究けんきゅうでは腰越こしごえじょう掲載けいさいしている『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつおおくの疑問ぎもん指摘してきされ、義経よしつね本当ほんとう腰越こしごえかれたのかという事実じじつ関係かんけいふくめ、腰越こしごえじょう真偽しんぎわれている。

のべけいほんおよび長門ながとほんの『平家ひらか物語ものがたり』や『源平げんぺい盛衰せいすい』によれば義経よしつね一旦いったん鎌倉かまくらはいって頼朝よりとも対面たいめんしたのちきょうもどったとされており、『かんしょう』にも義経よしつね鎌倉かまくらかんおもむき、きょうもどってきたころから頼朝よりともそむしんいたとあることから、義経よしつね鎌倉かまくらりをゆるされなかったというのは『吾妻あづまきょう』の誤伝ごでんまたは曲筆きょくひつであり、実際じっさいには義経よしつね鎌倉かまくらりしているとのせつもある。また『吾妻あづまきょう』で義経よしつね腰越こしごえにいたとしるされているのは5月24にちのみで、その前後ぜんごの5がつ15にちと6がつ9にち記事きじでは30kmほど西にし酒匂さこえきにいたとあり、これは腰越こしごえじょう伝承でんしょう挿入そうにゅうするかたち編集へんしゅうされたためにしょうじた錯誤さくごかんがえられるとするせつもある[1]

腰越こしごえじょう文面ぶんめんについても、様式ようしき文言もんごんなど、当時とうじ普通ふつう披露ひろうぶんなどとはことなっていて、後世こうせいにせ文書ぶんしょであるとの見方みかた大勢おおぜいめている。内容ないようも、頼朝よりともいかりの原因げんいんとされる任官にんかん問題もんだいせんにまったくれておらず、義経よしつね衛門えもんじょう任官にんかんは、受領じゅりょうより格下かくした地位ちいぎず、「当家とうけ面目めんぼく希代きたい重職じゅうしょく」などではありえないなどうたがわしいてんおおく、偽作ぎさくせつ有力ゆうりょくで、義経よしつねいた原文げんぶんがあったとしても、相当そうとう虚飾きょしょくくわえられているとの見方みかたがされている。また頼朝よりとも親族しんぞくへの冷酷れいこくさを強調きょうちょうする『吾妻あづまきょう幕府ばくふ編纂へんさんしゃによる捏造ねつぞう可能かのうせい[ちゅう 1]指摘してきされている。一方いっぽうで、こうほこ頼朝よりとも仕打しうちをなげき、肉親にくしんじょううったえるさまは史料しりょうである『たま』などにのこされた義経よしつね発言はつげん一致いっちするものがあり、当時とうじ切々せつせつたる義経よしつね心情しんじょうをよくあらわしたものとえるとするせつもあり、腰越こしごえじょう史料しりょうてき評価ひょうかかれている。

腰越こしごえじょうについては、頼朝よりともとの関係かんけいかんする記述きじゅつうたがわしいてんがあり、以下いかせつがある。

元木もとき泰雄やすおは、一ノ谷いちのや合戦かっせんのち義経よしつね無断むだん検非違使けびいし任官にんかんしたことが頼朝よりともいかりをまねいたわけではなく、また壇ノ浦だんのうら合戦かっせんのち義経よしつね鎌倉かまくらかったときにすでに両者りょうしゃ関係かんけい完全かんぜん破綻はたんしていたわけでもなく、義経よしつねきょうもどったのちたいら討滅の恩賞おんしょうとして伊予いよもり推挙すいきょされたにもかかわらず、検非違使けびいしにも留任りゅうにんして鎌倉かまくらへの帰還きかんこばんだ時点じてん両者りょうしゃなか決定的けっていてき破綻はたんしたとしている。

呉座ござ勇一ゆういちもこれを支持しじ[2]頼朝よりともによる配下はいか武将ぶしょうたいする粛清しゅくせいはすべて鎌倉かまくらおこなわれていることからて、義経よしつね腰越こしごえ到着とうちゃくにすでに頼朝よりともとの関係かんけい破綻はたんしていたのなら頼朝よりとも義経よしつねきょうかえさずただちに拘束こうそくしたはずであり、謀反むほんこす可能かのうせいがあるもの放置ほうちするほど頼朝よりともあまくないとし、河内かわうちさちとなえる、こう白河しらかわ打撃だげきあたえるためにあえて義経よしつね自由じゆうにし、きょう支援しえんさせ反乱はんらんこさせるよう仕向しむけたとするせつかんしては、義経よしつね挙兵きょへい失敗しっぱいした結果けっかをあらかじめ頼朝よりとも予想よそうしていたとかんがえるもので、勝利しょうりしゃはすべてを見通みとお他者たしゃあやつっていたと陰謀いんぼうろん典型てんけいてきかんがかたとして支持しじせず、たいら滅亡めつぼうんだ義経よしつね武名ぶめいはあなどりがたく、この時点じてん挙兵きょへいされた場合ばあい確実かくじつ鎮圧ちんあつできる自信じしんがあったとはおもわれないとする[3]両者りょうしゃ亀裂きれつのきっかけとなったとされる検非違使けびいし任官にんかんについても、実際じっさいには無断むだん任官にんかんだったのではなく頼朝よりとも同意どういていたことを指摘してき[4][ようページ番号ばんごう]義経よしつね祖父そふ源為義みなもとのためよしでさえ就任しゅうにんできた検非違使けびいしを、義経よしつねが「源氏げんじ一門いちもん名誉めいよになるとおもった」と頼朝よりとも弁解べんかいするのも不自然ふしぜんとする[5]関係かんけい悪化あっかたいらたいする構想こうそうちがいからであり、頼朝よりとも殲滅せんめつではなく補給ほきゅうことわったうえでの持久じきゅうせんによる降伏ごうぶくかんがえており、安徳天皇あんとくてんのうきょう帰還きかんさせ三種さんしゅ神器じんぎとともにこう白河しらかわ法皇ほうおうたいする政治せいじてききに使つか予定よていだったとする[6]頼朝よりともたいら追討ついとう恩賞おんしょうとして当時とうじ受領じゅりょう最高峰さいこうほうだった伊予いよもりあたえたのも、通常つうじょう検非違使けびいし同時どうじ兼任けんにんできないことからあんきょうからはな鎌倉かまくら帰還きかんせよとの意思いしつたえたものであり、結果けっかてき検非違使けびいし受領じゅりょう同時どうじ兼任けんにんできたのは、こう白河しらかわ法皇ほうおうによるもので、義経よしつね鎌倉かまくらから独立どくりつした独自どくじ武力ぶりょくとして活用かつようしようとしたことに起因きいんしている[7]義経よしつね検非違使けびいし兼任けんにんし、きょうまりつづ頼朝よりともによる鎌倉かまくら召還しょうかんこばんだことで両者りょうしゃなか決定的けっていてき破綻はたんしたと推論すいろんしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 頼朝よりともの、親族しんぞくへのこうした冷淡れいたんさを強調きょうちょうし、源氏げんじ将軍しょうぐんさんだい断絶だんぜつした遠因えんいん示唆しさしているともわれる。

出典しゅってん

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  1. ^ 佐伯さえき真一しんいち注釈ちゅうしゃく 腰越こしごえ」(『さいわいわか舞曲ぶきょく研究けんきゅう 三弥みつや書店しょてん、1987ねん
  2. ^ 呉座ござ 2018, pp. 75–76.
  3. ^ 呉座ござ 2018, p. 72.
  4. ^ 呉座ござ 2018.
  5. ^ 呉座ござ 2018, p. 73.
  6. ^ 呉座ござ 2018, pp. 73–74.
  7. ^ 呉座ござ 2018, p. 75.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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