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腰越 - Wikipedia

腰越こしごえ

神奈川かながわけん鎌倉かまくらまち

腰越こしごえ(こしごえ)は神奈川かながわけん鎌倉かまくら腰越こしごえ地域ちいき南西なんせい)に位置いちする大字だいじおよび町名ちょうめい。ほか埼玉さいたまけん比企ひきぐん小川おがわまち腰越こしごえもある(〒355-0327)。

腰越こしごえ
まちひのと大字だいじ
相模さがみわんから腰越こしごえ
地図北緯ほくい3518ふん31びょう 東経とうけい13929ふん37びょう / 北緯ほくい35.308531 東経とうけい139.493667 / 35.308531; 139.493667
くに 日本の旗 日本にっぽん
都道府県とどうふけん 神奈川県の旗 神奈川かながわ
市町村しちょうそん 鎌倉かまくら
地域ちいき 腰越こしごえ地域ちいき
人口じんこう情報じょうほう2023ねんれい5ねん9月1にち現在げんざい[1]
 人口じんこう 5,573 にん
 世帯せたいすう 2,449 世帯せたい
面積めんせき[2]
  0.72 km²
人口じんこう密度みつど 7740.28 にん/km²
郵便ゆうびん番号ばんごう 248-0033[3]
市外しがい局番きょくばん 0467(藤沢ふじさわMA[4]
ナンバープレート 横浜よこはま
人口じんこう面積めんせき大字だいじ腰越こしごえのぞく。
ウィキポータル 日本にっぽんまち
神奈川県の旗 ウィキポータル 神奈川かながわけん
ウィキプロジェクト 日本にっぽんまち
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鎌倉かまくら腰越こしごえ地域ちいき現行げんこう行政ぎょうせい地名ちめいについては腰越こしごえいち丁目ちょうめから腰越こしごえ丁目ちょうめ大字だいじ腰越こしごえ住居じゅうきょ表示ひょうじいち丁目ちょうめから丁目ちょうめ実施じっし区域くいき大字だいじ腰越こしごえ実施じっし区域くいき[5]郵便ゆうびん番号ばんごうは248-0033[3]ふるくから鎌倉かまくらへのくち宿駅しゅくえき)、そして漁業ぎょぎょうむらとしてさかえてきた。

鎌倉かまくら腰越こしごえ地域ちいきはもともと、津村つむら所属しょぞくするだったが、寛文ひろふみ6ねん1666ねん11月に「腰越こしごえむら」として分離ぶんりした。以降いこう明治めいじ時代じだいまでは相模さがみこく鎌倉かまくらぐん津村つむらさと腰越こしごえむらばれたが[6]廃藩置県はいはんちけんのち神奈川かながわけん鎌倉かまくらぐん腰越こしごえむらとなる。なおこのころ行政ぎょうせい区画くかく現在げんざい大字だいじとしての範囲はんいとほぼ一致いっちしている。1889ねん明治めいじ22ねん)にむら合併がっぺい腰越こしごえ津村つむら誕生たんじょうしたため、腰越こしごえむら消滅しょうめつ大字だいじとなった。

腰越こしごえおよびりょう大字だいじはその分離ぶんり過程かてい歴史れきしこうにて詳述しょうじゅつ)によって非常ひじょうんだだらけとなっている。このため住宅じゅうたく地図ちずをのぞくほとんどの地図ちずでは「腰越こしごえ」とまとめて記載きさいされていることがおおい。

概要がいよう

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鎌倉かまくらさい南西なんせい位置いちし、南部なんぶ相模さがみわんめんし、西部せいぶ藤沢ふじさわせっしている。北部ほくぶ西鎌倉にしかまくらむら)・津西つにしせっし、東部とうぶ小動こゆるぎみさきをはさんで七里ヶ浜しちりがはませっしている。

海岸かいがんせん国道こくどう134ごう江ノ島えのしま電鉄でんてつせん平行へいこうしてはしる。また大字だいじ縦断じゅうだんするように神戸こうべがわはしり、神奈川かながわけんどう304ごう腰越こしごえ大船おおぶねせんふるしまどうかわをほぼ併走へいそうしている。域内いきないには江ノ島えのしま電鉄でんてつせん腰越こしごええき鎌倉かまくら高校こうこうまええき腰越こしごえ漁港ぎょこう明治めいじ以前いぜん腰越こしごえうらばれた)、腰越こしごえ行政ぎょうせいセンター、腰越こしごえ海水浴かいすいよくじょうなどの施設しせつがあり、また龍口りゅうぐちてら満福寺まんふくじ腰越こしごえむら鎮守ちんじゅとして信仰しんこうあつめた八王子はちおうじしゃ現在げんざい小動こゆるぎ神社じんじゃ)など寺社じしゃおおい。

住宅じゅうたく地価ちかは、2023ねんれい5ねん1がつ1にち公示こうじ地価ちかによれば、腰越こしごえねこだに1330ばん33の地点ちてんで16まん2000えん/m2腰越こしごえ1-8-6の地点ちてんで17まん7000えん/m2となっている[7]

腰越こしごえむら成立せいりつ以前いぜん

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鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ以前いぜん古代こだい腰越こしごえについては史料しりょう残存ざんそんしていないため、不明ふめいてんおおい。しかし鎌倉かまくら古代こだいから地域ちいき政治せいじ中心ちゅうしんとしてさかえていたことや、三浦みうら半島はんとう経由けいゆ海路かいろ房総半島ぼうそうはんとうかう古代こだい海道かいどう腰越こしごえはしっていたらしいこと考古学こうこがく分野ぶんやから判明はんめいしており、このことから腰越こしごえ古代こだいから宿駅しゅくえき(腰越こしごええき[8])としてさかえていたと推測すいそくされている。

もとこよみ2ねん1185ねん)、源平げんぺい合戦かっせんうけたまわ寿ことぶきひさしらん)において活躍かつやくした源義経みなもとのよしつねは、念願ねんがん平家へいけ討滅をげたにもかかわらずあに頼朝よりともから面会めんかい拒絶きょぜつされつづけた。そして旧暦きゅうれき5がつ24にち6月23にち)、腰越こしごえ満福寺まんふくじ逗留とうりゅうしていた義経よしつね頼朝よりとも近臣きんしん大江広元おおえのひろもとあにへの心情しんじょううったえ、しを依頼いらいする書状しょじょうみとめたとされる。これが有名ゆうめい腰越こしごえじょうである。

腰越こしごえむら成立せいりつ

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江戸えど時代じだい初期しょき腰越こしごえ一帯いったい江戸えど幕府ばくふ代官だいかんがおさめる直轄ちょっかつだったため代官だいかんがおかれ、むら政務せいむ一般いっぱんかんする業務ぎょうむ実質じっしつてき土地とち土豪どごう島村しまむらわりに仕切しきっていた。しかし島村しまむら苛烈かれつ徴税ちょうぜいをはじめ、数々かずかず横暴おうぼうをおこなったため、おおくの村民そんみん島村しまむら支配しはい反発はんぱつしていた[9]。このため一部いちぶ村民そんみんむら分離ぶんり幕府ばくふうったえた。その寛文ひろふみ6ねん(1666ねん)11月に幕府ばくふ腰越こしごえむらとしてあつかことめ、津村つむら腰越こしごえむらむらむらにわかれた。

むらかれるさい島村しまむらとその縁者えんじゃ土地とち津村つむら、それ以外いがいもの土地とち腰越こしごえむら所属しょぞくしたため、むら内部ないぶ大量たいりょうまれる原因げんいんとなった。

腰越こしごえむら成立せいりつから消滅しょうめつまで

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  • 明和めいわ3ねん1766ねん11月18にち - 腰越こしごえむらと、西側にしがわせっしている片瀬かたせむら村役人むらやくにんが、鉄砲場てっぽうば建設けんせつ反対はんたいする訴状そじょう提出ていしゅつ
    従来じゅうらい柳島やなぎしまむら現在げんざい茅ヶ崎ちがさき柳島やなぎしま付近ふきんか)から片瀬かたせむらにかけてあった相州あいしゅう炮術調練ちょうれんじょう幕府ばくふ役人やくにんよう射撃しゃげき訓練くんれんじょう)を、腰越こしごえむら延長えんちょうする計画けいかくこった。鉄砲場てっぽうばすでにある地域ちいきでは、騒音そうおんさかななくなってしまい漁獲ぎょかくだかったり、防砂ぼうさりん伐採ばっさいされて田畑たはたすなこうむったりしていたため、このような被害ひがい腰越こしごえむらにもおよばぬよううったえたものである。鉄砲場てっぽうば管理かんりする役人やくにんとの討議とうぎ結果けっか鉄砲場てっぽうば延長えんちょうするが、当面とうめん訓練くんれんおこなわないことで合意ごういいたった。
  • 明和めいわ5ねん1768ねん)5がつ - 腰越こしごえむら片瀬かたせむらとのあいだ境界きょうかい紛争ふんそうこる。
    同年どうねん3がつ10日とおかに、難破なんぱせん船板ふないたながさ5あいだはば3しゃく)が1まい腰越こしごえむらながいたが、これを片瀬かたせむらものげたことが発端ほったんとなった。腰越こしごえむらがわ主張しゅちょうは、「とおる12ねん1727ねん)に腰越こしごえむら龍口りゅうぐちてらとのあいだであったあらそいのさいに、片瀬かたせむらとの境界きょうかい確定かくていしており、くいてられていたが、片瀬かたせむらがわがこれをり、くい位置いちよりも2まち腰越こしごえむらりを境界きょうかいとしようとしている。」とするものであった。
    これにたいし、片瀬かたせむらは「船板ふないたながいた場所ばしょは、従来じゅうらいから片瀬かたせむらもの地引網じびきあみりょういとなんできていた土地とちであり、とおる12ねん(1727ねん)の判決はんけつしたがったとしても、問題もんだい場所ばしょ片瀬かたせむら土地とちであり、腰越こしごえむら片瀬かたせむら土地とち不当ふとううばおうとしているものである。」と主張しゅちょうした。
    この紛争ふんそう安永やすなが5ねん1776ねん)に決着けっちゃくした。判決はんけつでは、双方そうほうのいいぶんとも採用さいようされず、とおる12ねん(1727ねん)の判決はんけつ以前いぜんには竜口りゅうぐちてらが「片瀬かたせ竜口りゅうぐちてら」とならわされていたことから、竜口りゅうぐちてら片瀬かたせむらがわとするような境界きょうかいあらたにさだめられた。また、腰越こしごえむら沖合おきありょうを、片瀬かたせむら地引じびあみりょうを、たがいに入会にゅうかい(いりあい)としてってきていたことを認定にんていし、今後こんごもこの慣例かんれいどおりとすることとわたされた。

腰越こしごえむら消滅しょうめつ以降いこう

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町名ちょうめい変遷へんせん

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実施じっし 実施じっし年月日ねんがっぴ 実施じっしまえかくめいともその一部いちぶ
腰越こしごえいち丁目ちょうめ 1966ねん9月1にち 大字だいじ腰越こしごえ大字だいじ
腰越こしごえ丁目ちょうめ
腰越こしごえさん丁目ちょうめ
腰越こしごえよん丁目ちょうめ
腰越こしごえ丁目ちょうめ
西鎌倉にしかまくらいち丁目ちょうめ 1968ねん6月1にち
西鎌倉にしかまくら丁目ちょうめ
西鎌倉にしかまくらさん丁目ちょうめ
西鎌倉にしかまくらよん丁目ちょうめ
七里ガ浜東しちりがはまひがしいち丁目ちょうめ 1969ねん4がつ20日はつか 大字だいじ腰越こしごえふじいにしえ大字だいじふじ古谷ふるや
七里ガ浜東しちりがはまひがし丁目ちょうめ 大字だいじ腰越こしごえ矢口やこう中山なかやまふじいにしえ田辺たなべひろまちひろまち大字だいじふじ古谷ふるや
七里ガ浜東しちりがはまひがしさん丁目ちょうめ 大字だいじ腰越こしごえ矢口やこうふじいにしえ大字だいじ大野おおのふじ古谷ふるやいれ大字だいじ極楽寺ごくらくじ一ノ谷いちのたに
七里ガ浜東しちりがはまひがしよん丁目ちょうめ 大字だいじ腰越こしごえ矢口やこうふじいにしえ田辺たなべひろまちななまわり・いれ大字だいじ田辺たなべひろまち田辺たなべだにひがしたに大野おおの
七里ガ浜東しちりがはまひがし丁目ちょうめ 1972ねん1がつ10日とおか 大字だいじ腰越こしごえ大字だいじ
七里ガ浜しちりがはまいち丁目ちょうめ
七里ガ浜しちりがはま丁目ちょうめ
津西つにしいち丁目ちょうめ 1970ねん1がつ1にち
津西つにし丁目ちょうめ

産業さんぎょう

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腰越こしごえには漁港ぎょこうがあり、しらすなどがれる。くわしくは「腰越こしごえ漁港ぎょこう」を参照さんしょう

世帯せたいすう人口じんこう

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2023ねんれい5ねん7がつ1にち現在げんざい鎌倉かまくら発表はっぴょう)の世帯せたいすう人口じんこう以下いかとおりである[1]。なお、大字だいじ腰越こしごえのぞく。大字だいじ腰越こしごえ人口じんこう (鎌倉かまくら)参照さんしょう

ひのと 世帯せたいすう 人口じんこう
腰越こしごえいち丁目ちょうめ 416世帯せたい 1,211にん
腰越こしごえ丁目ちょうめ 492世帯せたい 1,086にん
腰越こしごえさん丁目ちょうめ 756世帯せたい 1,529にん
腰越こしごえよん丁目ちょうめ 363世帯せたい 771にん
腰越こしごえ丁目ちょうめ 422世帯せたい 976にん
けい 2,449世帯せたい 5,573にん

人口じんこう変遷へんせん

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国勢調査こくせいちょうさによる人口じんこう推移すいい

人口じんこう推移すいい
とし 人口じんこう
1995ねん平成へいせい7ねん[15]
6,325
2000ねん平成へいせい12ねん[16]
6,121
2005ねん平成へいせい17ねん[17]
6,041
2010ねん平成へいせい22ねん[18]
5,978
2015ねん平成へいせい27ねん[19]
5,823
2020ねんれい2ねん[20]
5,731

世帯せたいすう変遷へんせん

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国勢調査こくせいちょうさによる世帯せたいすう推移すいい

世帯せたいすう推移すいい
とし 世帯せたいすう
1995ねん平成へいせい7ねん[15]
2,127
2000ねん平成へいせい12ねん[16]
2,206
2005ねん平成へいせい17ねん[17]
2,306
2010ねん平成へいせい22ねん[18]
2,335
2015ねん平成へいせい27ねん[19]
2,336
2020ねんれい2ねん[20]
2,434

市立しりつ小・中学校しょうちゅうがっこうかよ場合ばあい学区がっく以下いかとおりとなる(2017ねん7がつ時点じてん[21][22]

大字だいじ丁目ちょうめ 番地ばんち 小学校しょうがっこう 中学校ちゅうがっこう
腰越こしごえ 1〜1006、1175
1609〜1616、1978〜2186
2190〜2367
鎌倉かまくら市立しりつ腰越こしごえ小学校しょうがっこう 鎌倉かまくら市立しりつ腰越こしごえ中学校ちゅうがっこう
1007〜1008、1018〜1169
1180〜1314
鎌倉かまくら市立しりつ手広てびろ中学校ちゅうがっこう
1009〜1017、1170〜1174
1176〜1179、1315〜1416
1427、1429、1431
1459、1494、1510〜1608
1632〜1668、1671〜1672
1679〜1692、1714〜1722
1749〜1753、1761〜1768
1775、1788〜1798、1807
1823、2187
鎌倉かまくら市立しりつ西鎌倉にしかまくら小学校しょうがっこう
1617〜1631、1669
1673〜1678、1693〜1713
1723〜1748、1754〜1760
1779〜1774、1777〜1785
1826、1898〜1977
鎌倉かまくら市立しりつ腰越こしごえ中学校ちゅうがっこう
腰越こしごえいち丁目ちょうめ 全域ぜんいき 鎌倉かまくら市立しりつ腰越こしごえ小学校しょうがっこう 鎌倉かまくら市立しりつ腰越こしごえ中学校ちゅうがっこう
腰越こしごえ丁目ちょうめ 全域ぜんいき
腰越こしごえさん丁目ちょうめ 全域ぜんいき
腰越こしごえよん丁目ちょうめ 全域ぜんいき
腰越こしごえ丁目ちょうめ 全域ぜんいき

事業じぎょうしょ

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2021ねんれい3ねん現在げんざい経済けいざいセンサス調査ちょうさによる事業じぎょうしょすう従業じゅうぎょう員数いんずう以下いかとおりである[23]

大字だいじひのと 事業じぎょうしょすう 従業じゅうぎょう員数いんずう
腰越こしごえ 48事業じぎょうしょ 214にん
腰越こしごえいち丁目ちょうめ 27事業じぎょうしょ 833にん
腰越こしごえ丁目ちょうめ 56事業じぎょうしょ 187にん
腰越こしごえさん丁目ちょうめ 86事業じぎょうしょ 362にん
腰越こしごえよん丁目ちょうめ 23事業じぎょうしょ 194にん
腰越こしごえ丁目ちょうめ 30事業じぎょうしょ 171にん
けい 270事業じぎょうしょ 1,961にん

事業じぎょうしゃすう変遷へんせん

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経済けいざいセンサスによる事業じぎょうしょすう推移すいい

事業じぎょうしゃすう推移すいい
とし 事業じぎょうしゃすう
2016ねん平成へいせい28ねん[24]
253
2021ねんれい3ねん[23]
270

従業じゅうぎょう員数いんずう変遷へんせん

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経済けいざいセンサスによる従業じゅうぎょう員数いんずう推移すいい

従業じゅうぎょういんすう推移すいい
とし 従業じゅうぎょう員数いんずう
2016ねん平成へいせい28ねん[24]
1,912
2021ねんれい3ねん[23]
1,961

交通こうつう

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鉄道てつどう

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  • 国道こくどう134ごう

伝説でんせつ

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むかし鎌倉かまくら深沢ふかさわにはおおきなみずうみがありとうりゅうんでいた。じゅうろくにん子供こどもがいた津村つむら長者ちょうじゃ子供こどもたち一人ひとりのこらずとうりゅう犠牲ぎせいとなり“えつ”が腰越こしごえ地名ちめいこりだという。そのとうりゅうは、しま弁財天べざいてん悪業あくごういましめられ守護神しゅごじんとして龍口りゅうぐち明神みょうじんしゃまつられたとされている[25]

腰越こしごえ舞台ぶたいとした作品さくひん

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音楽おんがく
映画えいが

日本にっぽん郵便ゆうびん

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脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b まち丁字ていじべつ地域ちいきべつ人口じんこう世帯せたいすう国勢調査こくせいちょうさ基準きじゅん各月かくつき平成へいせい13ねん~)” (XLSX). 鎌倉かまくら (2023ねん9がつ12にち). 2023ねん9がつ17にち閲覧えつらん。 “(ファイルもとのページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ れい4ねん(2022ねんばん 鎌倉かまくら統計とうけい” (PDF). 鎌倉かまくら. 2023ねん8がつ14にち閲覧えつらん(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b c 腰越こしごえ郵便ゆうびん番号ばんごう”. 日本にっぽん郵便ゆうびん. 2023ねん8がつ9にち閲覧えつらん
  4. ^ 市外しがい局番きょくばん一覧いちらん”. 総務そうむしょう. 2019ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  5. ^ 鎌倉かまくらまち名称めいしょうおよ住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしじょうきょう”. 鎌倉かまくら (2017ねん2がつ7にち). 2018ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  6. ^ 新編しんぺん相模さがみこく風土記ふどき稿こう 1932, p. 174.
  7. ^ 国土こくど交通省こうつうしょう地価ちか公示こうじ都道府県とどうふけん地価ちか調査ちょうさ”. 国土こくど交通こうつうしょう. 2023ねん8がつ9にち閲覧えつらん
  8. ^ 新編しんぺん相模さがみこく風土記ふどき稿こう 1932, p. 175.
  9. ^ 皇国こうこく地誌ちしざん稿こう
  10. ^ 1966ねん昭和しょうわ41ねん)11月30にち自治省じちしょう告示こくじだい176ごう住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっししたけん
  11. ^ 1968ねん昭和しょうわ43ねん)8がつ16にち自治省じちしょう告示こくじだい164ごう住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっししたけん
  12. ^ 1969ねん昭和しょうわ44ねん)7がつ2にち自治省じちしょう告示こくじだい113ごう住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっししたけん
  13. ^ 1970ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ2にち自治省じちしょう告示こくじだい22ごう住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっししたけん
  14. ^ 1973ねん昭和しょうわ48ねん)2がつ26にち自治省じちしょう告示こくじだい27ごう住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっししたけん
  15. ^ a b 平成へいせい7ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat) - 男女だんじょべつ人口じんこうおよ世帯せたいすうまちよろとう”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2014ねん3がつ28にち). 2019ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  16. ^ a b 平成へいせい12ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat) - 男女だんじょべつ人口じんこうおよ世帯せたいすうまちよろとう”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2014ねん5がつ30にち). 2019ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  17. ^ a b 平成へいせい17ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat) - 男女だんじょべつ人口じんこうおよ世帯せたいすうまちよろとう”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2014ねん6がつ27にち). 2019ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  18. ^ a b 平成へいせい22ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat) - 男女だんじょべつ人口じんこうおよ世帯せたいすうまちよろとう”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2012ねん1がつ20日はつか). 2019ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  19. ^ a b 平成へいせい27ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat) - 男女だんじょべつ人口じんこうおよ世帯せたいすうまちよろとう”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2017ねん1がつ27にち). 2019ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  20. ^ a b れい2ねん国勢調査こくせいちょうさ調査ちょうさ結果けっか(e-Stat) -男女だんじょべつ人口じんこう外国がいこくじん人口じんこうおよ世帯せたいすうまちよろとう”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2022ねん2がつ10日とおか). 2022ねん2がつ20日はつか閲覧えつらん
  21. ^ 鎌倉かまくら市立しりつ小学校しょうがっこう通学つうがく区域くいき”. 鎌倉かまくら. 2017ねん7がつ6にち閲覧えつらん
  22. ^ 鎌倉かまくら市立しりつ中学校ちゅうがっこう通学つうがく区域くいき”. 鎌倉かまくら. 2017ねん7がつ6にち閲覧えつらん
  23. ^ a b c 経済けいざいセンサス‐活動かつどう調査ちょうさ / れいねん経済けいざいセンサス‐活動かつどう調査ちょうさ / 事業じぎょうしょかんする集計しゅうけい 産業さんぎょう横断おうだんてき集計しゅうけい 事業じぎょうしょすう従業じゅうぎょうしゃすうまちひのと大字だいじべつ結果けっか”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2023ねん6がつ27にち). 2023ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  24. ^ a b 経済けいざいセンサス‐活動かつどう調査ちょうさ / 平成へいせい28ねん経済けいざいセンサス‐活動かつどう調査ちょうさ / 事業じぎょうしょかんする集計しゅうけい 産業さんぎょう横断おうだんてき集計しゅうけい 都道府県とどうふけんべつ結果けっか”. 総務そうむしょう統計とうけいきょく (2018ねん6がつ28にち). 2019ねん10がつ23にち閲覧えつらん
  25. ^ 弁財天べざいてんとうりゅう藤沢ふじさわ)」『神奈川かながわ伝説でんせつ』135 - 138ぺーじ
  26. ^ 郵便ゆうびん番号ばんごう簿 2022年度ねんどばん” (PDF). 日本にっぽん郵便ゆうびん. 2023ねん7がつ17にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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