中院なかのいん 通とおる方かた(なかのいん みちかた)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんきの公卿くぎょう、故こ実家じっかで歌人かじん。正せい二に位い・源みなもと通とおる親おやの五ご男なん。中院なかのいん家かの祖そとされている。土御門つちみかど通とおる方かたとも。
文治ぶんじ5年ねん(1189年ねん)、源みなもと通とおる親おやの五ご男おとことして誕生たんじょう。母ははは藤原ふじわら範子のりこ。
6歳さいで従したがえ五ご位い下かを授さづけられ、翌年よくねんには父ちちの知行ちぎょう国こくであった因幡いなば国こくが与あたえられる。建けん暦れき元年がんねん(1211年ねん)に蔵人くろうど頭あたまとなって翌年よくねんに公卿くぎょうに列れつした。以後いご、参議さんぎ・検非違使けびいし別当べっとう・権けん中納言ちゅうなごんを歴任れきにんするが、承久じょうきゅうの乱らん後のち恐懼きょうく処分しょぶんを受うけて謹慎きんしんした。乱らん後ごは同母どうぼ姉あね・承うけたまわ明あかり門もん院いんとその孫まご・邦仁くにひと王おう(土御門天皇つちみかどてんのうの子こ、後ごの後こう嵯峨天皇さがてんのう)を後見こうけんした。
安貞やすさだ元年がんねん(1227年ねん)に中納言ちゅうなごん、2年ねん後ごに権けん大納言だいなごんとなる。その間あいだに宮廷きゅうてい行事ぎょうじにおける服装ふくそうなどの有職故実ゆうそくこじつについてまとめた『飾かざり抄しょう』を著あらわした。歌人かじんとしては『新しん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう』他たに10首しゅ収おさめられている。
暦こよみ仁ひとし元年がんねん(1238年ねん)、大納言だいなごんに昇のぼったものの、間まもなく病やまいで倒たおれ、その年としの暮くれに薨去こうきょ。享年きょうねん50。