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中院通方 - Wikipedia

中院なかのいんとおるかた

鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんき公卿くぎょう実家じっか歌人かじんみなもとどおりおやなん中院ちゅういん勅撰ちょくせんしゅうしん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう以下いかに10しゅいれしゅう子孫しそん中院ちゅういん北畠きたばたけ大納言だいなごん

中院なかのいん とおるかた(なかのいん みちかた)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき公卿くぎょう実家じっか歌人かじんせいみなもととおるおやなん中院なかのいんとされている。土御門つちみかどとおるかたとも。

 
中院なかのいん とおるかた
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 文治ぶんじ5ねん1189ねん
死没しぼつ こよみひとし元年がんねん12月28にち1239ねん2がつ3にち
別名べつめい 土御門つちみかどとおるかた
官位かんい せい大納言だいなごん
主君しゅくん 後鳥羽ごとば天皇てんのう土御門天皇つちみかどてんのう順徳天皇じゅんとくてんのう仲恭天皇ちゅうきょうてんのうこう堀河ほりかわ天皇てんのう四条しじょう天皇てんのう
氏族しぞく 村上むらかみはじめ中院なかのいん
父母ちちはは ちちみなもととおるおやはは藤原ふじわら範子のりこ
兄弟きょうだい みなもととおるむね堀川ほりかわとおる久我くがとおるこう土御門つちみかどじょうどおりつうかた土御門つちみかど通行つうこうほか
やしなえ兄弟きょうだいみなもとざいのうえん
つま 藤原ふじわら則子のりこ藤原ふじわらちょうけんむすめ一条いちじょうのうむすめみなもとまさよりゆきむすめ
みなもととおるつうなり北畠きたばたけみやび土御門つちみかどあらわかた土御門つちみかど通世みちよ
大納言だいなごんきょくこう嵯峨さがいん典侍てんじ)、
花山院かさんのいんとおるみやびしつほか
特記とっき
事項じこう
中院なかのいん
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

文治ぶんじ5ねん1189ねん)、みなもととおるおやおとことして誕生たんじょうはは藤原ふじわら範子のりこ

6さいしたがえさづけられ、翌年よくねんにはちち知行ちぎょうこくであった因幡いなばこくあたえられる。けんれき元年がんねん1211ねん)に蔵人くろうどあたまとなって翌年よくねん公卿くぎょうれつした。以後いご参議さんぎ検非違使けびいし別当べっとうけん中納言ちゅうなごん歴任れきにんするが、承久じょうきゅうらんのち恐懼きょうく処分しょぶんけて謹慎きんしんした。らん同母どうぼあねうけたまわあかりもんいんとそのまご邦仁くにひとおう土御門天皇つちみかどてんのうこう嵯峨天皇さがてんのう)を後見こうけんした。

安貞やすさだ元年がんねん1227ねん)に中納言ちゅうなごん、2ねんけん大納言だいなごんとなる。そのあいだ宮廷きゅうてい行事ぎょうじにおける服装ふくそうなどの有職故実ゆうそくこじつについてまとめた『かざりしょう』をあらわした。歌人かじんとしては『しん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに10しゅおさめられている。

こよみひとし元年がんねん1238ねん)、大納言だいなごんのぼったものの、もなくやまいたおれ、そのとしれに薨去こうきょ享年きょうねん50。

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
中院なかのいん当主とうしゅ
初代しょだい
次代じだい
中院なかのいんとおるなり