亀井かめい 重しげる清きよし(かめい しげきよ)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきの武将ぶしょう。
源義経みなもとのよしつねの郎党ろうとうで、義経よしつね四天王してんのうのひとり。弓ゆみの名手めいしゅと伝つたわる。
藤白ふじしろ鈴木すずき氏しの一族いちぞくで、兄あにに鈴木すずき重しげる家かがいた。また、『続ぞく風土記ふどき』の「藤白ふじしろ浦うら旧家きゅうか、地ち士し鈴木すずき三郎さぶろう」によると重おも清きよしは佐々木ささき秀義ひでよしの六ろく男なんで、義経よしつねの命いのちで重じゅう家かと義兄弟ぎきょうだいの契ちぎりを交かわしたとされる。
『吾妻あづま鏡きょう』文治ぶんじ5年ねん(1185年ねん)5月がつ7日にち条じょうに兄あに頼朝よりともの怒いかりを買かった義経よしつねが、異い心しんのない証あかしとして鎌倉かまくらへ起請文きしょうもんを送おくった使者ししゃとして亀井かめい六郎ろくろうの名なが見みられる。この起請文きしょうもんは、義経よしつねがそれまで勝手かってな振ふる舞まいをしてきて、今いまになって頼朝よりともの怒いかりを聞きいて初はじめてこのような使者ししゃを送おくって来きたものとして許ゆるされず、かえって頼朝よりともの怒いかりを深ふかめる原因げんいんになった。
『源平げんぺい盛衰せいすい記き』では一ノ谷いちのやの戦たたかいで義経よしつねの郎党ろうとう亀井かめい六郎ろくろう重じゅう清きよしとして登場とうじょうする。『義経よしつね記き』では義経よしつね最期さいごの衣川きぬがわの戦たたかいで「鈴木すずき三郎さぶろう重じゅう家かの弟おとうと亀井かめい六郎ろくろう、生年せいねん23」と名乗なのり、奮戦ふんせんしたのち兄あにと共ともに自害じがいした。