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八カ国連合軍 - Wikipedia

はちカ国かこく連合れんごうぐん

義和よしかずだんたいして派遣はけんされた列強れっきょうぐん
はちカ国かこく連合れんごうぐん戦力せんりょく
公使館こうしかん英語えいごばん救助きゅうじょ作戦さくせん


はちカ国かこく連合れんごうぐん(1900ねん
ひだりから[1]: えいべいえいりょうごうえいりょうしるしどくふつおうひろし
くに 軍艦ぐんかん
(せき)
海軍かいぐん
(ひと)
陸軍りくぐん
(ひと)
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 18 540 20,300
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく 10 750 12,400
イギリスの旗 イギリス帝国ていこく 8 2,020 10,000
フランスの旗 フランス共和きょうわこく 5 390 3,130
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく 2 295 3,125
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく 5 600 300
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく 4 296 0
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく 2 80 0
総計そうけい 54 4,971 49,255

はちカ国かこく連合れんごうぐん(はっかこくれんごうぐん、中国ちゅうごく: はちこく联军; 拼音: Bāguó Liánjūn英語えいご: Eight-Nation Alliance)は、オーストリア=ハンガリー帝国ていこくフランスドイツイタリア日本にっぽんロシアイギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる連合れんごうぐんであり、義和よしかずだんらんなか清朝せいちょう干渉かんしょうし、1900ねん明治めいじ33ねん)のなつ北京ぺきん外交がいこう公使館こうしかん包囲ほういいた。

カラーされたはちカ国かこく連合れんごうぐん写真しゃしん(1900ねん

背景はいけいおも出来事できごと

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義和よしかずだんらんどき軍事ぐんじ大国たいこくとその軍艦ぐんかんひだりからみぎへ、  イタリア  アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく  フランス  オーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん  ドイツ帝国ていこく海軍かいぐん  イギリス海軍かいぐん ロシア帝国ていこく海軍かいぐん(1900ねん日本にっぽん)。

義和よしかずだん農民のうみん運動うんどう[2]であり、1899ねん1900ねん中国ちゅうごく北部ほくぶ外国がいこくじん宣教師せんきょうし国民こくみん中国人ちゅうごくじんキリスト教徒きりすときょうと攻撃こうげきし、殺害さつがいした。清国きよくに政府せいふ皇帝こうていぐん義和よしかずだん支持しじし、満州まんしゅうさかえろく将軍しょうぐんもと北京ぺきん公使館こうしかん区画くかく避難ひなんしていた海外かいがい外交がいこうかん一般いっぱん市民しみん包囲ほういした[3]

公使館こうしかん区画くかく解放かいほうする当初とうしょこころみが失敗しっぱいしたのち、1900ねん8がつ連合れんごうぐん天津てんしんから北京ぺきん行進こうしんし、いくつかの戦闘せんとう皇帝こうていぐん武威ぶい部隊ぶたいやぶり、義和よしかずだんらん包囲ほうい終了しゅうりょうさせた。

連合れんごうぐん隊員たいいん北京ぺきん占領せんりょうし、略奪りゃくだつはじめた[4][5]連合れんごうぐん様々さまざまくにからのやく45,000にん軍隊ぐんたい構成こうせいされた。軍事ぐんじ行動こうどう最後さいごに、きよし政府せいふは1901ねん北京ぺきん議定ぎていしょ調印ちょういんした[6]

海外かいがい大使館たいしかん北大ほくだい聖堂せいどうへの包囲ほうい攻撃こうげき

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包囲ほうい北京ぺきんにある外交がいこう公使館こうしかん最前線さいぜんせん場所ばしょ

北京ぺきん公使館こうしかん区域くいき中国ちゅうごくぐん武威ぶい部隊ぶたいといくらかの義和よしかずだんいんによって6がつ20日はつかから8がつ14にちまでの55日間にちかん包囲ほういされていた。合計ごうけい473にん外国がいこく人民じんみんあいだじん、8カ国かこくからの409にん兵士へいしやく3000にん中国人ちゅうごくじんキリスト教徒きりすときょうと公使館こうしかん区画くかく避難ひなんした[7]。イギリス大使たいしクロード・マクドナルド北京ぺきん公使館こうしかんづけ武官ぶかんしば五郎ごろう指揮しき[8]で、公使館こうしかん職員しょくいん警備けいびいん小型こがた武器ぶきと、中国人ちゅうごくじんキリスト教徒きりすときょうとによって地中ちちゅうから発掘はっくつされて連合れんごうぐんわたされたひとつのふるぜんそうほう敷地しきちない防衛ぼうえいした。このぜんそうほう砲身ほうしんはイギリスせいほうイタリア製いたりあせい砲弾ほうだんはロシアせい砲手ほうしゅはアメリカぐんだったため国際こくさいほうとあだされた[9]

また、北京ぺきんでは北大ほくだい聖堂せいどうとカトリック教会きょうかい西にし什庫きょうどう英語えいごばん包囲ほういされていた。西にし什庫きょうどうは43にんのフランスとイタリアの兵士へいし、33にん外国がいこくじん神父しんぷ修道しゅうどうおんな、そしてやく3,200にん中国人ちゅうごくじんキリスト教徒きりすときょうとによって防衛ぼうえいされていた。かれらは食糧しょくりょう不足ふそくなやまされ、また中国ちゅうごくがわ敷地しきちまでトンネルをって地雷じらい爆発ばくはつさせたためおおくの犠牲ぎせいしゃした[10]

参加さんかこく

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オーストリア=ハンガリー帝国ていこく

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オーストリア=ハンガリー帝国ていこく義和よしかずだんらんのはじめ、ロシアの租借そしゃくである旅順りょじゅんこういちせき巡洋艦じゅんようかんツェンタ停泊ていはくしていた[11]義和よしかずだんらんにおいてオーストリア=ハンガリーが派遣はけんしたぐんは、このツェンタからの水兵すいへいだけだった[12]。いくつかの分遣ぶんけんたい包囲ほうい公使館こうしかん防衛ぼうえい関与かんよし、一方いっぽうべつ分遣ぶんけんたい救助きゅうじょ関与かんよした[12] 。6月には、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく義和よしかずだんぐん抵抗ていこうして天津てんしん鉄道てつどう防衛ぼうえいし、北京ぺきんとおりしゅうちかくにあるうみかわのいくつかの武装ぶそうしたジャンクせん砲撃ほうげきした。分遣ぶんけんたい天津てんしんへの進路しんろ見渡みわたすことのできるだい沽砲だい占領せんりょうとイギリスのロジャー・キーズ船長せんちょうによる中国ちゅうごく海龍かいりゅうきゅう駆逐くちくかん4せき拿捕だほにも参加さんかした。

オーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん巡洋艦じゅんようかんカイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジアカイゼリン・エリザベート、アスペルンと海兵かいへいたい一団いちだん清国きよくにおくった。しかしながら到着とうちゃくおそすぎたために、9月に到着とうちゃくするころにはほとんどの戦闘せんとう終了しゅうりょうし、公使館こうしかん解放かいほうされていた。ツェンタととも行動こうどうしていた巡洋艦じゅんようかん清国きよくにのいくつかのとりでへの砲撃ほうげき占領せんりょう関与かんよした[12]。オーストリア=ハンガリー帝国ていこく義和よしかずだんらんちゅう犠牲ぎせいしゃしょ外国がいこくなか最小さいしょうであった。義和よしかずだんらん、オーストリア=ハンガリーの巡洋艦じゅんようかん恒常こうじょうてき清国きよくに沿岸えんがん維持いじされ、海兵かいへいたい分遣ぶんけんたい北京ぺきんのオーストリア=ハンガリー大使館たいしかん配置はいちされた[12]。1959ねんのミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』で有名ゆうめいゲオルク・フォン・トラップ中尉ちゅういは、義和よしかずだんらんちゅう巡洋艦じゅんようかんカイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジアじょうでの勇敢ゆうかんさにたいして勲章くんしょう授与じゅよされた。

イギリス帝国ていこく

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イギリスぐん連合れんごうぐんなかさん番目ばんめ規模きぼであったが、だい部分ぶぶんはインドからであり、海軍かいぐん旅団りょだん王立おうりつ砲兵ほうへいだい12中隊ちゅうたい香港ほんこんシンガポールほう兵隊へいたい王立おうりつウェールズ・フュージリア連隊れんたいだい2歩兵ほへい大隊だいたい、ベンガルだい1やり連隊れんたい、ラージプートだい7歩兵ほへい連隊れんたい、パンジャーブだい24歩兵ほへい連隊れんたい、シクだい1歩兵ほへい連隊れんたい香港ほんこん連隊れんたい中国ちゅうごくだい1連隊れんたい王立おうりつ工兵こうへいたい支援しえん人員じんいんから構成こうせいされていた[13][14]

オーストラリア植民しょくみん

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オーストラリア植民しょくみんのいくつかはイギリスの分遣ぶんけんたいささえるために海軍かいぐん陸軍りくぐん分遣ぶんけんたいおくった。みなみオーストラリアしゅう海軍かいぐんすべて、砲艦ほうかんMASプロテクターを派遣はけんした[15]。オーストラリアは公式こうしきにははちカ国かこく連合れんごうぐんには参加さんかしていなかったが、はちカ国かこく連合れんごうぐん物資ぶっし部隊ぶたい供給きょうきゅうした[16]

イギリスは10,000にん軍隊ぐんたい提供ていきょうしたが、だい部分ぶぶんはバルーチぞく、シク教徒きょうと、グルカ、ラージプート、パンジャーブからなるインドぐんであった[17][18][19]

ドイツ帝国ていこく

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義和よしかずだんから鹵獲ろかくしたはた披露ひろうするドイツひがしアジア第一歩だいいっぽへい連隊れんたい将兵しょうへい

ドイツじん宣教師せんきょうしが1897ねん11月に殺害さつがいされた。その報復ほうふくに、ドイツは海軍かいぐん根拠地こんきょち商業しょうぎょうようみなととして利用りようするためににかわしゅう青島ちんたおとした。青島ちんたおふくにかわしゅうわん租借そしゃくはドイツ帝国ていこく海軍かいぐんによって統治とうちされ、占領せんりょうされた。駐屯ちゅうとんぐん海軍かいぐん砲兵ほうへい中隊ちゅうたい海軍かいぐんだいさん歩兵ほへい大隊だいたい構成こうせいされていた。

 
義和よしかずだんらんちゅう青島ちんたおのドイツじん将校しょうこう

義和よしかずだんらん勃発ぼっぱつしたとき、だいさん海兵かいへい大隊だいたいはドイツの利益りえきまもるためにしょうだん青島ちんたおから北京ぺきん天津てんしん派遣はけんし、一方いっぽうだい部分ぶぶん青島ちんたおたいする攻撃こうげきふせぐために後方こうほうのこったままだった。北京ぺきん公使館こうしかん包囲ほういは、すぐにドイツとのヨーロッパの軍隊ぐんたいによりおおくの軍勢ぐんぜい清国きよくに派遣はけんする必要ひつようがあると確信かくしんさせた。ドイツから最初さいしょ到着とうちゃくした軍隊ぐんたいだいいちおよびだい海兵かいへい大隊だいたいであり、すぐにひがしアジア遠征えんせいぐんつづいた。

しかしおおくのドイツぐん到着とうちゃくおくれて治安ちあん維持いじしか役目やくめたせず、1901ねん帰還きかんした。

 
天津てんしんフランス租界そかい行進こうしんするフランスぐん植民しょくみん地歩ちほへい

インドシナのフランスぐんフランスりょうインドシナから派遣はけんされた。

イタリア王国おうこく

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イタリアぐん当初とうしょ軍艦ぐんかんからの水兵すいへい構成こうせいされていたが、のちにイタリアから将校しょうこう83にん軍隊ぐんたい1,882にんうま178とうふくむよりおおきな分遣ぶんけんたい派遣はけんされた。

大日本帝国だいにっぽんていこく

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イギリスじん司令しれいかんエドワード・ホバート・シーモア英語えいごばん指揮しき日本にっぽん海軍かいぐん陸戦りくせんたい

日本にっぽんは20,840にん軍隊ぐんたいだけでなく18せき軍艦ぐんかんふく連合れんごうぐんなか最大さいだい軍隊ぐんたい分遣ぶんけんたい派遣はけんした。全体ぜんたいのうち20,300にん山口やまぐちしん中将ちゅうじょう指揮しきだい歩兵ほへい師団しだんで、のこりの540にん海軍かいぐん海軍かいぐん陸戦りくせんたいであった。

ロシア帝国ていこく

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義和よしかずだんらんちゅうのロシアぐん

ロシアはおも旅順りょじゅんこうウラジオストクみなとからの守備しゅびたいから構成こうせいされた軍隊ぐんたい12,400にんからなる日本にっぽんいで番目ばんめ規模きぼ軍隊ぐんたい派遣はけんした。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

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義和よしかずだんらんちゅうのアメリカへい

アメリカでは、義和よしかずだんらん鎮圧ちんあつが「中国ちゅうごく救援きゅうえん遠征えんせいぐん」としてられていた[20]。アメリカは、おもに1898ねんフィリピン併合へいごう以来いらいフィリピンにアメリカぐん配置はいちされていたため、義和よしかずだんらん鎮圧ちんあつにおいておおきな役割やくわりたすことができた[21]包囲ほうい外国がいこくぐんなかには、USSオレゴンとUSSニューアークからのアメリカじん海兵かいへい隊員たいいん水兵すいへい56にんがいた[21]おも配置はいちされたアメリカぐん構成こうせいは、アドナ・チャフィー指揮しきだい9歩兵ほへい連隊れんたいだい14歩兵ほへい連隊れんたいだい6騎兵隊きへいたいだい5兵隊へいたい海軍かいぐん歩兵ほへい大隊だいたいであった[22][23]

影響えいきょう

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はちカ国かこく連合れんごうぐん兵士へいしおよびヨーロッパの補充ほじゅうへい

前述ぜんじゅつはちカ国かこく軍隊ぐんたいは1900ねん8がつ14にち北京ぺきん侵略しんりゃくしてむらさき禁城きんじょう占領せんりょうした[24]西にしふとしきさき皇帝こうてい政府せいふ高官こうかんらはむらさき禁城きんじょうから西安しーあん逃亡とうぼうし、鴻章こうしう連合れんごうぐんとの和平わへい交渉こうしょう派遣はけんした。

研究けんきゅう論文ろんぶんでケネス・クラークは「北京ぺきん獲得かくとくのち連合れんごうぐん首都しゅとから略奪りゃくだつし、かれらがヨーロッパへかえ途中とちゅう発見はっけんしたおおくの中国ちゅうごく遺産いさんともむらさき禁城きんじょう略奪りゃくだつさえした。」とべている[25]

残虐ざんぎゃく行為こうい

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ロシアじん拉致らちされた中国人ちゅうごくじん

かぞえきれないほどの義和よしかずだんだとうたがわれた人々ひとびと義和よしかずだんらん最中さいちゅうやその斬首ざんしゅされた。この出来事できごと短編たんぺん映画えいが主題しゅだいになった[26]

アメリカの海兵かいへい隊員たいいんは、ドイツへいとロシアへい女性じょせい強姦ごうかんしたあとで彼女かのじょたちを銃剣じゅうけんいて殺害さつがいするのをたとしるしていた[27]

北京ぺきんでは、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教しきょうが、カトリック教徒きょうとのこるために必要ひつよう最低限さいていげん生活せいかつ必需ひつじゅひんと50りょう以下いかぎん強奪ごうだつを8がつ18にちから26にちまで許可きょかする告示こくじをしたとわれていたが、本人ほんにんはそのような告示こくじしていないと否定ひていした[28]

一方いっぽう義和よしかずだん残虐ざんぎゃく行為こういおこなっていた。おおくのキリスト教徒きりすときょうと義和よしかずだんらんまえ殺害さつがいされた。義和よしかずだんらんまえ最中さいちゅう殺害さつがいされたせい教徒きょうと集団しゅうだん中国ちゅうごくせいなる殉教者じゅんきょうしゃとしてこの記念きねんされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 木村きむら靖二やすじ岸本きしもと美緒みお小松こまつ久男ひさお油井ゆいだい三郎さぶろう青木あおきやすし水島みずしまつかさ橋場はしばつる佐藤さとうつぎだか株式会社かぶしきがいしゃ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ詳説しょうせつ世界せかい 世界せかいB』(改訂かいていばん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2019ねん3がつ5にち、323ぺーじISBN 978-4-634-70034-5。「義和よしかずだん事件じけん出兵しゅっぺいした連合れんごうぐん兵士へいしたち ひだりからイギリス・アメリカ・ロシア・イギリスりょうインド・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・日本にっぽん各国かっこく兵士へいしたち。」 
  2. ^ 義和よしかずだんたたかい」と「義和よしかずだん事件じけん」のちがいは? | 生徒せいと広場ひろば”. 浜島はまじま書店しょてん. 2023ねん12月31にち閲覧えつらん
  3. ^ Grant Hayter-Menzies, Pamela Kyle Crossley (2008). Imperial masquerade: the legend of Princess Der Ling. Hong Kong University Press. p. 89. ISBN 962-209-881-9. https://books.google.co.jp/books?id=sNPFc7kkjwAC&pg=PA88&dq=muslim+dong+fuxiang&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=cracking%20of%20fireworks&f=false 2010ねん10がつ31にち閲覧えつらん 
  4. ^ O'Conner, David The Boxer Rebellion London:Robert Hale & Company, 1973, Chap. 16. ISBN 0-7091-4780-5
  5. ^ Hevia, James L. 'Looting and its discontents: Moral discourse and the plunder of Beijing, 1900–1901' in R. Bickers and R.G. Tiedemann (eds.), The Boxers, China, and the world Lanham, Maryland:Rowman & Littlefield Publishers, 2009
  6. ^ Eight-Nation Alliance in Section 4 Archived 2008ねん12月2にち, at the Wayback Machine.
  7. ^ Thompson, 84-85
  8. ^ だいはん, デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus,百科ひゃっか事典じてんマイペディア,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん. “しば五郎ごろうとは”. コトバンク. 2021ねん9がつ7にち閲覧えつらん
  9. ^ Benjamin R. Beede (1994). The War of 1898, and U.S. interventions, 1898–1934: an encyclopedia. Taylor & Francis. p. 50. ISBN 0-8240-5624-8. https://books.google.co.jp/books?id=48g116X9IIwC&pg=PA50&dq=prince+tuan+replaced+prince+qing&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false 2010ねん6がつ28にち閲覧えつらん 
  10. ^ Thompson, 85, 170–171
  11. ^ Sondhaus 1994, p. 139.
  12. ^ a b c d Sondhaus 1994, p. 140.
  13. ^ Bodin, Lynn (1979). The Boxer Rebellion. Osprey Publishing. p. 34. ISBN 9780850453355. https://books.google.com/?id=2YleP1OP4HsC&lpg=PA34&dq=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&pg=PA34#v=onepage&q=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&f=false 22 January 2013閲覧えつらん 
  14. ^ Harrington, Peter (2001). Peking 1900: The Boxer Rebellion. Osprey Publishing. p. 29. ISBN 9781841761817. https://books.google.com/?id=xxE6rybpvHQC&lpg=PA29&dq=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&pg=PA29#v=onepage&q=British%20Regiment%20%22Boxer%20rebellion%22&f=false 22 January 2013閲覧えつらん 
  15. ^ Nicholls, B., Bluejackets and Boxers
  16. ^ China (Boxer Rebellion), 1900–01”. Australian War Memorial. Australian Government. 22 January 2013閲覧えつらん
  17. ^ Krishnan, Ananth (8 July 2011). “The forgotten history of British India troops in China”. The Hindu (Beijing). http://www.thehindu.com/todays-paper/tp-national/the-forgotten-history-of-british-india-troops-in-china/article2209465.ece?textsize=large&test=1 22 January 2013閲覧えつらん 
  18. ^ Raugh, Harold E. (2004). The Victorians at War, 1815-1914: An Encyclopedia of British Military History. ABC-CLIO. p. 177. ISBN 9781576079256. https://books.google.co.jp/books?id=HvE_Pa_ZlfsC&lpg=PA177&ots=8CE3exdB5z&dq=%22British+units%22+Boxer+rebellion&pg=PA177&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=%22British%20units%22%20Boxer%20rebellion&f=false 22 January 2013閲覧えつらん 
  19. ^ Lee Lanning, Colonel Michael (2007). Mercenaries: Soldiers of Fortune, from Ancient Greece to Today#s Private Military Companies. Random House Digital, Inc.. p. 105. ISBN 9780307416049. https://books.google.co.jp/books?id=bnnIIHaj6LIC&lpg=PA105&ots=H4-GpJbH3G&dq=%22British+units%22+Boxer+rebellion&pg=PA105&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=%22British%20units%22%20Boxer%20rebellion&f=false 22 December 2013閲覧えつらん 
  20. ^ Documents of the Boxer Rebellion (China Relief Expedition), 1900–1901”. Naval History & Heritage Command. United States Navy (2000ねん3がつ13にち). 2013ねん2がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  21. ^ a b The Boxer Rebellion and the U.S. Navy, 1900–1901”. Naval History & Heritage Command. United States Navy. 2013ねん1がつ2にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  22. ^ U.S. Army Campaigns: China Relief Expedition”. United States Army Center of Military History. United States Army (19 November 2010). 22 January 2013閲覧えつらん
  23. ^ Plante, Trevor K. (1999). “U.S. Marines in the Boxer Rebellion”. Prologue Magazine (United States National Archive) 31 (4). http://www.archives.gov/publications/prologue/1999/winter/boxer-rebellion-1.html 22 January 2013閲覧えつらん. 
  24. ^ China Central Television, The Palace Museum (2005). Gugong: "XI. Flight of the National Treasures"
  25. ^ Kenneth G. Clark THE BOXER UPRISING 1899–1900. Russo-Japanese War Research Society
  26. ^ Beheading a Chinese Boxer at IMDB
  27. ^ Robert B. Edgerton (1997). Warriors of the rising sun: a history of the Japanese military. W.W. Norton & Company. p. 80. ISBN 0-393-04085-2. https://books.google.co.jp/books?id=wkHyjjbv-yEC&pg=PA70&dq=sugiyama+akira&redir_esc=y&hl=ja#v=snippet&q=raped%20woman%20attractive%20marine&f=false 25 April 2011閲覧えつらん. "Several U.S. Marines, hardly squeamish men, were so sickened by what they saw that they violently restrained some of their more rapacious German allies, leaving at least one wounded." 
  28. ^ 使つかいかいねん鉴》 1902, pp. 229-230

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Harrington, Peter (2001). Peking 1900: The Boxer Rebellion. Oxford: Osprey. ISBN 1-84176-181-8 
  • Sondhaus, Lawrence (1994). The Naval Policy of Austria-Hungary, 1867–1918: Navalism, Industrial Development, and the Politics of Dualism. Purdue University Press. ISBN 1-55753-034-3 
  • Thompson, Larry Clinton. William Scott Ament and the Boxer Rebellion. Jefferson, NC: McFarland, 2009. [1]

関連かんれん項目こうもく

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