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加藤武徳 - Wikipedia

加藤かとう武徳たけのり

日本にっぽん政治せいじ

加藤かとう 武德たけのり(かとう たけのり、1915ねん11月21にち - 2000ねん2がつ9にち)は、日本にっぽん政治せいじ位階いかいせいさん

加藤かとう 武徳たけのり
かとう たけのり
生年月日せいねんがっぴ 1915ねん11月21にち
出生しゅっしょう 日本の旗 岡山おかやまけん笠岡かさおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (2000-02-09) 2000ねん2がつ9にち(84さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 岡山おかやまけん倉敷くらしき 川崎医科大学かわさきいかだいがく附属ふぞく病院びょういん
出身しゅっしんこう 中央大学ちゅうおうだいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう
所属しょぞく政党せいとう自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう→)
無所属むしょぞく→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
子女しじょ 次男じなん加藤かとう紀文のりふみ参議院さんぎいん議員ぎいん
親族しんぞく おとうと加藤かとう六月むつき衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
おい加藤かとう勝信かつのぶ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん

内閣ないかく 福田ふくだ赳夫たけお改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1977ねん11月28にち - 1978ねん12月7にち

選挙せんきょ 岡山おかやまけん選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1950ねん6月5にち - 1956ねん6月3にち
1959ねん6月3にち - 1964ねん
1974ねん7がつ8にち - 1992ねん7がつ7にち

岡山県の旗 公選こうせんだい6・7だい 岡山おかやま県知事けんちじ
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1964ねん11月12にち - 1972ねん11月11にち
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岡山おかやま県知事けんちじ公選こうせんだい6・7だい)、自治じち大臣だいじんだい26だい)、国家こっか公安こうあん委員いいんかい委員いいんちょうだい35だい)、北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんだい40だい)、参議院さんぎいん議員ぎいん(5)。剣道けんどうはん全日本ぜんにほん剣道けんどう連盟れんめい顧問こもん

おとうと農林のうりん水産すいさん大臣だいじん加藤かとう六月むつき次男じなん自由民主党じゆうみんしゅとう参議院さんぎいん議員ぎいん加藤かとう紀文のりふみ義理ぎりおい自由民主党じゆうみんしゅとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん加藤かとう勝信かつのぶ義理ぎりあに渡辺わたなべ武次郎たけじろうがいる。

来歴らいれき人物じんぶつ

編集へんしゅう

岡山おかやまけん笠岡かさおか出身しゅっしん旧制きゅうせい中央大学ちゅうおうだいがく法学部ほうがくぶて、内務省ないむしょう入省にゅうしょう1950ねん参議院さんぎいん議員ぎいん選挙せんきょ岡山おかやまけん選挙せんきょから自由党じゆうとう公認こうにん出馬しゅつばはつ当選とうせん当時とうじ最年少さいねんしょう参院さんいん議員ぎいんだった。保守ほしゅ合同ごうどう自由民主党じゆうみんしゅとううつ通算つうさん当選とうせん5かい1964ねん岡山おかやま県知事けんちじせん出馬しゅつばはつ当選とうせん。28ねんつとめたが、1972ねん知事ちじせん長野ながの士郎しろうやぶ落選らくせん知事ちじ在任ざいにんちゅうの1972ねん山陽新幹線さんようしんかんせん岡山おかやまえきまで開業かいぎょうしたさいに、テープカットをおこなった。

そのふたた参議院さんぎいん議員ぎいんとなり、1977ねん11月から1978ねん12月まで福田ふくだ改造かいぞうないかく自治じち大臣だいじんけん国家こっか公安こうあん委員いいんかい委員いいんちょうけん北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんつとめた。1986ねんあき叙勲じょくん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょうくんはちとうからの昇叙しょうじょ[1][2]1992ねん次男じなん紀文のりふみ地盤じばんゆず政界せいかい引退いんたい議員ぎいん在職ざいしょくちゅう司法しほう試験しけん合格ごうかくしゃ国会こっかい議員ぎいん在職ざいしょく年数ねんすうにより法曹ほうそう資格しかくられるよう弁護士べんごしほう改正かいせいはかったが、たせなかった。引退いんたい司法しほう修習しゅうしゅう(47同期どうきもり雅子まさこ西脇にしわきとおる)を弁護士べんごし転身てんしんした。弁護士べんごしほう改正かいせいは2004ねんおこなわれ、国会こっかい議員ぎいん在職ざいしょく5ねん以上いじょう司法しほう試験しけん合格ごうかくしゃは100あいだ研修けんしゅう弁護士べんごし登録とうろく可能かのうとなった。

2000ねん2がつ9にち急性きゅうせい心不全しんふぜんのため岡山おかやまけん倉敷くらしき川崎医科大学かわさきいかだいがく附属ふぞく病院びょういん死去しきょ、84さいぼつ[3]死没しぼつをもってしたがえななからせいさんじょされる[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 加藤かとう 武徳たけのりhttps://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%20%E6%AD%A6%E5%BE%B3コトバンクより2022ねん12月23にち閲覧えつらん 
  2. ^ 官報かんぽう号外ごうがいとくだい17ごう1ぺーじ 昭和しょうわ61ねん11月5にちごう
  3. ^ 訃報ふほう. 産経新聞さんけいしんぶん. (2000ねん2がつ10日とおか). オリジナルの2001ねん4がつ17にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20010417125248/http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0002/10/paper/today/dead/10dea002.htm 2022ねん12月23にち閲覧えつらん 
  4. ^ 官報かんぽうだい2827ごう9-10ぺーじ 平成へいせい12ねん3がつ13にちごう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 田中たなか二郎じろう佐藤さとういさお野村のむら二郎じろうへん戦後せんご政治せいじ裁判さいばんろく2』第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1980ねん
公職こうしょく
先代せんだい
小川おがわ平二へいじ
  自治じち大臣だいじん
だい25だい:1977ねん - 1978ねん
次代じだい
渋谷しぶやただしぞう
先代せんだい
小川おがわ平二へいじ
  国家こっか公安こうあん委員いいんかい委員いいんちょう
だい35だい:1977ねん - 1978ねん
次代じだい
渋谷しぶやただしぞう
先代せんだい
小川おがわ平二へいじ
  北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん
だい40だい:1977ねん - 1978ねん
次代じだい
渋谷しぶやただしぞう
先代せんだい
三木みきこう
  岡山おかやま県知事けんちじ
公選こうせんだい6 - 7だい:1964ねん - 1972ねん
次代じだい
長野ながの士郎しろう
議会ぎかい
先代せんだい
柳田やなぎだ桃太郎ももたろう
  参議院さんぎいん商工しょうこう委員いいんちょう
1977ねん
次代じだい
くすのき正俊まさとし
先代せんだい
寺本てらもとひろさく
  参議院さんぎいん内閣ないかく委員いいんちょう
1974ねん - 1976ねん
次代じだい
中山なかやま太郎たろう
先代せんだい
久保くぼひとし
  参議院さんぎいん社会しゃかい労働ろうどう委員いいんちょう
1959ねん - 1960ねん
次代じだい
吉武よしたけ恵市けいいち
名誉めいよしょく
先代せんだい
佐々木ささき良作りょうさく
最年少さいねんしょう参議院さんぎいん議員ぎいん
1950ねん5がつ - 1953ねん5がつ
次代じだい
宮沢みやざわ喜一きいち