佐々木 良作
ささき りょうさく | |
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1955 | |
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1947 | |
1977 |
来歴 ・人物
1947
その
エピソード
- 「
良 素 」という号 を持 つ俳人 でもあり、養父 市 の生家 には句碑 も立 てられている。 春日 一幸 とは長 らく盟友 、ライバル関係 にあった。佐々木 は社会党 右派 との連携 を優先 する社 公民 路線 を主導 する一方 、春日 は自公民 路線 を推 しており、両者 は殊 に対立 することが多 かった。ただし佐々木 も三木 派 との「中道 新党 構想 」を推進 していた時期 があり、自民党 ハト派 とは連携 を図 っていた。春日 は、佐々木 が委員 長 を務 めていた当時 「佐々木 委員 長 は面倒 見 が悪 い」「党内 に佐々木 派 なんてほとんどいませんよ。みんな春日 派 です」とゴマをすってきた若手 議員 を「そんなことはない。我輩 が佐々木 派 だ。ああのこうのと言 わずに、委員 長 を助 けることだ」と一喝 した。佐々木 が民社党 委員 長 を辞任 し後継 の体制 を決定 する際 、塚本 三郎 委員 長 の下 で副 委員 長 就任 が決定 した反 春日 派 の永末 英一 は、春日 派 の党 運営 に不満 を漏 らした。これに当時 常任 顧問 だった春日 が「五臓六腑 が煮 えくり返 る」とやり返 し、春日 と佐々木 はあわや灰皿 をつかんでの殴 り合 いとなりかけた。また1988年 、リクルート事件 への関与 が発覚 した塚本 三郎 民社党 委員 長 に辞任 を勧告 した。
「リクルート事件 #各党 の関係 議員 とその後 」も参照
佐々木 は、後年 春日 が病 に倒 れた際 、自 ら春日 邸 を訪 れて春日 を見舞 い、盛 り蕎麦 をたぐり病床 の春日 に食 べさせた。
中曽根 康弘 元 首相 とは親 しい間柄 であった。中曽根 は産経新聞 のインタビューで、1983年 12月衆院 選 で自民党 が過半数割 れした際 に新自由 クラブと共 に民社党 に連立 政権 の参加 を打診 した事 を告白 した。一方 1984年 の二階堂 擁立 構想 では、佐々木 は自民党 内 の反 中曽根 派 (鈴木 善幸 ・福田 赳夫 ・三木 武夫 ら)の倒閣 工作 に同調 。二階堂 進 に対 し、公明党 ・竹 入 義勝 委員 長 と共 に、中曽根 の対抗 馬 として自民党 総裁 選 への出馬 を促 したとされる(結果 として二階堂 は出馬 を断念 し、中曽根 が再選 された)。与謝野 馨 は日本原子力発電 に勤務 していた際 、民社党 議員 団 のヨーロッパ:外遊 に原子力 の専門 家 ・通訳 として同行 、佐々木 と親交 を深 めた。また同 じタイミングで訪欧 していた中曽根 康弘 を合 わせ西 ドイツ・ボンで会食 したが、それが切 っ掛 けとなり与謝野 は中曽根 と面識 ができ、後 に政界 入 りすることとなる。またその際 、佐々木 は与謝野 に「俺 は俺 のやり方 で民主 主義 を守 るために、また正常 な議会 運営 のために努力 して来 たが、政治 家 のあり方 としては、中曽根 さんの方 が正 しいのではないか」と漏 らしている。佐々木 は1957年 (昭和 32年 )8月 10日 の衆議院 科学 技術 振興 対策 特別 委員 会 において、時 の科学技術庁 長官 だった正力 松太郎 に対 し、原子力 発電 推進 の是非 について論戦 を挑 んだ。
先祖
著作
- 『「
一票 差 」の人生 -佐々木 良作 の証言 』国正 武重 編 、朝日新聞社 、平成 元年 。 - 『
鳥 雲 に』(俳句 集 )、平成 5年 。
脚注
参考 文献
- 『
政治 家人 名 事典 』編集 ・発行 -日外 アソシエーツ、1990年 。
関連 項目
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1947 |
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