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二階堂進 - Wikipedia

二階堂にかいどうすすむ

日本にっぽん政治せいじ

二階堂にかいどう すすむ(にかいどう すすむ、1909ねん明治めいじ42ねん10月16にち - 2000ねん平成へいせい12ねん2がつ3にち[1])は、日本にっぽん政治せいじ

二階堂にかいどう すすむ
にかいどう すすむ
文部もんぶ科学かがくしょうより公表こうひょうされた肖像しょうぞう
1966ねん 撮影さつえい
生年月日せいねんがっぴ (1909-10-16) 1909ねん10月16にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 鹿児島かごしまけん肝属きもつきぐん高山たかやまむら
げん肝付きもつきまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2000-02-03) 2000ねん2がつ3にち(90さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう新宿しんじゅく
出身しゅっしんこう みなみカリフォルニア大学だいがく
ぜんしょく 山本やまもと実彦さねひこ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん秘書ひしょ
しん日本にっぽんプロレスコミッショナー
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん協同きょうどうとう→)
協同きょうどう民主党みんしゅとう→)
国民こくみん協同きょうどうとう→)
民主みんしゅ自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう二階堂にかいどうG派閥はばつ
称号しょうごう したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
衆議院しゅうぎいん永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん
国際こくさい関係かんけい学修がくしゅうみなみカリフォルニア大学だいがく

内閣ないかく だい1田中たなか角栄かくえい内閣ないかく
だい2田中たなか角栄かくえい内閣ないかく
だい2田中たなか角栄かくえいだい1改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1972ねん7がつ7にち - 1974ねん11月11にち

内閣ないかく だい1佐藤さとうだい3改造かいぞうないかく
だい2佐藤さとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1966ねん12月3にち - 1967ねん11月25にち

選挙せんきょ 鹿児島かごしまけん全県ぜんけんだい選挙せんきょ)→
きゅう鹿児島かごしま3
当選とうせん回数かいすう 16かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん4がつ11にち - 1947ねん3月31にち
1949ねん1がつ23にち - 1952ねん8がつ28にち
1955ねん2がつ27にち - 1996ねん9月27にち

その職歴しょくれき
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
総裁そうさい中曽根なかそね康弘やすひろ
1984ねん4がつ - 1986ねん7がつ
だい16・23-24だい 自由民主党じゆうみんしゅとう幹事かんじちょう
総裁そうさい田中たなか角栄かくえい
1974ねん11月 - 1974ねん12月
総裁そうさい鈴木すずき善幸ぜんこう中曽根なかそね康弘やすひろ
1981ねん11月 - 1983ねん12月)
だい24だい 自由民主党じゆうみんしゅとう総務そうむ会長かいちょう
総裁そうさい鈴木すずき善幸ぜんこう
1980ねん - 1981ねん
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内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんだい36-37だい)、北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんだい27-28だい)、科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかんだい18-19だい)、原子力げんしりょく委員いいんかい委員いいんちょうだい18-19だい)、労働ろうどう政務次官せいむじかんだい1きし改造かいぞうないかく)、衆議院しゅうぎいん商工しょうこう委員いいんちょうどう建設けんせつ委員いいんちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(16)、自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさいだい11だい)、自由民主党じゆうみんしゅとう幹事かんじちょうだい16・23-24だい)、自由民主党じゆうみんしゅとう総務そうむ会長かいちょうだい24だい)などを歴任れきにん[2]

来歴らいれき人物じんぶつ

編集へんしゅう
 
二階堂にかいどう住宅じゅうたく鹿児島かごしまけん肝付きもつきまちない建立こんりゅうされた胸像きょうぞう

鹿児島かごしまけん肝属きもつきぐん高山たかやまむらげん肝付きもつきまち出身しゅっしん鹿児島かごしまけん高山たかやま村長そんちょうつとめた二階堂にかいどう篤志あつしよんなん二女じじょ次男じなんとしてまれる。鎌倉かまくら時代ときよ以来いらい名家めいか二階堂にかいどう出身しゅっしんであり、生家せいか二階堂にかいどう屋敷やしき)はくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい1975ねん6月指定してい)で最後さいご居住きょじゅうしゃであった。

旧制きゅうせい鹿児島かごしま県立けんりつ志布志しぶし中学校ちゅうがっこう現在げんざい志布志しぶし高校こうこう)を卒業そつぎょうするが、勉強べんきょう苦手にがて志望校しぼうこうをことごとくちる。1932ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくわたり、みなみカリフォルニア大学だいがく政治せいじ経済けいざい卒業そつぎょうみなみカリフォルニア大学だいがく大学院だいがくいん国際こくさい関係かんけいすすむが、無理むりがたたってはい結核けっかくにかかる。一時いちじ覚悟かくごしたが、はいやまい患部かんぶ切除せつじょするという当時とうじ最新さいしん手術しゅじゅつ成功せいこうし、回復かいふく大学院だいがくいん修了しゅうりょうする。

日米にちべい関係かんけい悪化あっかするなか日本にっぽんアメリカはしになろうとして全米ぜんべい各地かくち遊説ゆうぜいしてまわるが、こころざしなかばのうちに1941ねん8がつりゅう田丸たまる日本にっぽん帰国きこく龍田たつたまる食中毒しょくちゅうどく事件じけん遭遇そうぐうした)[3]帰国きこくは、外務省がいむしょう嘱託しょくたくとして勤務きんむするが、役所やくしょつとめはせいわず、1942ねんだい21かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ翼賛よくさん政治せいじ体制たいせい協議きょうぎかい推薦すいせんけずに立候補りっこうほ日米にちべい平和へいわなどをとなえるが落選らくせんする。選挙せんきょ海軍かいぐん報道ほうどう部員ぶいん海軍かいぐん司政しせいかん[4]山本やまもと実彦さねひこ秘書ひしょとなる。

1945ねん12月、日本にっぽん協同きょうどうとう結成けっせい参画さんかくする。この協同きょうどうとう以後いご中間なかましょ政党せいとう糾合きゅうごうし、協同きょうどう民主党みんしゅとう国民こくみん協同きょうどうとうとなる。その過程かてい二階堂にかいどうは、後年こうねん田中たなか角栄かくえいをめぐりたもとかつことになる三木みき武夫たけおう。

1946ねん4がつだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ鹿児島かごしま全県ぜんけんだい選挙せんきょせい)から日本にっぽん協同きょうどうとう公認こうにん立候補りっこうほし、はつ当選とうせんする[5]

1947ねんそう選挙せんきょでは故郷こきょう鹿児島かごしま3から国民こくみん協同きょうどうとう公認こうにん立候補りっこうほするが、次点じてん落選らくせん1949ねんそう選挙せんきょ当選とうせん。1952ねん、1953ねんつづけて落選らくせん1955ねんそう選挙せんきょからは引退いんたいするまで連続れんぞくして当選とうせんした。どう選挙せんきょではのちに「ミスター税調ぜいちょう」とばれた山中やまなかさだのりなどとはげしくあらそった。

自民党じみんとうではおな吉田よしだ学校がっこう出身しゅっしん佐藤さとう栄作えいさく側近そっきんとして活躍かつやく1957ねんには橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう愛知あいち揆一保利ほりしげる松野まつのよりゆきさんらとともに周山しゅうざんかい佐藤さとう)を結成けっせいする。党内とうないでは労働ろうどう政務次官せいむじかん衆議院しゅうぎいん建設けんせつ委員いいんちょう商工しょうこう委員いいんちょうなどを歴任れきにん。そのあいだ田中たなか角栄かくえい商工しょうこう委員いいんちょう時代じだい面識めんしきち、趣味しゅみ田中たなか角栄かくえい公言こうげんするほどむ。

1966ねんだい1佐藤さとうさい改造かいぞうないかく科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかんけん北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかく1967ねんだい2佐藤さとう内閣ないかく再任さいにん

田中たなか結成けっせい

編集へんしゅう

1972ねん佐藤さとうない田中たなか擁立ようりつけて地歩ちほかため、田中たなか結成けっせいする。念願ねんがんだい1田中たなか内閣ないかくでは内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん就任しゅうにん内閣ないかくだい番頭ばんがしらやくとして政権せいけんささえ、田中たなか首相しゅしょう大平おおひら正芳まさよし外相がいしょうとも訪中ほうちゅうし、にちちゅう共同きょうどう声明せいめい発表はっぴょうする。だい2田中たなか内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん留任りゅうにん。その自民党じみんとう幹事かんじちょう就任しゅうにんし、田中たなか内閣ないかく最後さいごまでささえた。

1976ねんロッキード事件じけん渦中かちゅう灰色はいいろ高官こうかんとして二階堂にかいどうりざたされたため、おもて舞台ぶたいからとおざかる。しかし自民党じみんとう田中たなか支配しはいすすなか二階堂にかいどう復権ふっけんたし、鈴木すずき善幸ぜんこう内閣ないかくした1980ねん自民党じみんとう総務そうむ会長かいちょう木曜もくようクラブ田中たなか会長かいちょうに、1981ねん鈴木すずき善幸ぜんこう改造かいぞうないかくにはふたたとう幹事かんじちょう就任しゅうにんした。1982ねん中曽根なかそね内閣ないかく幹事かんじちょう留任りゅうにんするが、1983ねん田中たなか判決はんけつ解散かいさんともなだい37かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自民党じみんとう大敗たいはいした責任せきにんかたち幹事かんじちょう辞任じにんした。このときされた中曽根なかそね総裁そうさいの「いわゆる田中たなか政治せいじてき影響えいきょう一切いっさい排除はいじょする」という声明せいめいのち中曽根なかそね当初とうしょはもっとソフトに声明せいめいそうとしていたが二階堂にかいどうほうからいいだしたのでおどろいたとかたっている(なお、これがかたちだけの声明せいめいであることは中曽根なかそね田中たなか二階堂にかいどう承知しょうちうえであり、こののち田中たなか政治せいじてき影響えいきょうまった排除はいじょされていない)。

灰色はいいろ高官こうかんといわれた二階堂にかいどうであったが、きむあつ自体じたい下手へたであり、のちには無頓着むとんじゃくになった。金銭きんせんめんは、田中たなか竹下たけしたのぼる面倒めんどうをみていた。田中たなかから竹下たけした派閥はばつったとき二階堂にかいどうグループの人数にんずうすくなかったのはこれも影響えいきょうしている。

1984ねん自民党じみんとうふく総裁そうさい就任しゅうにん中曽根なかそね再選さいせんをめぐり、これに反対はんたいする福田ふくだ赳夫たけおシャム双生児そうせいじといわれたほどなかかった鈴木すずき善幸ぜんこうぜん総理そうりとう最高さいこう顧問こもんくわえ、公明党こうめいとう民社党みんしゃとう関与かんよする「二階堂にかいどう擁立ようりつ構想こうそう」ががる。二階堂にかいどう自身じしんも、田中たなかない総裁そうさい候補こうほ擁立ようりつ空気くうき背景はいけい政権せいけん意欲いよくつが田中たなか賛成さんせいられず断念だんねんした。このとき会談かいだんした田中たなかに「まぼろし山崎やまざき首班しゅはん」とやかされたうえになぜ相談そうだんしなかったのかといわれあたまのぼってだい激論げきろんになったと覚書おぼえがきらんかそけやまにあり」にある。派閥はばつ全盛ぜんせい時代じだい当時とうじではされても仕方しかたない造反ぞうはん行為こういであったが不問ふもんされている。

二階堂にかいどう擁立ようりつげき結局けっきょく田中たなか支持しじけることが出来できずにえになった。ときおなじくして体調たいちょうすぐれない福永ふくなが健司けんじ衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう退任たいにん問題もんだいがると中曽根なかそね金丸かねまるらから議長ぎちょう就任しゅうにんはなしるが側近そっきん小坂こさか徳三郎とくさぶろう、また田中たなか指示しじもあって拒否きょひし(議長ぎちょうになれば総裁そうさい候補こうほではなくなり、また木曜もくようクラブ会長かいちょう退任たいにんすることになるため)、後任こうにんには坂田さかたみちふとし就任しゅうにんした。竹下たけしたらのそうせいかい結成けっせいから20にち田中たなかのう梗塞こうそく政治せいじ生命せいめいたれると田中たなかない台頭たいとうした竹下たけした金丸かねまるしんそうせいかいグループと主導しゅどうけんをめぐり対立たいりつ1986ねんそう選挙せんきょ大勝たいしょう任期にんきが1ねんびた中曽根なかそねから再度さいど議長ぎちょう打診だしんされるが固辞こじするとやくとなった。

1987ねん7がつ4にち竹下たけしたのぼるらは木曜もくようクラブを離脱りだつ経世会けいせいかい設立せつりつ[6]二階堂にかいどう江崎えざき真澄ますみ山下やました元利がんり小坂こさか徳三郎とくさぶろう保岡やすおかきょう田中たなか直紀なおきらとともに残留ざんりゅうした。田中たなかしょうされてきた木曜もくようクラブは、以降いこう二階堂にかいどうグループとばれる。田中たなか正統せいとう後継こうけいしゃであるとみずかにんじ、中曽根なかそね後継こうけいめる同年どうねん10がつ31にち総裁そうさい選挙せんきょへの出馬しゅつば表明ひょうめいしたが、推薦人すいせんにん50めいられず正式せいしき立候補りっこうほ断念だんねんした[7]

1989ねん6がつ8にち政府せいふ自民党じみんとう首脳しゅのう会議かいぎでの閣僚かくりょうとう役員やくいん派閥はばつ離脱りだつ方針ほうしん沿った措置そちとして、二階堂にかいどう[8] と、北海道ほっかいどう沖縄開発庁おきなわかいはつちょう長官ちょうかんとして入閣にゅうかくした井上いのうえ吉夫よしお二階堂にかいどうグループを離脱りだつした。後任こうにん会長かいちょうには江崎えざき真澄ますみ就任しゅうにんした[9]

1990ねん2がつそう選挙せんきょ田中たなか引退いんたい二階堂にかいどうグループも大幅おおはば人数にんずうらしたため解散かいさん同年どうねんはる叙勲じょくん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう1991ねんには日本人にっぽんじんで10にん国連こくれん平和へいわしょう受賞じゅしょう同年どうねん8がつ22にちにメダルと感謝かんしゃじょう授与じゅよされた。

1996ねんそう選挙せんきょには出馬しゅつばせず、政界せいかい引退いんたい

2000ねん2がつ3にち心不全しんふぜんのため東京とうきょう新宿しんじゅく病院びょういん死去しきょ。90さいぼつじょしたがえ勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう昇叙しょうじょした[10]

1970年代ねんだい後半こうはんから、アントニオ猪木いのきしん日本にっぽんプロレスコミッショナーとして擁立ようりつされ、たびたびプロレス中継ちゅうけい立会たちあいじんとして登場とうじょうした。当時とうじ重鎮じゅうちん政治せいじがプロレスのコミッショナーをつとめるれいめずらしくなかった。また、二階堂にかいどう井筒いづつ部屋へや後援こうえん会長かいちょうつとめた。

鹿屋体育大学かのやたいいくだいがく誘致ゆうちしたのはかいどうであるとされる。当時とうじ文部もんぶ大臣だいじん奥野おくのまことあきらが「あんな田舎いなかに…」と難色なんしょくしめしたのにたいし「そんなことをっているから過疎かそ過密かみつ問題もんだいになる。田舎いなかだからこそつくるんだ」と一喝いっかつしたといわれる[よう出典しゅってん]。ちなみに、奥野おくの二階堂にかいどう翼賛よくさん選挙せんきょ立候補りっこうほしたさいに、薄田うすだよしあさ当時とうじ鹿児島かごしま県知事けんちじ戦後せんご衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)、はら文兵衛ぶんべえ当時とうじ鹿児島かごしまけん特高とっこう課長かちょう、のち参議院さんぎいん議長ぎちょう)とともに鹿児島かごしまけん総務そうむ振興しんこう課長かちょうとして翼賛よくさん選挙せんきょ推進すいしんするがわにいた。そのため鹿児島かごしまけんでは推薦すいせん候補こうほ全員ぜんいん当選とうせんし、推薦すいせん候補こうほ二階堂にかいどうのほか、井上いのうえ知治ともはる戦後せんご衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょう)や冨吉とみきち栄二えいじ戦後せんご逓信ていしん大臣だいじん)らは落選らくせんした。

その鹿屋体育大学かのやたいいくだいがく設立せつりつにまつわるはなしを、後年こうねん文部もんぶ大臣だいじんとなったもり喜朗よしろう昭和しょうわ天皇てんのう奏上そうじょうしたところ、天皇てんのうが「うんうん、二階堂にかいどうか。あれならやるなあ。」とらしたとされている[11]

アメリカ留学りゅうがくちゅうおぼえて以来いらい葉巻はまきとうとして有名ゆうめいだった。もともとくちやぶっていたが、あるとき新人しんじん議員ぎいん祖父そふ吉田よしだしげるゆずりの葉巻はまきとう麻生あそう太郎たろうたしなめられ、その麻生あそうからシガーカッターをおくられた。

二階堂にかいどう

編集へんしゅう

二階堂にかいどう血筋ちすじをたどると800ねんむかしにさかのぼり、京都きょうと下級かきゅう貴族きぞく藤原ふじわら出自しゅつじである[12]二階堂にかいどう藤原ふじわら行政ぎょうせいは、鎌倉かまくら幕府ばくふ開設かいせつ同時どうじに、おそらくたてひさ年間ねんかんはじめ、1192ねん1193ねんころ将軍しょうぐんみなもと頼朝よりともまねかれて、幕府ばくふつかえることになった[12]。そのときあたえられた屋敷やしきが、鎌倉かまくら二階堂にかいどうにあったところから、地名ちめいちなんで、二階堂にかいどうせい名乗なのった[12][13]

二階堂にかいどう行政ぎょうせい政所まんどころ執事しつじつとめ、以来いらい鎌倉かまくら幕府ばくふ要職ようしょく世襲せしゅうする。幕府ばくふしょしょくひょう二階堂にかいどうせい重臣じゅうしん数多かずおおしるされる名家めいかであった[12]行政ぎょうせいからかぞえて6代目だいめ二階堂にかいどう泰行やすゆきいたって、幕府ばくふいのちより、所領しょりょう薩摩さつまこくおもねおお田布施たぶせげんみなみさつま金峰きんぽうまち田布施たぶせ)に赴任ふにんする[12][13]1293ねんせいおう6ねん)のことであった。

高山こうざんへの移住いじゅうは、1579ねん天正てんしょう7ねん)である。16さい小姓こしょうやくつとめていた二階堂にかいどうこうもりは、藩主はんしゅ島津しまつ義久よしひさいのちによって、高山たかやま修験しゅげんてら大林おおばやしぼう土地とち12まちあたえられた[12][13]高山たかやま二階堂にかいどう開祖かいそである[12]

くだりもり山野さんや自在じざいめぐり、みずからの生活せいかつきびしくりっして、あるときしょくち、あるとき不眠ふみんくだりをするという[12]くだりもりちょう人的じんてき修行しゅぎょうつたえる二階堂にかいどうはなしに、志布志湾しぶしわんめんした権現山こんげんやまから、志布志湾しぶしわんおきにある枇榔島びろうじままで、ひらりとわたったといういいつたえがのこっているほどである[12]

家族かぞく親族しんぞく

編集へんしゅう

二階堂にかいどう

編集へんしゅう
  • ちち篤志とくし1874ねんせい
    二階堂にかいどうだい16だい当主とうしゅとしてまれる[14]1922ねん(または1923ねん高山たかやま村長そんちょう就任しゅうにん[14][15]士族しぞく豪農ごうのうというだけでなく、肝属きもつきぐん書記しょきから高山たかやま村議そんぎ村長そんちょうとなった地域ちいきのリーダーであり、また産業さんぎょう組合くみあい理事りじつとめた企業きぎょうはだひとであった[16]
  • ははイサ
    高山たかやまむら旧家きゅうかで、漢方かんぽう守屋もりや周一郎しゅういちろうすえむすめ[12]
  • 長兄ちょうけい元夫もとお
    鹿児島かごしま師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう小学校しょうがっこう教職きょうしょくくも健康けんこうがいして家庭かていはいった[12][14]
  • ちょうおとうとわたる
    病弱びょうじゃく文学ぶんがく少年しょうねんであった[12]
  • 末弟ばっていえき
    もと海軍かいぐん少佐しょうさ海兵かいへい64[17]もと空母くうぼ加賀かが分隊ぶんたいちょう1941ねん4がつ16にちれいせん搭乗とうじょうちゅう、フラッター事故じこうも、自身じしん操縦そうじゅうによりからくも生還せいかんした[18]

おんな兄弟きょうだいわらいれい二人ふたりがいる[12]

二階堂にかいどうでは、代々だいだい男子だんしにはかならず「くだり」のくわえることになっているが、二階堂にかいどうすすむ兄弟きょうだいたちはくだりをもらっていない[12]。それを意識いしきして、二階堂にかいどうは、自分じぶん長男ちょうなんあるきかいまごくだりせん名付なづけ、律儀りちぎに「くだり」の世襲せしゅう復活ふっかつした[12]まりはきちんとまもるという二階堂にかいどう性格せいかくどもの名付なづかたにもあらわれている[12]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 二階堂にかいどうすすむ』 - コトバンク
  2. ^ 原子力げんしりょく委員いいんかい委員いいんちょう二階堂にかいどうすすむ就任しゅうにん”. 内閣ないかく原子力げんしりょく委員いいんかい. 2023ねん8がつ3にち閲覧えつらん
  3. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん1986ねん1がつ15にち朝刊ちょうかん最終さいしゅうめんわたし履歴りれきしょ
  4. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん1986ねん1がつ20日はつか朝刊ちょうかん最終さいしゅうめんわたし履歴りれきしょ
  5. ^ 当選とうせん同期どうきに、小坂こさか善太郎ぜんたろう江崎えざき真澄ますみ小沢おざわたすく重喜しげよし石井いしい光次郎みつじろう坂田さかたみちふとし水田みずた三喜男みきお村上むらかみいさむ川崎かわさき秀二しゅうじはら健三郎けんざぶろう井出いで一太郎いちたろう早川はやかわたかし中野なかの四郎しろうなど
  6. ^ 安藤あんどう俊裕としひろ (2011ねん8がつ28にち). 田中たなか角栄かくえい反旗はんき竹下たけした旗揚はたあげ 「政界せいかいのドン」金丸かねまるしん(5)”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1902K_V20C11A8000000/ 2020ねん8がつ2にち閲覧えつらん 
  7. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1987ねん10がつ8にちづけ朝刊ちょうかん、3めん、「核心かくしん24二階堂にかいどうはどこへく 総裁そうさいせん 出馬しゅつば断念だんねん調整ちょうせいやくに』と側近そっきん 困難こんなん統一とういつ行動こうどう 陣営じんえい分裂ぶんれつ推測すいそくも」。
  8. ^ ふく総裁そうさい経験けいけんしゃとして自由民主党じゆうみんしゅとう最高さいこう顧問こもんだった。
  9. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1989ねん6がつ9にちづけ朝刊ちょうかん、2めん、「木曜もくよう後任こうにん会長かいちょう江崎えざき」。
  10. ^ きりはなだい綬章じゅしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん戦後せんご)”. (2012ねん11月). https://www8.cao.go.jp/shokun/shiryoshu/tokadaijusho-jushosha.pdf 2013ねん2がつ11にち閲覧えつらん 
  11. ^ 岩見いわみ隆夫たかお陛下へいか質問しつもん 昭和しょうわ天皇てんのう戦後せんご政治せいじ』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう、2005ねん
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  13. ^ a b c d 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  14. ^ a b c 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  15. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  16. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  17. ^ 人名じんめい事典じてんに~.The Naval Data Base.”. hush.gooside.com. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  18. ^ 日本にっぽん新幹線しんかんせんの「安全あんぜん」をつくったのは、れいせん開発かいはつだい功労こうろうしゃだった(神立かんだつ 尚紀なおき) @gendai_biz”. 現代げんだいビジネス (2018ねん8がつ4にち). 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  19. ^ 二階堂にかいどうソエさん死去しきょ二階堂にかいどうすすむもと自民党じみんとうふく総裁そうさいつま”. 四国新聞社しこくしんぶんしゃ. 2024ねん5がつ3にち閲覧えつらん
  20. ^ a b 結城ゆうき, 三郎さぶろう田中たなか軍団ぐんだん最後さいごたたかい: “やみ将軍しょうぐん”は不死鳥ふしちょうか』(初版しょはん現代書林げんだいしょりん、Tōkyō、1983ねん、89ぺーじISBN 978-4-905924-71-5 
  21. ^ a b 中日ちゅうにち友好ゆうこう若者わかものたちが先人せんじんたちの事業じぎょう精神せいしん必要ひつよう チャイナネット日本語にほんごばん (2007ねん10がつ10日とおか) 2016ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  22. ^ 二階堂にかいどう住宅じゅうたく飲食いんしょくてんオープン 肝付きもつき鹿屋かのや女性じょせいグループ みなみ日本にっぽん新聞しんぶん (2010ねん3がつ6にち) 2016ねん9がつ11にち閲覧えつらん[リンク]
  23. ^ 法政大学ほうせいだいがくプロフィール 2016ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  24. ^ 大石おおいし英司えいじ代替だいたい空港くうこう 2010.03.07 ことしょせい細胞さいぼう 大石おおいし英司えいじ 2016ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  25. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 2015ねん2がつ19にち
  26. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 2015ねん3がつ3にち

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 二階堂にかいどうすすむおのれつくして―わたし履歴りれきしょ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱん、1986ねん7がつISBN 978-4532094171 
  • 上城かみしろ恒夫つねお二階堂にかいどうすすむ清貧せいひん政治せいじ高城たかぎ書房しょぼう、2006ねん3がつISBN 978-4887770836 
  • 馬場ばば周一郎しゅういちろうらんかそけやまにあり―もと自民党じみんとうふく総裁そうさい 二階堂にかいどうすすむ聞書ききがき西日本新聞社にしにっぽんしんぶんしゃ、1998ねん2がつISBN 978-4816704598 
公職こうしょく
先代せんだい
竹下たけしたのぼる
  内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん
だい36・37だい:1972ねん - 1974ねん
次代じだい
竹下たけしたのぼる
先代せんだい
前尾まえおしげる三郎さぶろう
  北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん
だい27・28だい:1966ねん - 1967ねん
次代じだい
木村きむら武雄たけお
先代せんだい
有田ありた喜一きいち
  科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん
だい18・19だい:1966ねん - 1967ねん
次代じだい
鍋島なべしまただし
先代せんだい
有田ありた喜一きいち
  総理府そうりふ原子力げんしりょく委員いいんかい委員いいんちょう
だい18・19だい:1966ねん - 1967ねん
次代じだい
鍋島なべしまただし
議会ぎかい
先代せんだい
逢沢ひろし
  衆議院しゅうぎいん商工しょうこう委員いいんちょう
1963ねん - 1964ねん
次代じだい
内田うちだ常雄つねお
先代せんだい
加藤かとう高藏たかぞう
  衆議院しゅうぎいん建設けんせつ委員いいんちょう
1961ねん - 1962ねん
次代じだい
福永ふくなが一臣かずおみ
とうしょく
先代せんだい
西村にしむら英一ひでかず
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
1984ねん - 1986ねん
次代じだい
金丸かねまるしん
先代せんだい
橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう
櫻内さくらうち義雄よしお
自由民主党じゆうみんしゅとう幹事かんじちょう
だい14だい : 1974ねん
だい20だい : 1981ねん - 1983ねん
次代じだい
中曽根なかそね康弘やすひろ
田中たなか六助ろくすけ
先代せんだい
鈴木すずき善幸ぜんこう
自由民主党じゆうみんしゅとう総務そうむ会長かいちょう
だい24だい : 1980ねん - 1981ねん
次代じだい
田中たなか龍夫たつお
先代せんだい
政治せいじ同友会どうゆうかいより改称かいしょう
木曜もくようクラブ会長かいちょう
初代しょだい : 1980ねん - 1989ねん
次代じだい
江崎えざき真澄ますみ