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日本協同党 - Wikipedia

日本にっぽん協同きょうどうとう

協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎ労使ろうし協調きょうちょう標榜ひょうぼうした中道ちゅうどう政党せいとう

日本にっぽん協同きょうどうとう(にほんきょうどうとう)は、1945ねん12月18にち結成けっせいされた協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎ労使ろうし協調きょうちょう標榜ひょうぼうした中道ちゅうどう政党せいとう

日本の旗 日本にっぽん政党せいとう
日本にっぽん協同きょうどうとう
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1945ねん12月18にち[1][2]
前身ぜんしん政党せいとう 護国ごこく同志どうしかい
解散かいさん年月日ねんがっぴ 1946ねん5月24にち
解散かいさん理由りゆう 新党しんとう結成けっせいのため
後継こうけい政党せいとう 協同きょうどう民主党みんしゅとう[3]
政治せいじてき思想しそう立場たちば 保守ほしゅ主義しゅぎ[2][3]
皇統こうとう護持ごじ[1][2]
協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎ[2][3][4]
中道ちゅうどう主義しゅぎ[1][3]中道ちゅうどう[4]
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概要がいよう

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賀川かがわ豊彦とよひこ提唱ていしょうにより創設そうせつされた。賀川かがわ設立せつりつかかわった共栄火災海上保険きょうえいかさいかいじょうほけん株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょう協同きょうどう組合くみあい運動うんどう同志どうしである井川いかわ忠雄ただおつとめていたこともあり、同社どうしゃ本支店ほんしてんけん本部ほんぶ設置せっちされ、当初とうしょ実質じっしつてき活動かつどう中心ちゅうしん賀川かがわ地元じもとなだ消費しょうひ購買こうばい組合くみあい神戸こうべ消費しょうひ購買こうばい組合くみあい中心ちゅうしんとした兵庫ひょうごけん本部ほんぶであった。協同きょうどう民主みんしゅ主義しゅぎ標榜ひょうぼうし、協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎ経済けいざい原則げんそくかかげ、戦争せんそうおおきな打撃だげきこうむった産業さんぎょう経済けいざい文化ぶんかを、勤労きんろう自主じしゅ相愛そうあい基調きちょうとする協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎにより再建さいけんし、協同きょうどう組合くみあい産業さんぎょう復興ふっこう中核ちゅうかくとなることを主張しゅちょうした。

結党けっとうメンバーには、船田ふなだなか赤城あかぎ宗徳むねのり井川いかわ忠雄ただおなど、戦争せんそう東条とうじょう英機ひでき反旗はんきひるがえした護国ごこく同志どうしかい出身しゅっしんしゃ千石せんごくきょう太郎たろう黒沢くろさわ酉蔵とりぞうらがいた。とう指導しどうする船田ふなだ千石せんごくらは、かつて近衛このえしん体制たいせい運動うんどう積極せっきょくてきかかわったものの、戦時せんじ体制たいせいでは主流しゅりゅうとなったため、終戦しゅうせんあらたな体制たいせいになとなりるとかんがえていた。しかし1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ4にち、GHQは黒沢くろさわ船田ふなだ千石せんごくらを公職こうしょく追放ついほうとすることを決定けっていし、日本にっぽん協同きょうどうとう代表だいひょう世話人せわにん世話人せわにん委員いいんけい30めいのうち、追放ついほうまぬかれたのは世話人せわにん井川いかわ忠雄ただお委員いいんきた勝太郎かつたろうの2めいのみであった。とう存続そんぞく危機きき見舞みまわれた日本にっぽん協同きょうどうとうは2がつ23にち緊急きんきゅう幹部かんぶかい開催かいさいし、井川いかわ中心ちゅうしんとしてとう再建さいけんすこととした。井川いかわはまず日本にっぽん協同きょうどうとう自由党じゆうとうひだり社会党しゃかいとうみぎ存在そんざいとし、協同きょうどう主義しゅぎ統一とういつてき協同きょうどう組合くみあい行政ぎょうせい確立かくりつする理念りねんであると主張しゅちょうした。2月28にちにはだいいちかいとう全国ぜんこく代表だいひょうしゃ会議かいぎせきで、常任じょうにん世話人せわにんとして井川いかわほか船田ふなだちゅう実弟じっていである船田ふなだ享二きょうじ山本やまもと実彦さねひこらを選出せんしゅつした[5][6]

日本にっぽん協同きょうどうとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょにらみ、まず社会党しゃかいとうとの連携れんけい模索もさくした。社会党しゃかいとうとしても戦後せんご結党けっとう協同きょうどう組合くみあい関係かんけいしゃうごきもあり、日本にっぽん協同きょうどうとう社会党しゃかいとうとの提携ていけい不自然ふしぜんではなかった。しかしGHQないには日本にっぽん協同きょうどうとう日本にっぽん穏健おんけんし、安定あんていさせるのに寄与きよすると評価ひょうかするこえとともに、日本にっぽん協同きょうどうとうのメンバーには中道ちゅうどうややみぎよりの政党せいとうであるとの合意ごういがあるときもあった。4がつ10日とおかだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて、日本にっぽん協同きょうどうとうは94めい候補者こうほしゃ擁立ようりつするが、14めい当選とうせんにとどまった。おもわしくない選挙せんきょ結果けっかけて、日本にっぽん協同きょうどうとう社会党しゃかいとうとの連携れんけい以外いがい諸派しょは無所属むしょぞく議員ぎいんのとの連携れんけいはかるようになった27にち中央ちゅうおう委員いいんちょう山本やまもとふく委員いいんちょうきた書記しょきちょう井川いかわという日本にっぽん協同きょうどうとうしん執行しっこう選出せんしゅつされた。これと前後ぜんごして無所属むしょぞく議員ぎいん結成けっせいされた院内いんない会派かいは大同だいどう倶楽部くらぶうち新党しんとう結成けっせいうごきがこり、さら日本にっぽん協同きょうどうとう大同だいどう倶楽部くらぶとの合同ごうどう目指めざうごきがこった。山本やまもと改造かいぞうしゃ社長しゃちょうであり、戦前せんぜんに2民政みんせいとう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんつとめており、経歴けいれきからも協同きょうどう主義しゅぎのイデオロギーにかならずしもこだわらない人物じんぶつであった。このうごきはきた勝太郎かつたろう中心ちゅうしんとした日本にっぽん協同きょうどう党内とうない農村のうそん反対はんたいによりいったんえになったかにえたが、結局けっきょく日本にっぽん協同きょうどうとう日本にっぽんのうほんとうなどの諸派しょは大同だいどう倶楽部くらぶは、5月8にち協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎ党是とうぜとする新党しんとう協同きょうどう民主党みんしゅとう結成けっせい合意ごういするにいたった[7][8][9]

ところが協同きょうどう組合くみあい主義しゅぎ党是とうぜおおくの大同だいどう倶楽部くらぶ所属しょぞく議員ぎいんからクレームがされ、議員ぎいんおおくは日本にっぽん協同きょうどうとうとの合同ごうどうくわわらずに新党しんとう結成けっせい目指めざすこととなり、院内いんない会派かいは日本にっぽん民主党みんしゅとう準備じゅんびかい結成けっせいした。すすんでいたはなし突然とつぜん上手うまくいかなくなった背景はいけいには、だい政党せいとうからの工作こうさくがあったものと推測すいそくされている。結局けっきょく日本にっぽん協同きょうどうとう日本にっぽんのうほんとう日向ひなた民主党みんしゅとうなどいくつかのしょう会派かいはによって5がつ24にち協同きょうどう民主党みんしゅとう結成けっせいした。なお日本にっぽん民主党みんしゅとう準備じゅんびかい院内いんない会派かいは新政しんせいかいて、9月25にち国民党こくみんとう結成けっせいよく1947ねんになって、協同きょうどう民主党みんしゅとう国民党こくみんとう合同ごうどう国民こくみん協同きょうどうとう結成けっせいへといた[10][11][12]

執行しっこう役員やくいんひょう

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日本にっぽん協同きょうどうとう役員やくいん
(1945 - 1946)
常任じょうにん世話人せわにん 世話人せわにん
船田ふなだなか 黒沢くろさわ酉蔵とりぞう 吉植よしうえ庄亮しょうりょう 吉田よしだただし 中谷なかたにたけし
井川いかわ忠雄ただお 木村きむら寅太郎とらたろう
日本にっぽん協同きょうどうとう暫定ざんてい役員やくいん
(1946)
常任じょうにん世話人せわにん
井川いかわ忠雄ただお 船田ふなだ享二きょうじ 宮部みやべ一郎いちろう 宮城みやぎ孝治こうじ 山本やまもと実彦さねひこ
日本にっぽん協同きょうどうとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい
(1946 - 1947)
委員いいんちょう ふく委員いいんちょう 書記しょきちょう 政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
山本やまもと実彦さねひこ きた勝太郎かつたろう 井川いかわ忠雄ただお 船田ふなだ享二きょうじ

参考さんこう文献ぶんけん村川むらかわ一郎いちろう石上いしがみやすししゅう日本にっぽん政党せいとう1995ねん3がつ丸善まるぜん株式会社かぶしきがいしゃ丸善まるぜんライブラリー、ISBN 4-621-05153-9

歴代れきだい日本にっぽん協同きょうどうとう委員いいんちょう一覧いちらん

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だい 委員いいんちょう 在任ざいにん期間きかん 備考びこう
-   井川いかわ忠雄ただお 1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ4にち
- 1946ねん昭和しょうわ21ねん)4がつ27にち
常任じょうにん世話人せわにん
1   山本やまもと実彦さねひこ 1946ねん昭和しょうわ21ねん4がつ27にち
- 1947ねん昭和しょうわ22ねん5月24にち

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 吉田よしだ健二けんじ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) コトバンク. 2019ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん コトバンク. 2019ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん コトバンク. 2019ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 百科ひゃっか事典じてんマイペディア コトバンク. 2019ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  5. ^ 塩崎しおざき(1982)pp.102-103
  6. ^ 竹中たけなか(1998)pp.174-175
  7. ^ 塩崎しおざき(1989)p.82
  8. ^ 竹中たけなか(1998)pp.175-176
  9. ^ 竹内たけうち(2013)p.30
  10. ^ 塩崎しおざき(1989)p.83
  11. ^ 竹中たけなか(1998)pp.177-181
  12. ^ 竹内たけうち(2013)pp.29-30

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 塩崎しおざき弘明ひろあき翼賛よくさん政治せいじから戦後せんご民主みんしゅ政治せいじ日本にっぽん協同きょうどうとう成立せいりつ場合ばあい」『年報ねんぽう近代きんだい日本にっぽん研究けんきゅう・4 太平洋戦争たいへいようせんそう 開戦かいせんから講和こうわまで』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1982ねん
  • 塩崎しおざき弘明ひろあき戦後せんご民主みんしゅ政治せいじと「協同きょうどう主義しゅぎ協同きょうどうとう系譜けいふ」『長崎純心大学ながさきじゅんしんだいがく長崎純心大学ながさきじゅんしんだいがく短期大学たんきだいがく紀要きよう25』1989ねん
  • 竹内たけうちかつら協同きょうどう民主党みんしゅとう入党にゅうとうまでの三木みき武夫たけお占領せんりょう初期しょき新党しんとう構想こうそうとその破綻はたん」『明治大学めいじだいがく大学院だいがくいん政治せいじがく研究けんきゅう論集ろんしゅう40』2013ねん
  • 竹中たけなか佳彦よしひこ戦後せんご日本にっぽん協同きょうどう主義しゅぎ政党せいとう 協同きょうどう主義しゅぎ通俗つうぞく分化ぶんか」『日本にっぽん政治せいじ学会がっかい年報ねんぽう政治せいじがく1998』1998ねん
  • 村川むらかわ一郎いちろう石上いしがみやすししゅう日本にっぽん政党せいとう丸善まるぜん株式会社かぶしきがいしゃ丸善まるぜんライブラリー、1995ねんISBN 4-621-05153-9
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん議会ぎかい制度せいどひゃくねん 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねんISBN 4-17-164810-6