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永末英一 - Wikipedia

永末ながすえ 英一ひでかず(ながすえ えいいち、1918ねん大正たいしょう7ねん1がつ2にち - 1994ねん平成へいせい6ねん7がつ10日とおか)は、日本にっぽん政治せいじ海軍かいぐん軍人ぐんじん短期たんき現役げんえき士官しかん)。民社党みんしゃとう委員いいんちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん通算つうさん10)、社会しゃかい主義しゅぎインターナショナルふく議長ぎちょう位階いかいせいさん

永末ながすえ 英一ひでかず
ながすえ えいいち
京都きょうと戦後せんご民主みんしゅ運動うんどう 歴史れきし資料しりょうアーカイブ』(1971ねん2がつ)
生年月日せいねんがっぴ 1918ねん1がつ2にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 福岡ふくおかけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1994-07-10) 1994ねん7がつ10日とおか(76さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 京都きょうと京都きょうと
出身しゅっしんこう 旧制きゅうせい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
げん東京大学とうきょうだいがく
ぜんしょく 京都きょうと府議会ふぎかい議員ぎいん
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん社会党しゃかいとう→)
右派うは社会党しゃかいとう→)
日本にっぽん社会党しゃかいとう→)
民社党みんしゃとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう

選挙せんきょ きゅう京都きょうと1
当選とうせん回数かいすう 10かい
在任ざいにん期間きかん 1963ねん11月21にち - 1971ねん2がつ7にち
1972ねん12月10にち - 1993ねん6月18にち

選挙せんきょ 京都きょうと地方区ちほうく
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1959ねん6月3にち - 1963ねん11月2にち

在任ざいにん期間きかん 1989ねん2がつ25にち - 1990ねん4がつ26にち
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来歴らいれき人物じんぶつ

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福岡ふくおかけん出身しゅっしんだいさん高等こうとう学校がっこう (旧制きゅうせい)文科ぶんかかぶとるい[1]て、1941ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒業そつぎょう[2][3]

みなみ満州まんしゅう鉄道てつどう勤務きんむて、海軍かいぐん短期たんき現役げんえき主計しゅけい士官しかんだいはち)として出征しゅっせいけい巡洋艦じゅんようかん五十鈴いすず」の庶務しょむ主任しゅにん、ラバウル航空こうくうたいづけ駆逐くちくかん春雨はるさめ」の主計しゅけいちょうじゅう巡洋艦じゅんようかん摩耶まや」の主計しゅけいちょうとしてレイテおき海戦かいせん参加さんかしたが1944ねん10がつ23にち、「摩耶まや」はべい潜水せんすいかんによりパラワン水道すいどう撃沈げきちんされた。永末ながすえ以下いか生存せいぞんしゃやく700めい駆逐くちくかん秋霜しゅうそう」に救助きゅうじょされ、つづいて戦艦せんかん武蔵むさし」に移乗いじょう[4]。しかし10がつ24にち、シブヤンうみ空襲くうしゅうで「武蔵むさし」も沈没ちんぼつし、永末ながすえ以下いか摩耶まや生存せいぞんしゃ駆逐くちくかんしまふう」に移乗いじょう翌日よくじつのサマールとうおき海戦かいせん参加さんかした[5]。レイテおき海戦かいせんだい艦隊かんたい副官ふっかんとして戦艦せんかん大和やまと」に乗艦じょうかん、12月上旬じょうじゅん日本にっぽん帰投きとうした[6]。この帰投きとうちゅう大和やまとどうこうしていた戦艦せんかんきむつよし」、駆逐くちくかんうらふう」がべい潜水せんすいかん雷撃らいげき撃沈げきちんされた。これらの経験けいけんまえて永末ながすえは「大艦だいかんきょほう主義しゅぎ」について「きょほう大艦だいかんんでいるのであるから『きょほう大艦だいかん主義しゅぎ』とわたしう」とべている。

永末ながすえはそのだい相模さがみ航空こうくうたい舞鶴まいづる海兵かいへいだん勤務きんむちゅう海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいいとして終戦しゅうせんむかえた。京都きょうと市議しぎ京都きょうと府議ふぎて、1959ねん6がつ参院さんいんせん日本にっぽん社会党しゃかいとう公認こうにん京都きょうと選挙せんきょから出馬しゅつばし、はつ当選とうせん1960ねん1がつ民社党みんしゃとう結成けっせい参加さんかする。1963ねんハーバード大学だいがく留学りゅうがく[3]

1963ねん11月、そう選挙せんきょ死去しきょした水谷みずたに長三郎ちょうさぶろう後継こうけいとしてきゅう京都きょうと1から出馬しゅつばし、衆議院しゅうぎいん議員ぎいんはつ当選とうせん以来いらい連続れんぞく3かい当選とうせん1971ねん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん辞職じしょくし、同年どうねん2がつ京都きょうと市長しちょう選挙せんきょ無所属むしょぞく立候補りっこうほ自民党じみんとう民社党みんしゃとう推薦すいせん)するも落選らくせん翌年よくねん12がつそう選挙せんきょ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんかえき、以来いらい1990ねんまで連続れんぞく7かい当選とうせんした。

1979ねん5月、民社党みんしゃとう国対こくたい委員いいんちょう就任しゅうにん

1985ねん4がつ佐々木ささき良作りょうさくとう委員いいんちょう辞任じにんしたとう大会たいかいでは、委員いいんちょう退任たいにん隠然いんぜんたる影響えいきょうりょくおよぼしていた春日かすが一幸かずゆきとう常任じょうにん顧問こもんの「長老ちょうろう支配しはい」を公然こうぜん批判ひはんした。春日しゅんじついかりをったが、ふく委員いいんちょう昇格しょうかくする。1988ねんリクルート事件じけんでの塚本つかもと三郎さぶろうとう委員いいんちょう汚職おしょく疑惑ぎわくからみ、翌年よくねん2がつ塚本つかもと委員いいんちょう辞任じにん佐々木ささきとう常任じょうにん顧問こもん指名しめい委員いいんちょう昇格しょうかく

当時とうじ主流しゅりゅうをなしていた自公民じこうみん路線ろせん志向しこうする春日しゅんじつ塚本つかもと委員いいんちょう大内おおうち啓伍けいごらにたいして、佐々木ささき永末ながすえらはしゃ公民こうみん路線ろせん志向しこうしていた。党内とうないではつね路線ろせん対立たいりつがくすぶっていた。

1989ねん7がつ参院さんいんせんは、社会党しゃかいとう躍進やくしんするも、民社党みんしゃとう改選かいせんわせて10議席ぎせきことになった。永末ながすえすすめた社会党しゃかいとう公明党こうめいとうとの選挙せんきょ協力きょうりょくしゃ公民こうみん連合れんごう政権せいけん協議きょうぎ得票とくひょうらしたと塚本つかもとらから批判ひはんびた。さらに、1990ねん2がつ衆院しゅういんせん民社党みんしゃとうが20議席ぎせきれの大敗たいはいきっした責任せきにんって委員いいんちょう辞任じにんした。1993ねん6がつ政界せいかい引退いんたいした。

1994ねん7がつ10日とおか心不全しんふぜんのため京都きょうと市内しない病院びょういん死去しきょした。じょせいさん。76さいぼつ

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう物語ものがたり だい3」財界ざいかい評論ひょうろんしゃ 1965ねん
  2. ^ 東大とうだい人名じんめいろくだい1』1992ねん発行はっこう、1ぺーじ
  3. ^ a b 中央公論ちゅうおうこうろん』1989ねん4がつ
  4. ^ #わりなき海軍かいぐん219ぺーじ
  5. ^ #わりなき海軍かいぐん222ぺーじ
  6. ^ #わりなき海軍かいぐん223ぺーじ
  7. ^ あき叙勲じょくん くんさんとう以上いじょうおよび在外ざいがい邦人ほうじん帰化きか邦人ほうじん在日ざいにち外国がいこくじん外国がいこくじん受章じゅしょうしゃ」『読売新聞よみうりしんぶん』1991ねん11月3にち朝刊ちょうかん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 松浦まつうらたかし編著へんちょ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん永末ながすえ英一ひでかず(海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいい)"太平洋たいへいようしずんだ戦友せんゆうこえ"」『わか世代せだいつたえたいのこしたい おわりなき海軍かいぐん文化ぶんかしゃ、1978ねん6がつ 

関連かんれん項目こうもく

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とうしょく
先代せんだい
塚本つかもと三郎さぶろう
民社党みんしゃとう委員いいんちょう
だい6だい : 1989ねん - 1990ねん
次代じだい
大内おおうち啓伍けいご
議会ぎかい
先代せんだい
棚橋たなはししょうとら
  参議院さんぎいん大蔵おおくら委員いいんちょう
1962ねん
次代じだい
佐野さのひろ