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金剛型戦艦 - Wikipedia

金剛こんごうがた戦艦せんかん

大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん戦艦せんかんかんきゅう

金剛こんごうがた戦艦せんかん(こんごうがたせんかん)は、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん戦艦せんかんかんきゅう日本にっぽんはつ超弩級ちょうどきゅうじゅんよう戦艦せんかんであり[5]、また1ばんかんきむつよし英国えいこく建造けんぞうされ[6]海外かいがい発注はっちゅうした日本にっぽん最後さいご主力しゅりょくかんとなった[7]。 2ばんかん比叡ひえい、3ばんかん榛名はるな[8][9]、4ばんかん霧島きりしま[10]大日本帝国だいにっぽんていこく造船ぞうせんしょ建造けんぞうされた[注釈ちゅうしゃく 1]

金剛こんごうがたじゅんよう戦艦せんかん
基本きほん情報じょうほう
種別しゅべつ めぐよう戦艦せんかん戦艦せんかん比叡ひえいのみ練習れんしゅう戦艦せんかん
命名めいめい基準きじゅん やま
建造けんぞう期間きかん 1911ねん - 1915ねん
就役しゅうえき期間きかん 1913ねん - 1945ねん
建造けんぞうすう 4せき
まえきゅう 鞍馬あんばがたじゅんよう戦艦せんかん
つぎきゅう 天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかん[1] (完成かんせい)
要目ようもく
排水はいすいりょう 26,330 t竣工しゅんこう
32,200 t(改装かいそう
全長ぜんちょう 214.6m(竣工しゅんこう
222m(改装かいそう
最大さいだいはば 28.04m(竣工しゅんこう
31.02m(改装かいそう
おも 蒸気じょうきタービン24じく 64,000馬力ばりき
竣工しゅんこう
蒸気じょうきタービン44じく 136,000馬力ばりき
改装かいそう
最大さいだい速力そくりょく 27.5kt竣工しゅんこう
30kt(改装かいそう
航続こうぞく距離きょり 8,000かいり(14kt)(竣工しゅんこう
10,000かいり(18kt)(改装かいそう
乗員じょういん やく1,200めい竣工しゅんこう
やく1,300めい改装かいそう
へいそう 35.6cm45口径こうけい連装れんそうほう4
15.2cm50口径こうけいたんそうほう16
53.3cm魚雷ぎょらい発射はっしゃかん8
竣工しゅんこう
12.7cm連装れんそう高角こうかくほう6
機銃きじゅう多数たすう
カタパルト1
水上すいじょう偵察ていさつ3
改装かいそう
装甲そうこう 舷側げんそく:8in(203.2mm)-3in(76.2mm)[2]
甲板かんぱん:2.25in(57.2mm)-2.63in(66.8mm)[2]
砲塔ほうとう:10in(254mm)-9in(228.6mm)[2]
司令塔しれいとう:10in(254mm)[2]
水線すいせん改装かいそう): 203mm[3]
または203mm+102mm[4]
甲板かんぱん: 70mm
たま火薬かやく甲板かんぱん: 64-102mm(改装かいそう
かくかん個別こべつ差異さい詳細しょうさいかくかん項目こうもく参照さんしょう
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就役しゅうえきは「戦艦せんかん火力かりょく巡洋艦じゅんようかん速力そくりょくつが、防御ぼうぎょりょく妥協だきょう」というめぐよう戦艦せんかんであったが、当時とうじ主力しゅりょくかんとしては採用さいようれいすくなかった45口径こうけい14インチほう搭載とうさいした[12][注釈ちゅうしゃく 2]ユトランドおき海戦かいせんせんくんもとづく1920年代ねんだいだいいち改装かいそうによって防御ぼうぎょりょく向上こうじょうえに速力そくりょく低下ていかし、戦艦せんかんとなった。外観がいかんも、艦橋かんきょう複雑ふくざつ機関きかんかわそうにより煙突えんとつが3ほんから2ほん減少げんしょうするなど、おおきくわった[注釈ちゅうしゃく 1]。1930ねんロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく[13]比叡ひえい練習れんしゅうかんになった[14]。 しかし、軍縮ぐんしゅく条約じょうやく脱退だったいの1930年代ねんだいだい改装かいそうによって4せきともしゅ機関きかんかわそう船体せんたい延長えんちょうなどがほどこされた結果けっか就役しゅうえき上回うわまわ速力そくりょく獲得かくとく[注釈ちゅうしゃく 3]めぐよう戦艦せんかんがた高速こうそく主力しゅりょくかんとしてあつかわれた[注釈ちゅうしゃく 4]太平洋戦争たいへいようせんそう中盤ちゅうばんまでは、その快速かいそくして機動きどう部隊ぶたい随伴ずいはんした[注釈ちゅうしゃく 5]

建造けんぞうからしばしば「高速こうそく戦艦せんかん」として報道ほうどうされ[16][17]軍令ぐんれいも「高速こうそく戦艦せんかん」の名称めいしょうもちいた[18][19]太平洋戦争たいへいようせんそうも「高速こうそく戦艦せんかん」とばれることもおおい。

命名めいめい由来ゆらい

編集へんしゅう

このころ日本にっぽん艦船かんせん命名めいめい慣例かんれいによれば戦艦せんかんにはきゅう国名こくめい名付なづけられているが[20]ほんきゅうはまず装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん一等いっとう巡洋艦じゅんようかん)として計画けいかくされたことから、同型どうけいかんすべ山岳さんがく名付なづけられている[17]

建造けんぞう経緯けいい

編集へんしゅう

戦艦せんかんと、同数どうすう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんをもって艦隊かんたい主力しゅりょくとすることはにちしん戦争せんそうだいいちだい拡張かくちょう計画けいかくですでに根本こんぽん方針ほうしんであり、にち戦争せんそうではその真価しんか発揮はっきされた[21]

にち戦争せんそう以降いこう日本にっぽん海軍かいぐんは、それまで英国えいこくにのみたよってきた主力しゅりょくかん自国じこく建造けんぞうすべくけん鑚をかさねていたが、1906ねんイギリス海軍かいぐんにより画期的かっきてき戦艦せんかんドレッドノート、さらに1908ねんにドレッドノート同様どうよう戦闘せんとうりょくめぐよう戦艦せんかんインヴィンシブル発表はっぴょうされると、従来じゅうらい主力しゅりょくかん軒並のきな時代遅じだいおくれとなってしまった[22]。これは装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん筑波つくばがた鞍馬あんばがた戦艦せんかん薩摩さつまがた河内かわうちがたといった国産こくさん新鋭しんえい装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん戦艦せんかんについても同様どうようであった。これにより日本にっぽん独自どくじ技術ぎじゅつだけでは超弩級ちょうどきゅう戦艦せんかんじゅんよう戦艦せんかん時代じだいけんかん競争きょうそうてないことがあきらかとなった。

戦艦せんかん薩摩さつまがた河内かわうちがたわせて4せきだいいち戦隊せんたい編成へんせいすれば筑波つくばがた鞍馬あんばがた装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんとしては価値かちであり、やや防御ぼうぎょりょくおと戦艦せんかんとしての価値かちしかなくなった[21]。そこで日本にっぽん海軍かいぐんとしては1906ねん明治めいじ39ねん)から1907ねん明治めいじ40ねん)にかけて戦艦せんかん8、装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん8のはちはち艦隊かんたい完成かんせいしたいとつよ要望ようぼうはじめた[21]当初とうしょ排水はいすいりょうやく18,000t、速力そくりょく25kt、主砲しゅほう12in8もんと、イギリスのじゅんよう戦艦せんかんインディファティガブルちかい4せき装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん計画けいかくされ、まず3せきが1906ねん予算よさん要求ようきゅうされたが否決ひけつされた[21]

その戦利せんりかん損傷そんしょう復旧ふっきゅう国内こくない建造けんぞう主力しゅりょくかん工事こうじ遅延ちえん、「安芸あき」や「伊吹いぶき」のタービン推進すいしん改造かいぞうなどでなかなか着手ちゃくしゅできず、また急激きゅうげき進歩しんぽするえいべいどく主力しゅりょくかん見張みは設計せっけいがまとまらなかったため計画けいかくおくれ、やっと1910ねん明治めいじ43ねん)に予算よさん通過つうかした[21]

とく海軍かいぐん着目ちゃくもくしたのはめぐよう戦艦せんかんライオンであり、海軍かいぐんは18,000tきゅう従来じゅうらいすすめていためぐよう戦艦せんかん計画けいかく放棄ほうきし、英国えいこくすすんだけんかん技術ぎじゅつまなぶべく主力しゅりょくかん建造けんぞう英国えいこく依頼いらい、その設計せっけいもと日本にっぽん国内こくないでも建造けんぞうおこなうこととし、当時とうじごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん」として計画けいかくちゅうだったかん建造けんぞう英国えいこくヴィッカース発注はっちゅうすることとなった[21]。これが1ばんかんきむつよし」で、同型どうけいかんはそれぞれ2ばんかん比叡ひえい」を横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう、3ばんかん榛名はるな」を神戸こうべ川崎かわさき造船ぞうせんしょ、4ばんかん霧島きりしま」を三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞうと、はじめて民間みんかん主力しゅりょくかん建造けんぞうされ、同型どうけい主力しゅりょくかん4せき同時どうじ建造けんぞうできる態勢たいせいととのえた[21]。「榛名はるな」と「霧島きりしま」は、はつ民間みんかんによる戦艦せんかん建造けんぞうということもあって両社りょうしゃ対抗たいこう意識いしきはすさまじく、熾烈しれつ競争きょうそうとなった[21]榛名はるなおおやけ試運転しうんてん時期じきに、運転うんてんをわずか数日すうじつ延期えんきせねばならなくなり、工事こうじ最高さいこう責任せきにんしゃであった川崎かわさき造船ぞうせんしょ造機ぞうき部長ぶちょうはなすべき処置しょちすべおこなったうえ帰宅きたくし、そのよる自刃じじんした[21]。なお造機ぞうき部長ぶちょう自殺じさつは1914ねん11月18にち[23]榛名はるな竣工しゅんこうは1915ねん4がつ19にちである。造機ぞうき部長ぶちょう自殺じさつかん[24]当時とうじ榛名はるな機関きかんちょうは「機関きかん故障こしょうはなく、技師ぎし神経しんけい衰弱すいじゃくのようだった」とかたっている[23]榛名はるなおおやけためし延期えんきになり、起工きこう進水しんすい吉日きちじつえらびかつ進水しんすい大潮おおしお前後ぜんこうでなければならないことから前後ぜんごはしたものの、工事こうじ進捗しんちょくまった互角ごかくであり、無事ぶじ予定よていどお完成かんせいした[21]

金剛こんごうがた設計せっけいヴィッカース軍艦ぐんかん設計せっけい部長ぶちょうサージョージ・サーストン英語えいごばんにより詳細しょうさい設計せっけいすすめられていた、オスマン帝国ていこく海軍かいぐんけのレシャディエきゅう戦艦せんかん英語えいごばんレシャド5せい(エリン)もとめぐよう戦艦せんかんすることでおこなわれた。当時とうじえい海軍かいぐんさい新鋭しんえいにして世界せかい最大さいだい最強さいきょうじゅんよう戦艦せんかんであったライオンきゅうじゅんよう戦艦せんかんもとおこなわれたとするせつもある[22]が、サーストン自身じしんが「『きむつよし』は『エリン』の巡洋艦じゅんようかんばん」とべているてんとうからあやまりとされる[25]

主砲しゅほう当初とうしょ30.5cm(12in)50口径こうけい連装れんそう砲塔ほうとう5予定よていしていたが、35.6cm(14in)45口径こうけい連装れんそう砲塔ほうとう4なら重量じゅうりょうにほとんどがないこと、さらには30.5cm50口径こうけいほう砲身ほうしんのブレから命中めいちゅうりつひくく、またこう初速しょそくのため砲身ほうしん命数めいすうきわめてみじかいという欠陥けっかんあきらかになったことなどから、金剛こんごうがたでは35.6cm連装れんそう砲塔ほうとうを4搭載とうさいすることとした。

またふくほうもレシャド5せい(エリン)が15.2cm(6in)ほう16もんたいして金剛こんごうがたおなじく15.2cmほう16もん搭載とうさい、さらにはレシャド5せい(エリン)の4ばん砲塔ほうとう後部こうぶ艦橋かんきょう構造こうぞうぶつ撤去てっきょすることで金剛こんごうがたの3ばん砲塔ほうとうかくし、もしくはレシャド5せい(エリン)の3ばん砲塔ほうとう撤去てっきょし4ばん砲塔ほうとう後部こうぶ艦橋かんきょう構造こうぞうぶつ前方ぜんぽうにずらすことで、手本てほんとなったレシャド5せい(エリン)より砲塔ほうとうが1すくないにもかかわらず、レシャド5せい(エリン)と同等どうとう後方こうほうに4もん指向しこうできた。さらに、35.6cmほう当時とうじ世界せかい最大さいだいきょほうであり、金剛こんごう竣工しゅんこうどうほう搭載とうさいするアメリカ海軍かいぐん戦艦せんかんニューヨークよりもはやかったため、誕生たんじょうにはまさに世界せかい最強さいきょうじゅんよう戦艦せんかんであった。

ライオンきゅうは、3ばん主砲しゅほうとうと4ばん主砲しゅほうとうとのあいだ煙突えんとつなどの構造こうぞうぶつがあり、後方こうほうけての射撃しゃげきりょく金剛こんごうがたくらおとっていた。そこでえい海軍かいぐんでは、建造けんぞうちゅうであったライオンきゅう4ばんかんタイガー」の設計せっけい見直みなおし、金剛こんごうがた同様どうよう主砲しゅほう配置はいち変更へんこうするという一幕ひとまくもあった。ただしこれをもってタイガーを金剛こんごうがた改良かいりょうがたとするせつあやまりである。

金剛こんごうがた速度そくどは27.5kt(竣工しゅんこう)でライオンきゅう若干じゃっかん上回うわまわっていた。ライオンきゅうくらべての欠点けってん防御ぼうぎょりょく装甲そうこうあつさ)が若干じゃっかん下回したまわっていることだが、もとよりライオンきゅうはそれまでのじゅんよう戦艦せんかんよりもたか防御ぼうぎょりょくっており、おおきな欠点けってんとはみなされなかった。またこの金剛こんごうがた当時とうじ高速こうそくめぐよう戦艦せんかんほっしていた軍令ぐんれい悲願ひがんでもあった。

なお「きむつよし計画けいかく海軍かいぐん帝国ていこく議会ぎかいにより戦艦せんかん1せき装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん4せき建造けんぞう認可にんかされていたが、にち戦争せんそう以来いらいえい海軍かいぐんフィッシャー提督ていとく提唱ていしょう同様どうよう日本にっぽん海軍かいぐんでも「速度そくどこそ最大さいだい防御ぼうぎょ」とするかんがえがつよく、結果けっかとして装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんめぐよう戦艦せんかん)4せき建造けんぞうった、とわれている。ただしめぐよう戦艦せんかんにしては極端きょくたん装甲そうこう防御ぼうぎょりょく軽視けいしにはいたっていない。

かんがたへいそう配置はいち

編集へんしゅう

ほんきゅう従来じゅうらい日本にっぽん戦艦せんかん多用たようされた垂直すいちょくがたかんくびではなく、よりしのげなみせいすぐれたクリッパーがたかんくびっている。ぜん甲板かんぱんに1・2ばん主砲しゅほうとう背負せおいしき配置はいちかんたい中央ちゅうおう艦橋かんきょうなどの上部じょうぶ構造こうぞうぶつこう甲板かんぱんに3・4ばん主砲しゅほうとうをやはり背負せおいしき配置はいちしている。また、左右さゆうりょうふなばたにはそれぞれほうくるわしきふくほういちれつ8ずつ配置はいちされている。船体せんたいうえからると細長ほそなが流麗りゅうれいなデザインとなっている。

金剛こんごう建造けんぞう当時とうじ海戦かいせん距離きょり8,000m前後ぜんごおこなわれると想定そうていされていた。このため、戦闘せんとうちゅう砲撃ほうげきよりも強力きょうりょく雷撃らいげき併用へいようすることがかんがえられており、ほんきゅうも53.3cm魚雷ぎょらい発射はっしゃかんを8もん装備そうびしている。これはそれぞれ1ばん主砲しゅほうとう前方ぜんぽう艦橋かんきょう・4ばん主砲しゅほうとうかん喫水線きっすいせん側面そくめんきに固定こてい装備そうびされており、このうち最前さいぜんかたさい後方こうほうの2ついについてはかんはば発射はっしゃかんながさ2ほんぶんたないためか左右さゆう対称たいしょうではなく前後ぜんごすこしズレたかたち配置はいちされていた。ただ年月としつきつにつれて戦闘せんとう距離きょり延伸えんしんしたことにより有効ゆうこうせい減少げんしょうし、だいいち改装かいそう半減はんげんされ、だい改装かいそう全廃ぜんぱいされている[26][27]

だいいち世界せかい大戦たいせん軍縮ぐんしゅく時代じだい

編集へんしゅう

金剛こんごう竣工しゅんこうあいだもなく、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。イギリスとにちえい同盟どうめいむすんでいた大日本帝国だいにっぽんていこく連合れんごうこくぐんとして参戦さんせんすることとなり、金剛こんごう新鋭しんえいじゅんよう戦艦せんかんぐんにも出撃しゅつげき命令めいれいくだされた。当時とうじ金剛こんごうがた4せきからだいさん戦隊せんたい世界せかい最強さいきょうとうたわれており、北海ほっかい地中海ちちゅうかい方面ほうめんドイツ海軍かいぐんいていたイギリス海軍かいぐんからその一時いちじ貸与たいよもうれられた。さすがにこれはことわったものの、太平洋たいへいよう中国ちゅうごく方面ほうめんドイツ東洋とうよう艦隊かんたいうごきをふうじるべく活動かつどうおこなった。

だいいち世界せかい大戦たいせんちゅう1916ねん5月、海軍かいぐん史上しじょう有名ゆうめいユトランドおき海戦かいせんこり、これがめぐよう戦艦せんかんたる金剛こんごうがたのありかたおおきくえることとなった。海戦かいせん自体じたい史上しじょう最大さいだい規模きぼ砲撃ほうげきせんであるにもかかわらず、前衛ぜんえい部隊ぶたいとして矢面やおもてっためぐよう戦艦せんかん被害ひがい集中しゅうちゅうし、りょうぐんわせて4せき撃沈げきちんされるというものであった。とくにライオンきゅうの3ばんかんクイーン・メリー」がドイツじゅんよう戦艦せんかんデアフリンガー」からのただ2はつ直撃ちょくげきだんによって轟沈ごうちんしたことは衝撃しょうげきてきであった。前述ぜんじゅつとおり、金剛こんごうがた攻撃こうげきりょく速力そくりょく優位ゆういはライオンきゅうよりも装甲そうこう若干じゃっかんうすくすることによってていた。ライオンきゅうめぐよう戦艦せんかんにしてはたか防御ぼうぎょりょくっていたため問題もんだいなしとおもわれたのだが、そのライオンきゅういちかんがたった2はつ砲弾ほうだんによって撃沈げきちんされたことは、より深刻しんこくなものとめられた(その原因げんいん水平すいへい防御ぼうぎょりょく不足ふそくであり、じつ戦艦せんかんにも共通きょうつうする弱点じゃくてんであった)。

日本にっぽん海軍かいぐんかぎったはなしではなく、各国かっこくともユトランドおき海戦かいせんたたかえくんとした戦艦せんかん、すなわちポスト・ジュットランドかん建造けんぞうった。金剛こんごうがたじゅんせんだいかんが、はちはち艦隊かんたい天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかんである[28]一方いっぽうで、終戦しゅうせん戦勝せんしょうこくあいだ激化げきかはじめたけんかん競争きょうそう沈静ちんせいすべく1922ねんワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく締結ていけつされた。その結果けっかほんきゅう後継こうけい上位じょういかんしゅとして期待きたいされていた天城あまぎがたじゅんせん建造けんぞうできなくなったため、金剛こんごうがた改装かいそうしてポスト・ジュットランドがた戦艦せんかんとすることとした。

ユトランドおき海戦かいせんせんくんは、1にめぐよう戦艦せんかん防御ぼうぎょりょく不足ふそく、2に戦艦せんかん速度そくど不足ふそく、3に戦艦せんかんじゅんよう戦艦せんかんわず水平すいへい防御ぼうぎょ不足ふそく、4に戦艦せんかんめぐよう戦艦せんかん統合とうごうについて[29]、である。もとよりめぐよう戦艦せんかんにしては防御ぼうぎょりょくおおきい金剛こんごうがた改装かいそうは、3の水平すいへい防御ぼうぎょりょく強化きょうかしゅ目的もくてきとなった。まず1924ねんさき事故じここして現役げんえきはなれていた榛名はるな皮切かわきりに改装かいそうはいり、霧島きりしまきむつよし比叡ひえいつづいて改装かいそうおこなっていた。このころ、ワシントン軍縮ぐんしゅく条約じょうやくゆるされた戦艦せんかんだいかん建造けんぞう時期じきちかづき[30]、1933ねんをもってかんよわい20ねんとなる金剛こんごうからだいかん建造けんぞうされることになった[注釈ちゅうしゃく 6]。 このだいかん高速こうそく戦艦せんかんであったが、後述こうじゅつのロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく建造けんぞう中止ちゅうしとなった。

1930ねん1月開催かいさいロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎでは[32]金剛こんごうがた処遇しょぐう議題ぎだいひとつとなった[33]当初とうしょ廃棄はいき対象たいしょうは「きむつよし」が有力ゆうりょくされていた[34][35]。 しかし実際じっさい締結ていけつされたロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくでは[36]比叡ひえい廃棄はいき対象たいしょうとなった[注釈ちゅうしゃく 7]金剛こんごうがたとの関連かんれんうわさされたタイガー廃棄はいきされた)[13]。これによりきむつよし榛名はるな霧島きりしま排水はいすいりょう29,330t(やく3,000t増加ぞうか)となり従来じゅうらいよりたい弾性だんせい強化きょうかしたが、その代償だいしょうとして速度そくどが25ktにまでみ、1931ねん6がつかん種類しゅるいべつを「戦艦せんかん」へと変更へんこうされた(このときめぐよう戦艦せんかん」という類別るいべつ廃止はいしされた)。

速度そくど25ktという数値すうちは、ユトランドおき海戦かいせん活躍かつやくし「高速こうそく戦艦せんかん」(快速かいそく戦艦せんかん)とうたわれたクイーン・エリザベスきゅう戦艦せんかん同等どうとう速力そくりょくである[38]戦艦せんかんよりも快速かいそくであったが、30ノット以上いじょう発揮はっきするレナウンきゅうじゅんよう戦艦せんかんフッド比較ひかくすると[39][40]低速ていそくである。防御ぼうぎょりょく垂直すいちょく防御ぼうぎょ従来じゅうらいのままで、めぐよう戦艦せんかんとしては強力きょうりょくだが戦艦せんかんとしては不十分ふじゅうぶんであったが水平すいへい防御ぼうぎょかんしてはあらたにNVNかぶと鈑がぞうしされ、扶桑ふそうがたくらべると防御ぼうぎょいちじるしく向上こうじょうした。また、主砲しゅほうは35.6cmほう連装れんそう48もんもんすうすくであったが、散布さんぷかい過大かだい射撃しゃげき速度そくど低下ていか爆風ばくふうによるたま観測かんそく射撃しゃげき指揮しきへの影響えいきょうなど問題もんだいおおい12もんかんちがい8もんかん金剛こんごうがたでは上記じょうきのような問題もんだい発生はっせいしておらず、きわめて優秀ゆうしゅう成績せいせきおさめていた。 比叡ひえい練習れんしゅうかんとして保有ほゆうすることになり[41]、4ばん主砲しゅほうとうおよ一部いちぶ装甲そうこうかん撤去てっきょされ排水はいすいりょう19,500t、速力そくりょく18ktの練習れんしゅう戦艦せんかんになった[42]比叡ひえいはこうして戦力せんりょくがいにこそなったものの、重量じゅうりょう任務にんむてきには余裕よゆうができたため、4ばん砲塔ほうとう見学けんがくようだいもう昭和しょうわ天皇てんのう御召おめしかんなんつとめるなど軍艦ぐんかんとしては名誉めいよ役回やくまわりをえんじることとなる[43]

1929ねんよりドイツ海軍かいぐん建造けんぞう開始かいししたドイッチュラントきゅう装甲そうこうかん通称つうしょう「ポケット戦艦せんかん」)により[44]フランス海軍かいぐんイタリア海軍かいぐん高速こうそく戦艦せんかん建造けんぞう既存きそん戦艦せんかんだい改造かいぞう開始かいし[45]ヨーロッパけんかん競争きょうそう再燃さいねんした[46]。1937ねん1がつ軍縮ぐんしゅく条約じょうやく失効しっこう期限きげんせまると、各国かっこくとも条約じょうやく枠組わくぐみにとらわれないかん建造けんぞう、または既存きそんかん改造かいぞう着手ちゃくしゅするようになる[47]新造しんぞう主力しゅりょくかんは、おおむね主砲しゅほう14インチ~15インチで基準きじゅん排水はいすいりょう35,000トンおよび速力そくりょく30ノット以上いじょう発揮はっきする高速こうそく戦艦せんかん主流しゅりゅうとなった[48]金剛こんごうがたもまたもや榛名はるな皮切かわきりに霧島きりしま金剛こんごうだい近代きんだい改装かいそうはいり、条約じょうやく脱退だったい宣言せんげんしたころにはこれら3かん改装かいそうもだいぶすすんだ状態じょうたいにあった。榛名はるな筆頭ひっとう改造かいぞうされたため榛名はるながた戦艦せんかん呼称こしょうされ[49]昭和しょうわ天皇てんのう奏上そうじょうしたこともある[50]。 3かん改装かいそう完了かんりょうながらく練習れんしゅう戦艦せんかんとしてごしていた比叡ひえいもまた、それら3かんけてった改装かいそうをまとめてほどこし、戦艦せんかんとして復帰ふっきすることとなる。なおこのさい、イギリスが比叡ひえい復帰ふっき抗議こうぎし、比叡ひえい廃棄はいき処分しょぶんもとめている[51]比叡ひえい大和やまとがた戦艦せんかん導入どうにゅうされるしん技術ぎじゅつのテストかんとなり、姉妹しまいかんよりも大和やまと酷似こくじした艦橋かんきょうつことになったことがられているが、ほかにも主砲しゅほう旋回せんかい旋回せんかい速度そくどはや水圧すいあつ機関きかん導入どうにゅうするなど、3かんとはかなりちがったかんとなった。

金剛こんごうがた用兵ようへい思想しそう変遷へんせん

編集へんしゅう
 
1942ねん3がつ30にちインド洋いんどようにてみずづるより撮影さつえいされた写真しゃしん写真しゃしんみぎよりきむつよし榛名はるな霧島きりしま比叡ひえいりゅうあおいりゅう赤城あかぎ。このインド洋いんどようにおける作戦さくせん金剛こんごうがた4せき一同いちどうそろって行動こうどうした唯一ゆいいつのものとなった。

戦前せんぜん戦中せんちゅう大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん戦略せんりゃく思想しそうは、「漸減ぜんげん邀撃ようげき作戦さくせん」により潜水せんすいかん航空機こうくうき利用りようして事前じぜんてき戦力せんりょく可能かのうかぎ漸減ぜんげんし、戦艦せんかん部隊ぶたい同士どうしによる砲撃ほうげきせんにより雌雄しゆうけっする、いわゆる「艦隊かんたい決戦けっせん思想しそうであった。

めぐよう戦艦せんかん時代じだい金剛こんごうがたは、ゆうげき部隊ぶたい該当がいとうするだい艦隊かんたいとして運用うんようされることもあった[52]

改装かいそうされた金剛こんごうがた主力しゅりょく部隊ぶたい相当そうとうするだいいち艦隊かんたい所属しょぞく[53]長門ながとがた戦艦せんかん扶桑ふそうがた戦艦せんかん伊勢いせがた戦艦せんかんともだいいち戦隊せんたい構成こうせいしていた[54]。そのだいいち艦隊かんたい配備はいびする主力しゅりょくかん純粋じゅんすい戦艦せんかん統一とういつ[注釈ちゅうしゃく 4]めぐよう戦艦せんかんてき性格せいかくつよ金剛こんごうがた前衛ぜんえいになだい艦隊かんたい編入へんにゅうする計画けいかくられた[19]当初とうしょ比叡ひえい戦艦せんかんとして主力しゅりょく部隊ぶたい編入へんにゅうする計画けいかくだったが[18]、のちに修正しゅうせいされて高速こうそく戦艦せんかんとしてあつかわれている[19]。 とりあえず1936ねん以降いこう艦隊かんたい編制へんせい金剛こんごうがただいさん戦隊せんたいにまとめられ[注釈ちゅうしゃく 4]同時どうじだいさん航空こうくう戦隊せんたい新編しんぺんされた[注釈ちゅうしゃく 8]潜水艦せんすいかん陸上りくじょうによる攻撃こうげきおこなわれたのち決行けっこうされる夜戦やせんにおいて、前衛ぜんえい部隊ぶたい水雷すいらい戦隊せんたいじゅうじゅん部隊ぶたい)の先頭せんとうだい口径こうけいほうによって水雷すいらい戦隊せんたいじゅうじゅん部隊ぶたいてき警戒けいかいもう突破とっぱするのを支援しえんしたのち戦場せんじょうから離脱りだつし、黎明れいめい以降いこう主力しゅりょく戦艦せんかん部隊ぶたいであるだいいちだい戦隊せんたいふくぜん兵力へいりょく結集けっしゅうしておこなわれる艦隊かんたい決戦けっせんつづ参加さんかすることとなっていた。このため、金剛こんごうがただい改装かいそうおり水雷すいらい戦隊せんたいとともに夜戦やせん参加さんかできるように機関きかんかわそうし、30kt前後ぜんこう速力そくりょく発揮はっきできるようになった。しかし高性能こうせいのう便利べんり金剛こんごうがた榛名はるながた)といえどもかんよわいが20ねんえていたことから早期そうきだいかん必要ひつようであるとみなされており、日本にっぽん海軍かいぐんB65がたちょうかぶとがた巡洋艦じゅんようかんめぐよう戦艦せんかん)を計画けいかくしていた[50]

ところがいざ太平洋戦争たいへいようせんそうはじまると、本来ほんらい戦艦せんかん出撃しゅつげきするまえ露払つゆはらやくであった航空機こうくうき活躍かつやくにより、艦隊かんたい決戦けっせんおこなわれる機会きかいおとずれなかった。従来じゅうらい決戦けっせん主役しゅやくとされた長門ながとがた伊勢いせがた扶桑ふそうがたなどは、艦隊かんたい決戦けっせん兵力へいりょくとされたままゆうへい状態じょうたいとなった。

一方いっぽう金剛こんごうがたは、空母くうぼ同一どういつ行動こうどうるのに十分じゅうぶん速力そくりょくっていたことと、日本にっぽん海軍かいぐん保有ほゆうする戦艦せんかんなかではもっと旧式きゅうしきで、攻防こうぼうともにさいじゃくであったゆえに、損耗そんこうしたとしても戦力せんりょくおよぼす影響えいきょうひくかったため、使つかつぶしてもかまわない戦艦せんかんとしてあつかわれた。本来ほんらい金剛こんごうがた4かんだいさん戦隊せんたい編成へんせいしていたのが、2せきずつに分割ぶんかつされて行動こうどうした。真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきでは比叡ひえいだいさん戦隊せんたい司令しれいかん三川みかわ軍一ぐんいち少将しょうしょう)と霧島きりしま南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいに、金剛こんごう榛名はるな近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょうだい艦隊かんたい隷下れいかとして南方みなかた作戦さくせん参加さんかした。セイロンおき海戦かいせんでは、金剛こんごうがた4せき南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいとして行動こうどうした。ミッドウェー作戦さくせんでは、榛名はるな霧島きりしま南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいとして海戦かいせん矢面やおもてち、比叡ひえい金剛こんごう近藤こんどう部隊ぶたい所属しょぞくした。ミッドウェー海戦かいせんきむつよし榛名はるなだいさん戦隊せんたいと、比叡ひえい霧島きりしまだいじゅういち戦隊せんたい分割ぶんかつされた。だいさん戦隊せんたいだい艦隊かんたいに、だいじゅういち戦隊せんたい機動きどう部隊ぶたいだいさん艦隊かんたい)に所属しょぞくした。

戦争せんそうすすガダルカナルとうたたか苦戦くせんつづくようになると、てき航空こうくう基地きち砲撃ほうげき粉砕ふんさいすることが陸軍りくぐんによりもとめられた。当初とうしょ巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかん主体しゅたいとした作戦さくせん実行じっこうしていた海軍かいぐんだったが、てき艦隊かんたいとの遭遇そうぐうせんきたり、砲撃ほうげき成功せいこうしてもおおきなダメージをあたえられず早期そうき復旧ふっきゅうされてしまうため、戦艦せんかんだい口径こうけいほうによる撃砕げきさいかんがえられた。

このさい大和やまとがた使用しよう検討けんとうされたが、海面かいめんせまく、水深すいしん不正確ふせいかくなため座礁ざしょうおそれがあるともう反対はんたいけたため投入とうにゅうされなかった。またさほどゆうそくでもなく(27kt)、燃料ねんりょう消費しょうひおおきかった。

金剛こんごうがたはそれにたいして、巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたいとともにてき航空機こうくうきひろ索敵さくてき範囲はんいそとから高速こうそく侵入しんにゅう砲撃ほうげき、さらにてき攻撃こうげき圏外けんがいへの撤退てったいおこなえる速力そくりょくゆうしていたこともあり投入とうにゅうされた。また艦隊かんたい決戦けっせんにおける戦力せんりょくとしては期待きたいされておらず、うしなってもしくない老朽ろうきゅうかんとみなされた。

このヘンダーソン基地きちかんほう射撃しゃげきかんほう射撃しゃげきによる被害ひがいすくなかったものの、一式いっしきりくおさむによるばくげきもあっててき航空機こうくうき燃料ねんりょう弾薬だんやくおおきな被害ひがいあたえ、いち成功せいこうわったかにえた。しかし、戦略せんりゃく目標もくひょうである滑走かっそう破壊はかいかんしては戦闘せんとうようだい滑走かっそう事前じぜん偵察ていさつ発見はっけんできておらず無傷むきずのままであり、だいいち滑走かっそう自体じたいも1にち使用しよう可能かのう状態じょうたい修復しゅうふくされてしまった。その結果けっかだいさんソロモン海戦かいせん勃発ぼっぱつし、比叡ひえいニューオーリンズきゅうじゅう巡洋艦じゅんようかんなどと交戦こうせんして操舵そうだ不能ふのうとなり、自沈じちんまれた。霧島きりしましん世代せだい戦艦せんかんワシントン」によって撃沈げきちんされた。1943ねんは、金剛こんごう榛名はるな温存おんぞんされた。1944ねんになるとマリアナおき海戦かいせんレイテおき海戦かいせん投入とうにゅうされた。なお榛名はるなのみが終戦しゅうせんのこった。

結果けっかとして、日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかんもっとふるい4せき活動かつどうする機会きかいおおいという、皮肉ひにく事態じたいとなった。

かんがた変遷へんせん

編集へんしゅう
 
竣工しゅんこう金剛こんごう(1913ねん
 
だいいち改装かいそう直前ちょくぜん金剛こんごう(1924から28ねん

金剛こんごうがたかんがた変遷へんせん記述きじゅつする。

だいいち改装かいそうまで

編集へんしゅう
煙突えんとつ
きむつよし竣工しゅんこう煙突えんとつたかさが3ほんともおなじであり1ばん煙突えんとつ排煙はいえん艦橋かんきょう逆流ぎゃくりゅうする問題もんだいがあった。そのため同型どうけいかん同様どうように1ばん煙突えんとつたかめた。しかしこれでも十分じゅうぶんでなく金剛こんごう比叡ひえいには1924ねん大正たいしょう13ねん)ころに三日月みかづきがたのキャップが設置せっちされている。
方位ほういばん
榛名はるな1916ねん大正たいしょう5ねん)2がつ方位ほういばん照準しょうじゅん装置そうち試作しさく装備そうび実用じつよう実験じっけんおこなった。これは主砲しゅほう統一とういつして運用うんようするためのものである。場所ばしょぜん檣トップの射撃しゃげき指揮しきしょ拡張かくちょうして装備そうびされた。そのとしの8がつ射撃しゃげき試験しけんおこな満足まんぞく結果けっかられたのでいちさんしき方位ほういばんとして正式せいしき採用さいようされ、金剛こんごうがたふく戦艦せんかんめぐよう戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかん順次じゅんじ装備そうびされた。
探照燈たんしょうとう
1917ねん大正たいしょう6ねん)から1919ねんどう8ねん)にかけてかくかんともぜん中段ちゅうだん探照燈たんしょうとう集中しゅうちゅう配備はいびするようあらためられた。これは夜間やかん水雷すいらいてい攻撃こうげき対処たいしょするためとわれている。1924ねん大正たいしょう13ねん)ころにはぜん檣と1ばん煙突えんとつあいだにプラットフォームを新設しんせつしそこに移設いせつされている(金剛こんごうのみは1ばん煙突えんとつと2ばん煙突えんとつあいだ移設いせつ)。このときぜん檣にはふくほう指揮しきしょ照射しょうしゃ指揮しきしょなどがもうけられ日本にっぽん戦艦せんかん独特どくとく檣楼しょうろうがたぜん檣が形作かたちづくられている。
主砲しゅほう
1920ねん大正たいしょう9ねん)よりかくかん主砲しゅほう仰角ぎょうかく工事こうじ実施じっし従来じゅうらいの20金剛こんごうは25)から33げられた。これにより射程しゃてい距離きょりが28,600mまで延長えんちょうされた。同時どうじ弾薬だんやく改正かいせいされ、1もんたりのたますうが80はつから100はつ増加ぞうかした。また砲塔ほうとう天蓋てんがい装甲そうこうも76mmから154mmに強化きょうかされた。
係留けいりゅう気球ききゅう
1922ねん大正たいしょう11ねん)に比叡ひえいかん気球ききゅう係留けいりゅう装置そうち装備そうびした。これはたま観測かんそくよう装備そうびであったが水上すいじょう実用じつようになり1926ねん大正たいしょう15ねん)ころに撤去てっきょされている。水上すいじょう順次じゅんじ搭載とうさいされていき、比叡ひえい場合ばあい1927ねん昭和しょうわ2ねん)より3ばんほうと4ばんほうあいだ搭載とうさいされた。
魚雷ぎょらい防御ぼうぎょもう
1926ねん大正たいしょう15ねん)ころにかくかんとも魚雷ぎょらい防御ぼうぎょもう撤去てっきょしている。

だいいち改装かいそう

編集へんしゅう
 
だいいち改装かいそう榛名はるな(1931ねん

だいいち世界せかい大戦たいせんでのユトランドおき海戦かいせんでは遠距離えんきょり砲戦ほうせんでほぼ垂直すいちょく落下らっかする砲弾ほうだんによりイギリス艦隊かんたい多大ただい損害そんがいしょうじた。このときせんくんにより各国かっこく海軍かいぐん戦艦せんかんめぐよう戦艦せんかんへの水平すいへい防御ぼうぎょ強化きょうかせまられた。日本にっぽん海軍かいぐん例外れいがいでなく金剛こんごうがたたいしても水平すいへい防御ぼうぎょ強化きょうかのためのだいいち改装かいそうおこなわれた。

実施じっし時期じき
このだいいち改装かいそう榛名はるな1924ねん大正たいしょう13ねん)3がつから1928ねん昭和しょうわ3ねん)7がつ30にち(もしくは7がつ31にち)まで横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうで、霧島きりしま1927ねん昭和しょうわ2ねん)3がつから1930ねん昭和しょうわ5ねん)4がつ16にち(もしくは3がつ31にち)まで海軍かいぐん工廠こうしょうで、きむつよし1928ねん昭和しょうわ3ねん)12月1にちから1931ねん昭和しょうわ6ねん)9がつ15にち(もしくは3がつ31にち)まで横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうおこなわれた。比叡ひえいについては後述こうじゅつする。
水平すいへい防御ぼうぎょ
弾薬だんやくじょうに4インチ(101.6mm)のNVNC甲板かんぱんが、また機関きかんじょうには3インチ(76.2mm)のHT鋼板こうはん追加ついかされた。水中すいちゅう防御ぼうぎょとしては舷側げんそくに1インチ(25.4mm)のHT鋼板こうはんを3,4まいかさね、その外側そとがわにバルジをもうけた。これでたい36cm砲弾ほうだん防御ぼうぎょとされたが不十分ふじゅうぶんだったとされている。
しゅかん
この改装かいそうでは同時どうじしゅかんかわそうおこなわれている。竣工しゅんこうかくかん石炭せきたん重油じゅうゆこんしょうかんを36装備そうびしていたが技術ぎじゅつ進歩しんぽにより1かんたりの出力しゅつりょくがあがり、榛名はるな場合ばあい、ロごうかん本式ほんしき重油じゅうゆせんしょうかん6どうこんしょうかん10交換こうかんされた。またその改装かいそうされたきむつよし霧島きりしま場合ばあいせんしょうかん4こんしょうかん6さらすくなくなっている。これによりいままでは燃料ねんりょう石炭せきたんおも重油じゅうゆしたがえであったが、重油じゅうゆおも石炭せきたんしたがえかたちとなった。さら重油じゅうゆせんしょうとなるのはだい改装かいそう必要ひつようがある。また外観がいかんじょう変化へんかとしてはかんかわそうにより煙突えんとつが2ほんとなった。これはきゅうだい1煙突えんとつ撤去てっきょされたかたちとなった。
速力そくりょく
おも交換こうかんされなかった。改装かいそうによる排水はいすいりょう増加ぞうか、バルジによるかんはば増加ぞうかなどから速力そくりょく低下ていかした。ちなみに改装かいそうおおやけためし成績せいせき榛名はるな25.9kt、霧島きりしま26.3kt、金剛こんごう26.0ktであった。比叡ひえい以外いがい金剛こんごうがたかくかんは1931ねんめぐよう戦艦せんかんから戦艦せんかん類別るいべつ変更へんこうしている。
航空こうくうへいそう
水上すいじょう搭載とうさいであるが金剛こんごうはすでに改装かいそうまえから搭載とうさいしていた。榛名はるな霧島きりしまはこの改装かいそうから搭載とうさいされた。
高角こうかくほう
8cmたんそう高角こうかくほう4もんと7.7mm機銃きじゅう3てい装備そうびされた。
水雷すいらいへいそう
このころには戦闘せんとうおこな距離きょり延伸えんしんしたことにより有効ゆうこうせいったとかんがえられ、水中すいちゅう魚雷ぎょらい発射はっしゃ装置そうち4撤去てっきょした[22][26]

練習れんしゅう戦艦せんかん比叡ひえい

編集へんしゅう

ワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくによりしん戦艦せんかん建造けんぞう凍結とうけつした各国かっこくであるがそれでも既存きそんかん維持いじ財政ざいせい圧迫あっぱくされていた。そのため1930ねん昭和しょうわ5ねん締結ていけつロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎでは主力しゅりょくかん一部いちぶ破棄はき決定けっていした。日本にっぽん海軍かいぐんでは1せき破棄はきとされ金剛こんごうがたなか最後さいご工事こうじちゅうだった比叡ひえいえらばれた。ただし条件じょうけんたせば練習れんしゅう戦艦せんかんとしての存続そんぞくみとめられたのでそれに沿って改装かいそうされた。おも改装かいそうてん

 
練習れんしゅう戦艦せんかん時代じだい比叡ひえい装甲そうこう撤去てっきょなどでいぬいふなばたたかい。
  • 4ばん砲塔ほうとう撤去てっきょ主砲しゅほうとうは3えない条件じょうけん
  • 魚雷ぎょらい発射はっしゃかん全廃ぜんぱい
  • 舷側げんそく装甲そうこう撤去てっきょ
  • しゅかん重油じゅうゆせんしょうかん大型おおがた2小型こがた3こんしょうかん6とし、出力しゅつりょくは16,000馬力ばりきとする。(速力そくりょく18ktをえない条件じょうけん

などである。 へいそうはその高角こうかくほうを12.7cmほう交換こうかんするなど、練習れんしゅう戦艦せんかんながらそのとき最新さいしん装備そうび搭載とうさいされている。

またこの当時とうじ比叡ひえい御召おめしかんとしても利用りようされた。これは元々もともと戦艦せんかんでありさらへいそう撤去てっきょされたことにより艦内かんない余裕よゆうがあること、また艦隊かんたいぞくしていないため比較的ひかくてき自由じゆうにスケジュールがとれる、などの理由りゆうによる。このため3ばん砲塔ほうとう後方こうほうと4ばん砲塔ほうとうあと展望てんぼうだいもうけられている。比叡ひえい1933ねん昭和しょうわ8ねん)と1936ねんどう11ねん)の観艦式かんかんしきにおいて御召おめしかんつとめた。まただい改装かいそう終了しゅうりょう直後ちょくご1940ねん昭和しょうわ15ねん)の観艦式かんかんしきでも御召おめしかんつとめている。

だい改装かいそうまで

編集へんしゅう
カタパルト
水上すいじょう搭載とうさい当初とうしょ水面すいめんろして発進はっしんさせていたが、そのカタパルトが実用じつようされると3ばん,4ばん主砲しゅほうあいだに1設置せっちされた。榛名はるなだい改装かいそうに、比叡ひえい戦艦せんかん復帰ふっき設置せっちされている。
高角こうかくほう
1932ねん昭和しょうわ7ねんごろかくかん8cm高角こうかくほう4もんわりはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう4搭載とうさいした。また指揮しき装置そうちとしてきゅう一式いっしき高射こうしゃ装置そうちと4.5m高角こうかくはか距儀も装備そうびされた。
こう短縮たんしゅく
1934ねん昭和しょうわ9ねんごろかくかん檣トップを短縮たんしゅくしている。遠距離えんきょり砲戦ほうせん場合ばあい視認しにんせいすこしでもひくめるための処置しょちである。ただし無線むせんアンテナを展開てんかいする充分じゅうぶんなスペースがなくなり3ばんばん主砲しゅほうじょう空中線くうちゅうせん支持しじマストを新設しんせつし、アンテナ展開てんかい場所ばしょ確保かくほしている。

だい改装かいそう

編集へんしゅう
 
改装かいそう霧島きりしま(1938ねん

だい改装かいそう1934ねん昭和しょうわ9ねん)に榛名はるなよりはじめられた。主眼しゅがん速力そくりょく30ktの高速こうそく戦艦せんかんとすることである。このため機関きかん全面ぜんめん改装かいそう船体せんたい延長えんちょうなどがなされている。

速力そくりょく
おも全面ぜんめんかわそうされかん本式ほんしきタービン4交換こうかんされた。しゅかん榛名はるな場合ばあいごうかん本式ほんしき重油じゅうゆせんしょうかん11とされ(霧島きりしまきむつよしは8)、出力しゅつりょく136,000馬力ばりきげられた。またかん水線すいせんちょうで7.4m延長えんちょう船体せんたい抵抗ていこう減少げんしょうさせた。これにより金剛こんごうがたは30kt(榛名はるなおおやけためし成績せいせきで30.2kt)の高速こうそく戦艦せんかんとなった。
主砲しゅほう
主砲しゅほう仰角ぎょうかくが43までげられ最大さいだい射程しゃていは35,450mまで増大ぞうだいした。またそれにわせてぜん檣トップに10mはか距儀(榛名はるな当初とうしょ8m)が新設しんせつされ、振動しんどう防止ぼうしのサポート支柱しちゅうぜん檣背めんもうけられた。また後部こうぶ艦橋かんきょう新設しんせつされ予備よび方位ほういばん装備そうびされた。これにより主砲しゅほう前後ぜんごけてのぶん指揮しき可能かのうになった。また弾薬だんやく改造かいぞうされきゅう一式いっしきてっかぶとだん使用しよう可能かのうとなっている。
ふくほう
ふくほう仰角ぎょうかくが30までげられ最大さいだい射程しゃてい19,500mとなった。装備そうびすうは2減少げんしょうして14となった。
水雷すいらいへいそう
4のこっていた水中すいちゅう発射はっしゃかんはこのとき全廃ぜんぱいされている[22][27]
カタパルト
航空こうくうへいそうは3ばん4ばん砲塔ほうとうあいだ作業さぎょう甲板かんぱんひろげカタパルト1装備そうび航空機こうくうき3搭載とうさいした。(きむつよし霧島きりしま改装かいそうまえ装備そうびみ)
対空たいくうへいそう
対空たいくうへいそうとして25mm連装れんそう機銃きじゅう10装備そうび榛名はるな改装かいそう追加ついか装備そうび)している。
装甲そうこう配置はいち[56]
しゅかぶとたい 203 KC(下端かたん 76)
ちゅう甲板かんぱんかぶとたい 152 KC
うえ甲板かんぱんかぶとたい 152 KC
よこ防御ぼうぎょ隔壁かくへき 前部ぜんぶちゅう甲板かんぱん 152 KC しも甲板かんぱん 127 KC 後部こうぶちゅう甲板かんぱん 152 KC しも甲板かんぱん 203 KC
水平すいへい防御ぼうぎょ かんしつ甲板かんぱん 19 NS+76 HT 機械きかいしつ甲板かんぱん 19 NS+89-83 NCNV
最上もがみ甲板かんぱん 28 NS
魚雷ぎょらい防御ぼうぎょ隔壁かくへき 102-76 HT
弾薬だんやく 甲板かんぱん平坦へいたん 19 NS+127-102 NVNC 甲板かんぱん傾斜けいしゃ 19 NS+70 NVNC 垂直すいちょく 19-13 NS 底部ていぶ 25-19 NS
司令塔しれいとう 側面そくめん 254 KC 上面うわつら 76 KC ゆかめん 76 KC 交通こうつうとう 178-102 NCS
主砲しゅほうとう ぜんたて 254 KC 側面そくめん 254 KC こうめん 254 KC 上面うわつら 152 VC バーベット 229-76 KC+76 VC+127-64 VC
ケースメイト ほうたて 38 NS 隔壁かくへき 51
舵取かじとりしつ なし(大戦たいせんちゅう周辺しゅうへんにコンクリート充填じゅうてん
けむり 203 VC
その
ちゅう排水はいすい装置そうち防毒ぼうどく装置そうちなども装備そうびされた。またふくいかりがこのとき撤去てっきょされた。(榛名はるな後日ごじつ撤去てっきょ
 
改装かいそう比叡ひえい(1942ねん
比叡ひえい改装かいそう
比叡ひえいだいいち改装かいそうをしていないのでその工事こうじわせて1936ねん昭和しょうわ11ねん)から1940ねんどう15ねん)にかけて実施じっしされた。はずされていた4ばん主砲しゅほう舷側げんそく装甲そうこうさい装備そうびかんおな主砲しゅほう連装れんそう4になった。かんいち改装かいそう実施じっしした水平すいへい防御ぼうぎょ強化きょうかもこのとき実施じっししている。またぜん檣はの3かんちがとうがた艦橋かんきょう構造こうぞうぶつとなった。これは大和やまとがた戦艦せんかんのテストをねての改装かいそうである。主砲しゅほうとう用水ようすいあつポンプの1だい大和やまとがた採用さいよう予定よていのブラウン・ボベリーしきターボ・ポンプとしている。また比叡ひえいのみバルジのはばをさらにひろかんよりかんはばが1mひろくなっている。

出師すいしぜん準備じゅんび

編集へんしゅう

1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはいりバルジ内部ないぶ水密すいみつ鋼管こうかん装備そうびふなばたがい電路でんろ設置せっちなどがされている。またぜん檣トップ防空ぼうくう指揮しきしょ新設しんせつされた。

大戦たいせんちゅう変遷へんせん

編集へんしゅう
 
最終さいしゅう金剛こんごうかんがた

だいさんソロモン海戦かいせん戦没せんぼつした比叡ひえい霧島きりしまにはおおきな改装かいそうはされていない。きむつよし榛名はるなにはこのときせんくんにより舵取かじとり装置そうち防御ぼうぎょ強化きょうかがされている。その日本にっぽん艦艇かんてい同様どうようでんさがせ装備そうび対空たいくう機銃きじゅうぞう備がされた。マリアナおき海戦かいせん(1944ねん6がつ以降いこう榛名はるな場合ばあい、12.7cm連装れんそう高角こうかくほう6、25mm3連装れんそう機銃きじゅう28どう連装れんそう2どうたんそう23てい装備そうびされている。でんさがせ最終さいしゅう状態じょうたいで21ごう1、22ごう2、13ごう2さらぎゃくさがせ装備そうびしたものとおもわれる。またこれらの代替だいたい重量じゅうりょうとしてふくほう撤去てっきょされこのときけい8もんとなっている。

関係かんけい年表ねんぴょう

編集へんしゅう
  • 1911ねん明治めいじ44ねん)1がつ17にち - えいヴィッカースにて「きむつよし」(ごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん起工きこう[21]
    • 11月4にち - 横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうにて「比叡ひえい」(ごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん起工きこう[21][22]
  • 1912ねん大正たいしょう元年がんねん)3がつ16にち - 神戸こうべ川崎かわさき造船ぞうせんしょにて「榛名はるな」(だい2ごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん起工きこう[21]
    • 3月17にち - 三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょにて「霧島きりしま」(だい3ごう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん起工きこう[注釈ちゅうしゃく 9]
    • 5月18にち - 「きむつよし進水しんすい[21]
    • 11月21にち - 「比叡ひえい進水しんすい[21][22]
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん)8がつ16にち - 軍艦ぐんかんきむつよし竣工しゅんこう[57]、引渡[21]日本にっぽん回航かいこうされる。
    • 11月15にち - 「きむつよし横須賀よこすか到着とうちゃく[57]横須賀よこすか鎮守ちんじゅ入籍にゅうせき
    • 12月1にち - 「霧島きりしま進水しんすい[21]
    • 12月14にち - 「榛名はるな進水しんすい[21]
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん)7がつ28にち - だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ、8がつには日本にっぽん参戦さんせん
    • 8がつ4にち - 軍艦ぐんかん比叡ひえい竣工しゅんこう[57][22]、引渡[21]佐世保させぼ鎮守ちんじゅ入籍にゅうせき
    • 8がつ23にち - 「きむつよし」、太平洋たいへいよう航路こうろ警備けいびのためミッドウェー方面ほうめん哨戒しょうかい出撃しゅつげき
    • 9月14にち - 「比叡ひえい」、東シナ海ひがししなかい方面ほうめんにてドイツ東洋とうよう艦隊かんたいたい警備けいび行動こうどう
  • 1915ねん大正たいしょう4ねん)4がつ19にち - 軍艦ぐんかん榛名はるな竣工しゅんこう[57]、引渡[21]横須賀よこすか鎮守ちんじゅ入籍にゅうせき
  • 1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ9にち - 「榛名はるな」、青島ちんたお方面ほうめん警備けいび行動こうどうのため出撃しゅつげき
    • 4がつ9にち - 「霧島きりしま」、中国ちゅうごく方面ほうめん警備けいび行動こうどうのため出撃しゅつげき
    • 5月31にち - ユトランドおき海戦かいせんえいどく新鋭しんえいじゅんよう戦艦せんかん撃沈げきちんされる。
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん)9がつ20日はつか - 「榛名はるな」、主砲しゅほう腔発事故じこ[57]
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)11月11にち - ワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくにより天城あまぎがたじゅんよう戦艦せんかんはいかん決定けってい
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん)3がつ - 「榛名はるなだいいち近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ[57]
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん)5がつ12にち - 「霧島きりしまだいいち近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ[57]
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)7がつ28にち - 「榛名はるな」、だいいち近代きんだい改装かいそう完了かんりょう
    • 10がつ20日はつか - 「きむつよしだいいち近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん)10がつ15にち - 「比叡ひえいだいいち近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ[57]
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん)4がつ16にち - 「霧島きりしま」、だいいち近代きんだい改装かいそう完了かんりょう
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)6がつ1にち - ほんきゅう4せきすべかん種類しゅるいべつを「戦艦せんかん」に変更へんこう[57]、「めぐよう戦艦せんかん」の類別るいべつ廃止はいし
    • 9がつ20日はつか - 「きむつよしだいいち近代きんだい改装かいそう完了かんりょう
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ1にち - 「比叡ひえい」、類別るいべつを「練習れんしゅう戦艦せんかん」に変更へんこう武装ぶそう一部いちぶ撤去てっきょ
    • 9月?にち - 「榛名はるな」、だい近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん)6がつ1にち - 「霧島きりしま」、だい近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ
    • 9月30にち - 「榛名はるな」、だい近代きんだい改装かいそう完了かんりょう佐世保させぼ鎮守ちんじゅ移籍いせき
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん)6がつ1にち - 「きむつよし」、佐世保させぼ鎮守ちんじゅ移籍いせきだい近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつ15にち - 日本にっぽん、ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく脱退だったい
    • 6月8にち - 「霧島きりしま」、だい近代きんだい改装かいそう完了かんりょう
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)1がつ8にち - 「きむつよし」、だい近代きんだい改装かいそう完了かんりょう
    • 4がつ1にち - 「比叡ひえい」、近代きんだい改装かいそう着手ちゃくしゅ
  • 1940ねん昭和しょうわ15ねん)1がつ31にち - 「比叡ひえい」、近代きんだい改装かいそう完了かんりょう[57]
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月18にち - 「比叡ひえい」「霧島きりしま」をふく機動きどう部隊ぶたい単冠湾ひとかっぷわんけて横須賀よこすか出港しゅっこう[57]
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ6にち - 「きむつよし」「榛名はるな」、らんしるし作戦さくせん支援しえんのためうまこう出撃しゅつげき
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつ31にち - 「きむつよし」「榛名はるな」、ガダルカナル撤収てっしゅう支援しえん
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ20日はつか - マリアナおき海戦かいせん、「きむつよし」「榛名はるな」は戦艦せんかんとともに前衛ぜんえい部隊ぶたい
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ1にち - だいさん戦隊せんたい解散かいさん[62]
    • 1がつ20日はつか - 「きむつよし除籍じょせき[63]
    • 2がつ10日とおか - 榛名はるな役務えきむ佐世保させぼ鎮守ちんじゅ警備けいびかんさだめられる[64]
    • 4がつ20日はつか - 榛名はるな佐世保させぼ鎮守ちんじゅ警備けいびかん役務えきむかれ、佐世保させぼ鎮守ちんじゅだいよん予備よびかんさだめられる[65]
    • 6月1にち - 榛名はるな役務えきむ佐世保させぼ鎮守ちんじゅ特殊とくしゅ警備けいびかんさだめられる[66]
    • 7がつ28にち - 「榛名はるな」、江田島えたじま小用しょうようおきにてべい軍機ぐんきにより大破たいはそこ[57]
    • 8がつ15にち - 榛名はるな佐世保させぼ鎮守ちんじゅだいよん予備よびかんさだめられる[67]
    • 11月20にち - 「榛名はるな除籍じょせき[57]
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん)7がつ4にち - 「榛名はるな」の浮揚ふよう解体かいたい完了かんりょう

同型どうけいかん

編集へんしゅう
かんめい 建造けんぞうしょ 起工きこう 進水しんすい 竣工しゅんこう 最期さいご
きむつよし ヴィッカース 1911ねん1がつ17にち 1912ねん5がつ18にち 1913ねん8がつ16にち 1944ねん11月21にちべい潜水せんすいかんシーライオンの雷撃らいげき沈没ちんぼつ
比叡ひえい 横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう 1911ねん11月4にち 1912ねん11月21にち 1914ねん8がつ4にち 1942ねん11月13にちだいさんソロモン海戦かいせん自沈じちん
榛名はるな 神戸こうべ川崎かわさき造船ぞうせんしょ 1912ねん3がつ16にち 1913ねん12月14にち 1915ねん4がつ19にち 1945ねん7がつ28にち軍港ぐんこう空襲くうしゅう大破たいはそこ、1946ねん解体かいたい
霧島きりしま 三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ 1912ねん3がつ17にち 1913ねん12月1にち 1915ねん4がつ19にち 1942ねん11月15にちだいさんソロモン海戦かいせん沈没ちんぼつ

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b めぐよう戰艦せんかん金剛こんごうまんななせんひゃくとん)はどうクラスの比叡ひえい霧島きりしま榛名はるなさんかんいずれもくに建造けんぞうされたのに英國えいこくヴイツカースしゃ建造けんぞうになるもので軍縮ぐんしゅく會議かいぎ兵力へいりょくりょう缺陥けっかんおぎなえふべく海軍かいぐんでは昭和しょうわさんねんじゅういちがつから横須賀よこすか工廠こうしょうだい改造かいぞう着手ちゃくしゅ滿まんさんヶ年かねんついやしてようや今秋こんしゅうきゅうがつ中旬ちゅうじゅん完成かんせいすることになつた。[11] 改造かいぞう金剛こんごう性能せいのう軍機ぐんきかんする極秘ごくひとされてゐるが現在げんざいごと防空ぼうくう設備せつび重大じゅうだいされない大正たいしょうねんはちがつ英國えいこく建造けんぞうされたもので完全かんぜん甲板かんぱんじょう防空ぼうくう設備せつびをなすそとぜん檣が榛名はるな同形どうけい改造かいぞう水平すいへいせん以下いかには魚形水雷ぎょけいすいらいふせぐバルリー新設しんせつされるとう近代きんだいてきじゅんよう戰艦せんかんとしてうまかわるか、だい改造かいぞうため排水はいすいりょう相當そうとう增加ぞうかあり速力そくりょくじゅうなな.ノットにも影響えいきょうするにいたりつたので、石炭せきたんはい重油じゅうゆ使用しよう煙突えんとつさんほんほんげんぜられ、じゅん日本にっぽんしきがたからだゆうするにいたりつた記事きじおわり)
  2. ^ 金剛こんごう進水しんすいと、アメリカ海軍かいぐんはつ45口径こうけい14インチほう搭載とうさい戦艦せんかんニューヨークきゅう戦艦せんかんテキサス進水しんすい同日どうじつ[5]
  3. ^ 日本にっぽん海軍かいぐん戦艦せんかんでは最高さいこうの30kt。
  4. ^ a b c じゅうきゅうにち東京とうきょうはつ[15] 軍縮ぐんしゅく會議かいぎ決裂けつれつによりすでえいべい兩國りょうこく海軍かいぐんりょく充實じゅうじつ準備じゅんび開始かいししたが、これ對應たいおうしてわが海軍かいぐん敢ず現在げんざい劣勢れっせい海軍かいぐんりょくによる國防こくぼう安全あんぜん確保かくほすべく、常備じょうび艦隊かんたい兵力へいりょく充實じゅうじつすることになり、聯合れんごう艦隊かんたい主力しゅりょくかん戰隊せんたいおよ航空こうくう戰隊せんたい新設しんせつ追加ついか編入へんにゅうすることに方針ほうしん決定けっていした、決意けついするにいたりつた事情じじょうえいべい海軍かいぐん現勢げんせい主力しゅりょくかんじゅうせき保有ほゆうたいし、わがほう既存きそん條約じょうやく桎梏しっこくによりきゅうせきゆうするにぎず、さら常備じょうび艦隊かんたい編制へんせいにおいてはえいべいぜん主力しゅりょくかんだい部分ぶぶん編入へんにゅうし、わが海軍かいぐん豫算よさん關係かんけいじょうぜん主力しゅりょくかん半數はんすうじゃくいち戰隊せんたい編成へんせい聯合れんごう艦隊かんたい常置じょうちしてゐる程度ていどなので、主力しゅりょくかん戰隊せんたい充實じゅうじつとともにめぐよう戰艦せんかんがた快速かいそく主力しゅりょくかん威力いりょく發揮はっきせしむるため、聯合れんごう艦隊かんたいだいいち戰隊せんたいじゅん戰艦せんかんもっ編成へんせいし、しん金剛こんごうきゅう主力しゅりょくかんもっだいさん戰隊せんたい編成へんせい航空こうくう母艦ぼかんたいえいべいろくわり劣勢れっせいかんが水上すいじょう母艦ぼかんもっだいさん航空こうくう戰隊せんたい編成へんせい意向いこうがつごろ實現じつげんする模様もようである(記事きじおわり)
  5. ^ 1944ねんになるとだい艦隊かんたい大和やまとがた戦艦せんかん編入へんにゅうされ、残存ざんそんしていた金剛こんごう榛名はるな行動こうどうともにした(マリアナおき海戦かいせんレイテおき海戦かいせんにおける栗田くりた艦隊かんたい)。
  6. ^ 二十日はつか東京とうきょうはつ[31] 既報きほうごと主力しゅりょくかんだいかん建造けんぞう問題もんだい財源ざいげん捻出ねんしゅつにつき議會ぎかい問題もんだいとなつてゐるが はな會議かいぎ の結果けっか保有ほゆうされてあるわが主力しゅりょくかんじゅうすうせきなかじゅんよう戰艦せんかん金剛こんごう二六にろく,さんとん)は昭和しょうわはちねんかんよわいじゅうねんたっするので、ろく年度ねんどにはそのだいかん起工きこうされるはずで、かんせい本部ほんぶではすでに設計せっけい着手ちゃくしゅしてゐるが、おそらく列強れっきょう海軍かいぐん驚倒きょうとうさせるやうなだい威力いりょくかん建造けんぞうされるであらうと期待きたいされてゐる、ワシントン會議かいぎによつて保有ほゆうしたわが主力しゅりょくかんの そう排水はいすいりょう はさんじゅういちまんせんとんで、これをいちかんさんまんせんとんきゅうのものばかりにすると、現有げんゆう勢力せいりょくじゅうすうせききゅうせきになるが、このあいだ按排あんばい適當てきとう考慮こうりょすることとなり、金剛こんごうだいかん大體だいたいにおいて大正たいしょうきゅうねんじゅうがつ工廠こうしょう常備じょうび排水はいすいりょうよんまんいちせんとんじゅんよう戰艦せんかんとして建造けんぞうした赤城あかぎ(そのはな條約じょうやくにより航空こうくう母艦ぼかん改造かいぞう)を標準ひょうじゅんとし、排水はいすいりょうげんずるためにはかんざいにはいそなみそのいちせんななひゃくとんきゅう驅逐くちくかん使用しようして成績せいせきおさめてゐるジュラルミン輕金属けいきんぞく使用しようし、基準きじゅん排水はいすいりょうさんまんせんとん以内いない航空こうくう兵器へいきや落角だんたいする しん考案こうあんを へ、主砲しゅほうじゅうろくいんちほうじゅうもんれんそう砲塔ほうとう)を搭載とうさいし、だい口徑こうけい魚雷ぎょらい發射はっしゃかんはちもん装備そうびし、じゅうななせつ以上いじょうかい速力そくりょくゆうするもので、英國えいこく列強れっきょう海軍かいぐんほこ戰艦せんかんロドネー基準きじゅん排水はいすいりょうさんまんいちせんとん)をはるかに凌駕りょうがする世界せかいだいいち最新さいしんさいするどのものであるといはれてゐる、この最初さいしょだいかん横須賀よこすかまたはくれ建造けんぞうされるはずである(記事きじおわり)
  7. ^ 東京とうきょう八日ようか[37] ロンドン海軍かいぐん會議かいぎ協定きょうてい成立せいりつ日本にっぽん廢棄はいきする主力しゅりょくかんいちせきめぐよう戰艦せんかん比叡ひえいまんななせんひゃくとん)と決定けっていした(記事きじおわり)
  8. ^ じゅうきゅうにち東京とうきょうはつ[55] 軍縮ぐんしゅく會議かいぎ脱退だったい我國わがくに條約じょうやく状態じょうたいとなり各國かっこく海軍かいぐん競爭きょうそう激化げきか形勢けいせいに備へるため金剛こんごうきゅう主力しゅりょくかんもっだいさん戰隊せんたい編成へんせい航空こうくう母艦ぼかんもっだいさん航空こうくう戰隊せんたい編成へんせいすることになつた(記事きじおわり)
  9. ^ 長崎ながさきなる三菱みつびし造船ぞうせんしょける帝國ていこく装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんきりしま排水はいすいりょうまんななせんとん)の起工式きこうしきじゅうななにち午前ごぜんじゅうより同所どうしょ立神たてがみ工場こうじょう擧行きょこう龍骨りゅうこつ据付すえつけりょうせり同艦どうかんがつじゅうろくにち起工きこうせる巡洋艦じゅんようかんはしばみ姉妹しまいかんにしてよんじゅうきゅう年度ねんどもっ竣工しゅんこう豫定よていなるが機關きかんはパーソンしきタービンを採用さいようすべしと[16]記事きじおわり)

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ めぐよう戰艦せんかん新造しんぞう きむつよし比叡ひえいだいかん 噸數とんすうよんまん内外ないがい”. Nichibei Shinbun. pp. 05 (1919ねん5がつ16にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d #日本にっぽん戦艦せんかん(うえ)2001p.222
  3. ^ 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ65 決定けっていばん 金剛こんごうがた戦艦せんかん』pp.133
  4. ^ 福井ふくい静夫しずお著作ちょさくしゅうだい1かん 日本にっぽん戦艦せんかん物語ものがたりI』pp.345-346。
  5. ^ a b しんかん金剛こんごう威力いりょく ……世界せかい屈指くっし新鋭しんえい……”. Nippu Jiji. pp. 02 (1913ねん5がつ27にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  6. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1935, p. 17戰艦せんかんきむつよし こんがう”
  7. ^ うみ生命せいめいせんまもわが帝國ていこく海軍かいぐんげん勢力せいりょく”. Yuta Nippō. pp. 03 (1933ねん10がつ16にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ 日本にっぽん軍艦ぐんかんしゅう2600年版ねんばん 1940, p. 19a― 戰艦せんかん ― 榛名はるな(はるな)
  9. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1937, p. 17戰艦せんかん榛名はるな はるな”
  10. ^ 日本にっぽん軍艦ぐんかんしゅう2600年版ねんばん 1940, p. 19b― 戰艦せんかん ― 霧島きりしま(きりしま)
  11. ^ めぐよう戰艦せんかんきむつよしじゅん日本にっぽんしきだい改造かいぞう 今秋こんしゅうまでに面目めんぼく一新いっしん”. Hoji Shinbun Digital Collection. Burajiru Jihō. pp. 08 (1931ねん7がつ2にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  12. ^ 戰艦せんかん復興ふっこうさん無氣味ぶきみ日本にっぽん沈黙ちんもく 不安ふあんおびえゆるえいべい”. Nippaku Shinbun. pp. 01 (1938ねん4がつ29にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  13. ^ a b 倫敦ろんどん軍縮ぐんしゅく會議かいぎ 軍縮ぐんしゅく協定きょうていによる主力しゅりょくはいかんけっす 日本にっぽん比叡ひえい練習れんしゅうかんにし批准ひじゅんじゅうはちヶ月かげつ廢棄はいき”. Shin Sekai. pp. 01 (1930ねん4がつ14にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  14. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1935, p. 18練習れんしゅう戰艦せんかん比叡ひえい ひえい”
  15. ^ えいべい海軍かいぐん對應たいおうわが常備じょうび艦隊かんたい兵備へいび充實じゅうじつ 五月ごがつから強化きょうかされる聯合れんごう艦隊かんたい”. Manshū Nichinichi Shinbun. pp. 01 (1936ねん1がつ30にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  16. ^ a b 高速こうそく戰艦せんかんきりしま起工式きこうしき じゅうななにち三菱みつびし造船ぞうせんしょにて”. Nippu Jiji. pp. 06 (1912ねん4がつ1にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  17. ^ a b ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1937, p. 16戰艦せんかん霧島きりしま きりしま”
  18. ^ a b #S15ねんまつ国防こくぼう所要しょよう兵力へいりょくひょう(S9.09.25) p.2(軍機ぐんき 條約じょうやく決裂けつれつきさき昭和しょうわじゅうねんまつニ於ケル國防こくぼう所要しょよう兵力へいりょくひょう昭和しょうわきゅう.きゅう.軍令ぐんれいだいいち)(註:しん高速こうそく戦艦せんかん(65,000トン×34ノット)にたいし、金剛こんごうがた3せきは「きゅう高速こうそく戦艦せんかん」と表記ひょうき比叡ひえい戦艦せんかん復旧ふっきゅう
  19. ^ a b c #S16年度ねんど海軍かいぐん戦時せんじ編制へんせいあん(昭和しょうわ10ねん2がつ) p.5(軍機ぐんき 昭和しょうわじゅうろく年度ねんどいちきゅうよんいちねん帝國ていこく海軍かいぐん戰時せんじ編制へんせいあん))〔 GF|2F|4S|こうせんはしばみ きり きむ (あらため) 〕
  20. ^ 勇姿ゆうし堂々どうどううみ 軍艦ぐんかん命名めいめい 戰艦せんかんくに巡洋艦じゅんようかん山川やまかわ”. Kawai Shinpō. pp. 06 (1938ねん11月8にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 福井ふくい静夫しずお著作ちょさくしゅうだい1かん 日本にっぽん戦艦せんかん物語ものがたりI』pp.213-234「金剛こんごうがた建造けんぞう」。
  22. ^ a b c d e f g 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ21 金剛こんごうがた戦艦せんかん』pp.71-83「日本にっぽんはつ超弩級ちょうどきゅう金剛こんごうがた誕生たんじょう」。
  23. ^ a b 川崎かわさき造船ぞうせん技師ぎし自殺じさつ”. Nippu Jiji. pp. 03 (1914ねん12月5にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  24. ^ 饒舌じょうぜつぜいべん”. Nan’yō Shinpō. pp. 02 (1914ねん12月10にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  25. ^ 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ65 決定けっていばん 金剛こんごうがた戦艦せんかん』pp.111-112
  26. ^ a b 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ65 決定けっていばん 金剛こんごうがた戦艦せんかん』pp.120
  27. ^ a b 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ65 決定けっていばん 金剛こんごうがた戦艦せんかん』pp.127
  28. ^ はちはち艦隊かんたい充實じゅうじつ あるい英國えいこく注文ちゅうもんはっせん=”. Burajiru Jihō. pp. 03 (1919ねん7がつ11にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  29. ^ 海上かいじょう自由じゆう安全あんぜんと 戰後せんご海軍かいぐんはどうなるか はな大使館たいしかん武官ぶかん 海軍かいぐん中佐ちゅうさ 上田うえだりょうたけ”. Nyū Yōku Shinpō. pp. 03 (1919ねん1がつ1にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  30. ^ 海軍かいぐんしょう参考さんこうよう図表ずひょう 1928, pp. 25–26, 63–64.
  31. ^ 世界せかい比類ひるいなき金剛こんごうだいかん威力いりょく世界せかいだいいち最新さいしんさいするどほこ かんせい本部ほんぶ設計せっけい着手ちゃくしゅ”. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 03 (1929ねん3がつ2にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  32. ^ 金剛こんごうかんきゅうよんせき廢棄はいきせしめんとする米國べいこく戰艦せんかん削減さくげんあん わが全權ぜんけん對策たいさく苦慮くりょ”. Shin Sekai. pp. 01 (1930ねん1がつ23にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  33. ^ 協定きょうてい成立せいりつせば日本にっぽん金剛こんごう廢棄はいきか えいせきべいさんせきいちせきそうトンじゅうまん”. Shin Sekai. pp. 01 (1930ねん2がつ8にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  34. ^ 米國べいこくあん具體ぐたいせばわが金剛こんごうかん即時そくじ廢棄はいき 米國べいこくさんせき廢棄はいきすることゝなるがいずれもボロかん金剛こんごう比較ひかくにならぬ 主力しゅりょくかん整理せいり問題もんだいわが海軍かいぐん意嚮いこう”. Nippu Jiji. pp. 01 (1930ねん2がつ6にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  35. ^ 金剛こんごう廢棄はいき重大じゅうだい 均衡きんこうれぬ主力しゅりょくかん割當わりあて 米國べいこくしん提案ていあん内容ないよう”. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 02 (1930ねん2がつ8にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  36. ^ ロンドン海軍かいぐん条約じょうやく本文ほんぶん - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  37. ^ 軍縮ぐんしゅく協定きょうてい成立せいりつ 比叡ひえい廢棄はいきす まんななせんとん巡洋艦じゅんようかん”. Nippu Jiji. pp. 01 (1930ねん4がつ8にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  38. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1935, p. 80戰艦せんかん“マラヤ Malaya”
  39. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1935, pp. 78, 82(フッド、レナウン)
  40. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1937, pp. 75–76.
  41. ^ 廢棄はいきさるゝ軍艦ぐんかん比叡ひえい練習れんしゅうかんとし存置そんち 海軍かいぐん首腦しゅのう會議かいぎ意見いけん”. Nippu Jiji. pp. 01 (1930ねん4がつ9にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  42. ^ 日本にっぽん軍艦ぐんかんしゅう2600年版ねんばん 1940, p. 20― 練習れんしゅう戰艦せんかん ― 比叡ひえい(ひえい)
  43. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1937, p. 19練習れんしゅう戰艦せんかん比叡ひえい ひえい”
  44. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1937, p. 159戰艦せんかん“ドイチユランド Deutschland”
  45. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1937, pp. 123, 143.
  46. ^ 戰艦せんかん復興ふっこうどくきょじん對抗たいこう ふつ悲痛ひつう頑張がんば”. Nippaku Shinbun. pp. 01 (1938ねん4がつ28にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  47. ^ 戰艦せんかん復興ふっこういち太平洋たいへいよう假想かそうてき えいべいだいけんかん計畫けいかく”. Nippaku Shinbun. pp. 01 (1938ねん4がつ27にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  48. ^ 戰艦せんかん復興ふっこうよん太平洋たいへいよう怒濤どとううえきょかん萬能ばんのう時代じだいゆめ”. Nippaku Shinbun. pp. 01 (1938ねん5がつ1にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  49. ^ 昭和しょうわ11年度ねんど艦船かんせん改造かいぞう新設しんせつ事項じこう概要がいよう」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.C06092450200、公文こうぶん備考びこう昭和しょうわ12ねん会議かいぎまき4機関きかんちょう会議かいぎ3とめ”. 防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ. pp. 04. 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  50. ^ a b #S11説明せつめい参考さんこう資料しりょう(2) pp.6-8
  51. ^ #執務しつむ報告ほうこくpp.7-8
  52. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1935, p. 15戰艦せんかん霧島きりしま きりしま”
  53. ^ ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん 1935, p. 16戰艦せんかん榛名はるな はるな”
  54. ^ 昭和しょうわはち年度ねんど常備じょうび艦隊かんたい 十二月じゅうにがついちにちよりしん編成へんせい”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nan’yō Nichinichi Shinbun. pp. 01 (1932ねん11月18にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  55. ^ 海軍かいぐん競爭きょうそうに備ふ 金剛こんごうきゅうだいさん戰隊せんたいだいさん航空こうくう戰隊せんたい編成へんせい”. Singapōru Nippō. pp. 02 (1936ねん1がつ30にち). 2023ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  56. ^ 図解ずかい 日本にっぽん帝国ていこく海軍かいぐんぜん艦船かんせん 1868-1945』(並木なみき書房しょぼう
  57. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ21 金剛こんごうがた戦艦せんかんみチャート。
  58. ^ 昭和しょうわ17ねん7がつ14にちづけ ないれいだい1241ごう
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  60. ^ 昭和しょうわ17ねん12月20にちづけ ないれいだい2338ごう
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  64. ^ 昭和しょうわ20ねん2がつ10にちづけ ないれいだい114ごう
  65. ^ 昭和しょうわ20ねん4がつ20にちづけ ないれいだい338ごう
  66. ^ 昭和しょうわ20ねん6がつ1にちづけ ないれいだい499ごう
  67. ^ 昭和しょうわ20ねん8がつ15にちづけ ないれいだい738ごう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • いずみさん軍艦ぐんかんメカニズム図鑑ずかん 日本にっぽん戦艦せんかん じょう』グランプリ出版しゅっぱん、2001ねん4がつISBN 4-87687-221-X 
  • モデルアート3がつごう臨時りんじ増刊ぞうかん艦船かんせん模型もけいスペシャルNo15 戦艦せんかん金剛こんごうがた』モデルアートしゃ、2005ねん
  • 福井ふくい静夫しずお福井ふくい静夫しずお著作ちょさくしゅうだい1かん 日本にっぽん戦艦せんかん物語ものがたりI』光人みつひとしゃ ISBN 4-7698-0607-8
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅうまるスペシャルNo112 じゅんよう戦艦せんかん金剛こんごうがた 日本にっぽん海軍かいぐん艦艇かんてい発達はったつしお書房しょぼう、1986ねん
  • 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ21 金剛こんごうがた戦艦せんかん学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ ISBN 4-05-602016-7
  • 歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ65 決定けっていばん 金剛こんごうがた戦艦せんかん学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 2008ねん ISBN 4-05-605192-5
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • 執務しつむ報告ほうこく 昭和しょうわじゅうさん年度ねんどおうきょくだい/1938ねん』。Ref.B10070104000。 練習れんしゅう戦艦せんかん比叡ひえいさい武装ぶそう問題もんだい
    • 昭和しょうわ16年度ねんど(1941) 帝国ていこく海軍かいぐん戦時せんじ編制へんせい(あん)昭和しょうわ10ねん2がつ12にち』。Ref.C14121165400。 
    • 条約じょうやく決裂けつれつ昭和しょうわ15ねんまつける国防こくぼう所要しょよう兵力へいりょくひょう(昭和しょうわ9ねん9がつ25にち)』。Ref.C14121167000。 
    • 帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしん 帝国ていこくぐん用兵ようへい綱領こうりょう関係かんけいつづり 昭和しょうわ11.2~11.6/説明せつめい参考さんこう資料しりょう(1)』。Ref.C14121170500。 
    • 帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしん 帝国ていこくぐん用兵ようへい綱領こうりょう関係かんけいつづり 昭和しょうわ11.2~11.6/説明せつめい参考さんこう資料しりょう(2)』。Ref.C14121170600。 
    • 帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしん 帝国ていこくぐん用兵ようへい綱領こうりょう関係かんけいつづり 昭和しょうわ11.2~11.6/説明せつめい参考さんこう資料しりょう(3)』。Ref.C14121170700。 
    • 帝国ていこく国防こくぼう方針ほうしん 帝国ていこくぐん用兵ようへい綱領こうりょう関係かんけいつづり 昭和しょうわ11.2~11.6/説明せつめい参考さんこう資料しりょう(4)』。Ref.C14121170800。 


関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • [1] - YouTube動画どうが金剛こんごうがたよんせきちがいを3DCGで検証けんしょうしてみた!【きむつよし比叡ひえい榛名はるな霧島きりしま】」