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摩耶 (重巡洋艦) - Wikipedia

摩耶まや (じゅう巡洋艦じゅんようかん)

日本にっぽん海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん

摩耶まや(まや)は、日本にっぽん海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん一等いっとう巡洋艦じゅんようかん(じゅう巡洋艦じゅんようかん)高雄たかおがたの3ばんかんである[2][3][4]川崎かわさき造船ぞうせんしょ現在げんざい川崎重工業かわさきじゅうこうぎょう神戸造船所こうべぞうせんしょにて起工きこう[5]。そのかんめいは、兵庫ひょうごけん神戸こうべにある摩耶山まやさんにちなんで命名めいめいされた[6]レイテおき海戦かいせんべい潜水せんすいかん雷撃らいげきにより沈没ちんぼつした。

摩耶まや
竣工当時の摩耶
竣工しゅんこう当時とうじ摩耶まや
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 神戸こうべ川崎かわさき造船ぞうせんしょ
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ じゅう巡洋艦じゅんようかん
きゅうめい 高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかん
かんれき
発注はっちゅう 昭和しょうわ2年度ねんど艦艇かんてい補充ほじゅう計画けいかく
起工きこう 1928ねん12月4にち
進水しんすい 1930ねん11月8にち
就役しゅうえき 1932ねん6月30にち
最期さいご 1944ねん10月23にち沈没ちんぼつ
北緯ほくい0927ふん 東経とうけい11723ふん / 北緯ほくい9.450 東経とうけい117.383 / 9.450; 117.383
除籍じょせき 1944ねん 12月20にち
要目ようもく新造しんぞう最終さいしゅう改装かいそう
基準きじゅん排水はいすいりょう 9,850トン→13,350トン
おおやけためし排水はいすいりょう 12,781トン→15,159トン
全長ぜんちょう 203.76 m
最大さいだいはば 19.00 m → 20.72 m
吃水きっすい 6.11 m → 6.44 m
しゅかんごうかん本式ほんしきかん12
おも かん本式ほんしきタービン44じく
出力しゅつりょく 130,000馬力ばりき
速力そくりょく 35.5ノット→34.6ノット
航続こうぞく距離きょり 14ノットで8,000海里かいり
→18ノットで5,000海里かいり
乗員じょういん 760めい[1]→996めい
へいそう 竣工しゅんこう:
最終さいしゅう改装かいそう:
  • 20.3cm連装れんそうほう48もん
  • 12.7cm連装れんそう高角こうかくほう612もん
  • 25mm3連装れんそう機銃きじゅう1339てい
  • どうたんそう9てい
  • 13mmたんそう機銃きじゅう36てい
  • 61cm4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかん416もん
装甲そうこう 舷側げんそく:127mm
水平すいへい:34-46mm
砲塔ほうとう:25mm
搭載とうさい 搭載とうさいすう3射出しゃしゅつ2
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建造けんぞう経緯けいい

編集へんしゅう

みょうだかがたじゅう巡洋艦じゅんようかん完成かんせいさせた日本にっぽん海軍かいぐんは、ワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく制限せいげんされている主力しゅりょくかんおぎなうため、さらなるじゅう巡洋艦じゅんようかん建造けんぞう着手ちゃくしゅする。藤本ふじもと喜久雄きくお造船ぞうせんかん設計せっけいもと高雄たかおがたの3ばんかん[2]として起工きこうされたのが摩耶まやであった。なお当時とうじ経済けいざい恐慌きょうこう影響えいきょう川崎かわさき造船ぞうせんしょ破産はさん寸前すんぜんであり、けんかん体制たいせい維持いじ観点かんてんから海軍かいぐん介入かいにゅう摩耶まや発注はっちゅうおこなわれた[7]。これにより起工きこうおくれてしまったとされている。

1928ねん昭和しょうわ3ねん9月11にち建造けんぞう予定よてい一等いっとう巡洋艦じゅんようかん1せき砲艦ほうかん2せき駆逐くちくかん2せきに、それぞれ摩耶まや[8]とう砲艦ほうかん熱海あたみがた熱海あたみ」と二見ふたみ[9]一等いっとう駆逐くちくかん吹雪ふぶきがたてんきり朝霧あさぎりかんめいあたえられた[9]一等いっとう巡洋艦じゅんようかん摩耶まや同年どうねん12がつ4にち神戸こうべ川崎かわさき造船ぞうせんしょ起工きこう[10]1930ねん昭和しょうわ5ねん)11月8にち、3まんにん群集ぐんしゅう見守みまもるなかで進水しんすい[11]1932ねん昭和しょうわ7ねん)6がつ30にち竣工しゅんこうした[10]高雄たかおがたじゅう巡洋艦じゅんようかんの50口径こうけいさんねんしきごう〇センチほう仰角ぎょうかく70対空たいくう射撃しゃげき可能かのうだったが、摩耶まやのみみょうだかがたおなじ55であった[12]1932ねん昭和しょうわ7ねん)6がつ30にち竣工しゅんこう[5]姉妹しまいかん鳥海とりうみおな竣工しゅんこうしている[5]高雄たかおがたじゅうじゅん4せきだい艦隊かんたいだいよん戦隊せんたい形成けいせいし、横須賀よこすか母港ぼこうとした[13]

改装かいそう

編集へんしゅう
 
3ばん砲塔ほうとう撤去てっきょ摩耶まや。1944ねん5がつ、フィリピン・タウイタウイ訓練くんれんちゅう

高雄たかおがたじゅうじゅん3ばんかん・4ばんかん摩耶まや鳥海とりうみ近代きんだい改装かいそう復原ふくげん性能せいのう改善かいぜん工事こうじ着手ちゃくしゅまえ太平洋戦争たいへいようせんそうむかえた[14]工期こうき4ヶ月かげつ時間じかん確保かくほすることができず、2せき近代きんだい改装かいそう工事こうじ実施じっししないままだい一線いっせん活動かつどうしていた[14]。だが、摩耶まや1943ねん昭和しょうわ18ねん)11月5にちラバウル空襲くうしゅう大破たいは、その損傷そんしょう修理しゅうりさい近代きんだい改装かいそう対空たいくう能力のうりょく強化きょうか同時どうじ実施じっしした[14]具体ぐたいてきには、3ばん主砲しゅほうとう撤去てっきょして40口径こうけい12.7cm連装れんそう高角こうかくほうを2増設ぞうせつする改造かいぞうおこなった[14]既設きせつの12cmたんそう高角こうかくほう撤去てっきょし、12.7cm連装れんそう高角こうかくほう交換こうかん、12.7cm連装れんそう高角こうかくほうけい612もんふくほう撤去てっきょまえ大和やまとがた戦艦せんかん同数どうすう)となった。13mm機銃きじゅう4てい撤去てっきょしたかわりに3ばんほうあと機銃きじゅうだいもうけ25mm機銃きじゅう設置せっちするなど、25mm3連装れんそう機銃きじゅう13どうたんそう9てい、13mmたんそう機銃きじゅう36てい対空たいくう機銃きじゅう大幅おおはば増強ぞうきょうされた[14]

このとき同時どうじに、魚雷ぎょらい発射はっしゃかん改装かいそうまえの2連装れんそう4から4連装れんそう発射はっしゃかん4増強ぞうきょうされた[14]でんさがせ(レーダー)も21ごう1、22ごう2、13ごう1装備そうびされた。これらの排水はいすいりょう増加ぞうかによる復元ふくげんせい悪化あっか考慮こうりょしてバルジが装着そうちゃくされている[14]。あごう作戦さくせん(マリアナおき海戦かいせん以後いご機銃きじゅうさらぞう備され、25mm機銃きじゅう総計そうけいは66ていたっしたとわれている。なお機銃きじゅうぞう備などによって乗員じょういん増加ぞうかし、開戦かいせんは921めいだったが改装かいそうは996めいとなり、最終さいしゅうてきには1,000めいたっした。

かんれき

編集へんしゅう

南方みなかた作戦さくせん

編集へんしゅう

就役しゅうえき1932ねん昭和しょうわ7ねん)9がつうみしゅうおき進出しんしゅつして封鎖ふうさ作戦さくせん参加さんかする。9月23にち摩耶まやきゅうしき水上すいじょう偵察ていさつ阿部あべ航空こうくうへい曹長そうちょう桜沢さくらざわさんとうそら曹)が対空たいくう砲火ほうか撃墜げきついされた[15]1937ねん昭和しょうわ12ねん)7がつ7にちにちちゅう戦争せんそうでは、だい二遣支艦隊(ささえ方面ほうめん艦隊かんたいみなみささえ監視かんし部隊ぶたい)の旗艦きかんとして、海南かいなんとう攻略こうりゃく作戦さくせん参加さんか[16]。このころ同型どうけいかん愛宕あたご高雄たかお艦橋かんきょう縮小しゅくしょうやマスト移設いせつ飛行ひこう甲板かんぱん設置せっちなどの改装かいそうおこなっているが、摩耶まや鳥海とりうみはその機会きかい日米にちべい開戦かいせんによってうしなった。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月2にち摩耶まやうまこう泊地はくち入港にゅうこうし、開戦かいせんそなえた[17]太平洋戦争たいへいようせんそう緒戦しょせんでは摩耶まやだいじゅうろく戦隊せんたいけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらのぞく)や、特設とくせつ水上すいじょう母艦ぼかん讃岐さぬきまる駆逐くちくかん2せきとも比島ひじま部隊ぶたいぬしたいとしてフィリピン進攻しんこう作戦さくせん参加さんかした[18]おもたい任務にんむはフィリピンのビガン攻略こうりゃくおこなうだい急襲きゅうしゅうたい支援しえんであった[19]讃岐さぬきまるのぞおもたい摩耶まやじゅう巡洋艦じゅんようかん足柄あしがらけい巡洋艦じゅんようかん球磨くま駆逐くちくかん朝風あさかぜ松風まつかぜは12月7にち澎湖諸島しょとううまこうから出撃しゅつげき[20]。12月10にちおもたいはアメリカ海軍かいぐんだい10哨戒しょうかい航空こうくうだんPBY発見はっけんされ、つづいて哨戒しょうかい航空こうくうだん飛行ひこうてい(500ポンドばくだん4はつ搭載とうさい)5による攻撃こうげきけたが命中めいちゅうだんはなかった[21]。こののちおもたいは碣石わんて12月14にちうまこう帰投きとうした[20]

12月17にちおもたいからは駆逐くちくかん2せき特設とくせつ水上すいじょう母艦ぼかん山陽さんようまるくわわった[22]足柄あしがら摩耶まや球磨くまは12月19にちうまこうから出撃しゅつげきしてリンガエンわん上陸じょうりく作戦さくせん支援しえんにあたり、12月23にちうまこう帰投きとうした[23]

12月23にち南方なんぽう部隊ぶたい東方とうほう支援しえんたい戦艦せんかん榛名はるなだいろく駆逐くちくたいだいいち小隊しょうたい編成へんせいされ、12月25にち摩耶まや東方とうほう支援しえんたい編入へんにゅうされた[24]

よく1942ねん昭和しょうわ17ねん)には1がつから3がつまでオランダりょうひがしインド諸島しょとう油田ゆでん地域ちいき占領せんりょうするらんしるし作戦さくせん参加さんかした。1月8にち、パラオに入港にゅうこう、17-18にち戦艦せんかんきむつよしだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお)、だい航空こうくう戦隊せんたい空母くうぼりゅうあおいりゅうとう合流ごうりゅうし、戦艦せんかん2せき空母くうぼ2せきじゅう巡洋艦じゅんようかん3せき駆逐くちくかん10せき、タンカーこくようまる帝王ていおうまるそろった[25]摩耶まや南方なんぽう部隊ぶたい母艦ぼかん航空こうくう部隊ぶたい編入へんにゅうされ、こうせんあおいりゅうりゅう)、だい7駆逐くちくたいしおあけぼのさざなみ)、だい27駆逐くちくたい時雨しぐれ白露しらつゆ有明ありあけ夕暮ゆうぐれ)、補給ほきゅう部隊ぶたいともに21にちパラオを出港しゅっこうした[26]。23にちアンボンとうアンボン空襲くうしゅう支援しえんし、26にちダバオをて、28にちパラオに帰投きとうした[27]

2がつ10日とおか摩耶まやだい航空こうくう戦隊せんたいとも南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい編入へんにゅうされ、ポートダーウィン空襲くうしゅう支援しえんする[28]セレベスとうスターリングわん南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいから南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたい復帰ふっきつづ南方なんぽう作戦さくせん従事じゅうじした[29]。2月25にち近藤こんどう中将ちゅうじょう愛宕あたご座乗ざじょう)は南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたいだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや》、だい4駆逐くちくたいだい1小隊しょうたいあらし野分のわけ》)をひきいて南雲なぐも機動きどう部隊ぶたいともどうわん出撃しゅつげき、その機動きどう部隊ぶたい分離ぶんりしてオンバイ海峡かいきょうかった[30]。26にちだい15駆逐くちくたい駆逐くちくかんはやしお合流ごうりゅう[29]。3月1にち南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたいジャワ島じゃわとう南部なんぶチラチャップ南方なんぽう70かいり附近ふきん進出しんしゅつし、以後いごジャワ島じゃわとうみなみ遊弋ゆうよくした[29][31]同日どうじつ南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたい商船しょうせん4せき撃沈げきちん、1せき炎上えんじょうさせ、1せき拿捕だほした[29]。3月2にち夕刻ゆうこくじゅうさんこうせんから[よう出典しゅってん]けいじゅん1せき駆逐くちくかん2せき発見はっけん』の報告ほうこくけて近藤こんどう長官ちょうかん愛宕あたご高雄たかおてきけいじゅんに、摩耶まやあらし野分のわけてき駆逐くちくかんにふりわけた[31]愛宕あたご高雄たかおべい駆逐くちくかんピルスバリー撃沈げきちん当時とうじべいけいじゅんマーブルヘッド誤認ごにん)。摩耶まやあらし野分のわけはイギリスぐんアドミラルティSきゅう駆逐くちくかんストロングホールド」を発見はっけんし、これを撃沈げきちんした[31]。だが主砲しゅほう635はつ消費しょうひし、主砲しゅほう爆風ばくふうで3艦載かんさいすべ破壊はかいされた[よう出典しゅってん]。「ストロングホールド」の生存せいぞんしゃは50めい日本にっぽんぐん拿捕だほされていたオランダせんに3がつ3にち救助きゅうじょされ、それから「摩耶まや」にうつされた[32]。3月4にち南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたいはチラチャップの170280海里かいり付近ふきん進出しんしゅつし、スループ「ヤラ」、depot ship「Anking」、掃海そうかいてい「MMS.51」、タンカー「フランコル」からなる船団せんだん攻撃こうげきして全滅ぜんめつさせた[33]南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたいは3がつ7にちにスターリングわん帰投きとうした[31]。11にち摩耶まや高雄たかおだい27駆逐くちくたい有明ありあけ夕暮ゆうぐれ)とともどうわん出発しゅっぱつ[34]モルッカ海峡かいきょう通過つうかして南太平洋みなみたいへいようたが、燃料ねんりょう観点かんてんから駆逐くちくかん2せき有明ありあけ夕暮ゆうぐれ)はじゅうじゅん2せき高雄たかお摩耶まや)と分離ぶんりする[35]。その横須賀よこすかかい3がつ18にち帰港きこうした[36]摩耶まや入渠にゅうきょして修理しゅうり整備せいびをおこなった。

4がつ18にちドーリットルたいB-25ミッチェル爆撃ばくげきによるドーリットル日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうを、ほんかん三河湾みかわわん西浦にしうらおきむかえた[37]ただちに出撃しゅつげきし、深夜しんや観音崎かんのんざきおき近藤こんどう長官ちょうかん指揮しきだい艦隊かんたい主力しゅりょく部隊ぶたい合流ごうりゅうする。前進ぜんしん部隊ぶたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まやみょうだか羽黒はぐろさちおおとりとうでアメリカ機動きどう部隊ぶたい追撃ついげきするが、ウィリアム・ハルゼー提督ていとく指揮しきするだい38任務にんむ部隊ぶたいべい空母くうぼ2せき(ホーネット、エンタープライズ)はすでに避退したのちだった[38]。だが5がつ1にち深夜しんや水上すいじょう母艦ぼかん瑞穂みずほべい潜水せんすいかんドラム (USS Drum, SS-228) の雷撃らいげき航行こうこう不能ふのうとなった[39]じゅうじゅん2せき摩耶まや高雄たかお)は現場げんば急行きゅうこう[40]沈没ちんぼつする瑞穂みずほから乗組のりくみいん救助きゅうじょした[39]瑞穂みずほ生存せいぞんしゃ横須賀よこすかくだしたのち、摩耶まや高雄たかおだい6駆逐くちくたいひびきあかつきかみなり)ととも帰投きとうした[41]

5がつ20日はつかだいよん戦隊せんたいだい小隊しょうたい(「高雄たかお」、「摩耶まや」)は北方ほっぽう部隊ぶたい編入へんにゅうされ、だいよん航空こうくう戦隊せんたい空母くうぼりゅう」、「はやぶさたか」)とともだい機動きどう部隊ぶたい編成へんせいして[42]AL作戦さくせん西部せいぶアリューシャン攻略こうりゃく作戦さくせん)に参加さんかした。だい機動きどう部隊ぶたいは5月25にち大湊おおみなと(または5がつ26にち陸奥みちのくうみわん[43])を出撃しゅつげきし、6月4にちと6がつ5にちダッチハーバー空襲くうしゅうおこなった[44]AL作戦さくせん同時どうじおこなわれたミッドウェー海戦かいせん日本にっぽんぐん敗北はいぼくしたがアッツとうとキスカとう攻略こうりゃく実施じっしされた。そしてだい機動きどう部隊ぶたいなどはアメリカ艦隊かんたい来襲らいしゅうそなえた[45]。そのだい機動きどう部隊ぶたいなどは6がつ24にちまでにいち大湊おおみなともどり、6月28にちにはキスカとうへの輸送ゆそう部隊ぶたい掩護えんごのためふたた出撃しゅつげきした[46]

戦争せんそう中期ちゅうき

編集へんしゅう

8がつ7にち、アメリカぐんウォッチタワー作戦さくせん発動はつどうし、ガダルカナルとうツラギとう急襲きゅうしゅうして占領せんりょうした。11にちだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや)、戦艦せんかん陸奥みちのくだいよん水雷すいらい戦隊せんたいけいじゅん由良ゆらだい9駆逐くちくたいあさくもみねくもなつくも》、だい27駆逐くちくたい時雨しぐれ白露しらつゆ有明ありあけ夕暮ゆうぐれとう)は出港しゅっこうしてトラック島泊しまどまり進出しんしゅつガダルカナルとうたたかくわわった[47]。24にちだいソロモン海戦かいせん前進ぜんしん部隊ぶたいとして参加さんかする。摩耶まや前日ぜんじつ行方ゆくえ不明ふめいになっていた由良ゆら偵察ていさつ収容しゅうよう[48]。そのにアメリカぐん艦載かんさい20空襲くうしゅうけるが、摩耶まや損害そんがいはなかったものの[49]どうこうしていた水上すいじょう母艦ぼかん千歳ちとせ損傷そんしょうけた。 9月9にち索敵さくてきのためだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお摩耶まや)、だい戦隊せんたいみょうだか羽黒はぐろ)、だいはち戦隊せんたい利根りこん筑摩ちくま)、だいよん水雷すいらい戦隊せんたい由良ゆらとう)とともにトラック泊地はくち出撃しゅつげき[50]。13にちにはだいさん戦隊せんたいきむつよし榛名はるな)と合流ごうりゅうする[51]。14にち、ガダルカナル北東ほくとう200かいり地点ちてん前進ぜんしん部隊ぶたいはB-17爆撃ばくげき空襲くうしゅうけ、みょうだか戦死せんししゃ2めいした[52]とく戦果せんかもないまま、かくかんは23にちにトラック泊地はくち帰港きこうした[53]。 10月15にちよるだい戦隊せんたいじゅう巡洋艦じゅんようかんみょうだかだい水雷すいらい戦隊せんたいけいじゅん五十鈴いすずだい31駆逐くちくたい高波たかなみまきなみ長波ちょうは》、だい24駆逐くちくたい海風かいふうこうふう涼風すずかぜ》)とともにガダルカナルとうヘンダーソン基地きちかんほう射撃しゃげき作戦さくせん参加さんか[54]砲撃ほうげき成功せいこう[55]みょうだかは20cm主砲しゅほう463はつ摩耶まやは450はつ発射はっしゃした[56]。10月26にち南太平洋みなみたいへいよう海戦かいせん参加さんか近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょう前衛ぜんえい艦隊かんたい所属しょぞくして敗走はいそうするべい機動きどう部隊ぶたい追撃ついげきし、大破たいはしたべい空母くうぼホーネット(USS Hornet, CV-8) を捕捉ほそくし、ホーネットの撃沈げきちん貢献こうけんした。30にち、トラックに帰港きこうした。

11月、摩耶まやそと南洋なんよう部隊ぶたい支援しえんたい編入へんにゅうされ、5にちショートランド諸島しょとう(ショートランド泊地はくち)に進出しんしゅつする[57]。12にち、ガダルカナルとうヘンダーソン飛行場ひこうじょう砲撃ほうげきかっただいじゅういち戦隊せんたい戦艦せんかん比叡ひえい霧島きりしま以下いか挺身ていしん攻撃こうげきたい挺身ていしん艦隊かんたい)がべい巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたい指揮しきかんダニエル・J・キャラハン少将しょうしょう)と遭遇そうぐうし、だいさんソロモン海戦かいせん勃発ぼっぱつした。12にち-13にち日本にっぽん海軍かいぐん比叡ひえい駆逐くちくかん2せき夕立ゆうだちあかつき)を喪失そうしつしてしまう。これをけて連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろく大将たいしょう)はそと南洋なんよう部隊ぶたい支援しえんたい指揮しきかん西村にしむら祥治しょうじだいなな戦隊せんたい司令しれいかんにヘンダーソン飛行場ひこうじょう砲撃ほうげきめいじた。11月13にち午前ごぜん540ふんなな戦隊せんたい司令しれいかん西村にしむら少将しょうしょうひきいるじゅうじゅん2せき鈴谷すずや摩耶まや)、けいじゅん天龍てんりゅう駆逐くちくかん4せきゆうくも巻雲けんうん風雲ふううんあさしお)はショートランド泊地はくち出撃しゅつげき[58]同日どうじつ深夜しんやにガダルカナルとう海域かいいき突入とつにゅうし、じゅうじゅん2せき鈴谷すずや摩耶まや)は飛行場ひこうじょう砲撃ほうげき敢行かんこう警戒けいかい部隊ぶたい天龍てんりゅうゆうくも巻雲けんうん風雲ふううんあさしお)はアメリカぐん魚雷ぎょらいていからじゅうじゅん2せき護衛ごえいした[59]。 14にち戦場せんじょうからの離脱りだつちゅうにアメリカぐん空襲くうしゅうけ、じゅうじゅん衣笠きぬがさ沈没ちんぼつし、じゅうじゅん鳥海とりうみけいじゅん五十鈴いすず被弾ひだんした。午前ごぜん11ごろ、F4Fワイルドキャットが摩耶まや左舷さげん高角こうかくほう甲板かんぱん体当たいあたりし火災かさい発生はっせいしたとする[60] アメリカぐん記録きろくによれば、空母くうぼエンタープライズから発進はっしんしたSBDドーントレス急降下きゅうこうか爆撃ばくげき2(フーガーヴァーフ少尉しょうい、ハローラン少尉しょうい)は、日本にっぽん艦隊かんたい全貌ぜんぼうていた[61]炎上えんじょうした衣笠きぬがさ周囲しゅういに2せき駆逐くちくかんがおり、けい巡洋艦じゅんようかん1せき駆逐くちくかん1せき衣笠きぬがさの15km西にしじゅう巡洋艦じゅんようかん1せき駆逐くちくかん1せき衣笠きぬがさの20km南西なんせい西にしかっていた[62]。フーガーヴァーフ少尉しょういじゅう巡洋艦じゅんようかん爆撃ばくげきしたが至近しきんだんとなった[62]。ハローラン少尉しょうい行方ゆくえ不明ふめいとなり、フーガーヴァーフ少尉しょういは1せき巡洋艦じゅんようかんからはげしいけむりがるのを目撃もくげきした[62]ほん戦闘せんとうにより魚雷ぎょらい16ほん投棄とうきし、沈没ちんぼつまぬかれるも38めい戦死せんし、47めい負傷ふしょうしている[63]応急おうきゅう修理しゅうりのち、トラック泊地はくち帰投きとう戦艦せんかん大和やまとはたでは、いちまんトンきゅうじゅう巡洋艦じゅんようかん摩耶まやとは親子おやこほどのちがいがあったという[64]1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつ5にち日本にっぽんもどった[65]

1943ねん1がつ30にち、「摩耶まや」は北方ほっぽう部隊ぶたい編入へんにゅうされた[66]。「摩耶まや」は2がつ20日はつか横須賀よこすかはなれ、2がつ22にち大湊おおみなとだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん旗艦きかんとなり、2がつ27にちほろむしろ進出しんしゅつ(または2がつ26にちほろむしろ入港にゅうこう[67][68]。3月4にち、「那智なち」がほろむしろ到着とうちゃくし、旗艦きかんとなった[69]。アッツとうへの輸送ゆそう従事じゅうじしていた「あかがねまる」が2がつ20日はつかにアメリカの水上すいじょう艦艇かんていにより撃沈げきちんされたことから、北方ほっぽう部隊ぶたいではその大半たいはん投入とうにゅうして輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえいおこなうこととした[70]。3月7にち、アッツとうへの輸送ゆそうおこなだいじゅういち船団せんだん(イ船団せんだん)とその護衛ごえいつづいて「那智なち」、「摩耶まや」などからなる北方ほっぽう部隊ぶたいおもたいおよび掩護えんご部隊ぶたいほろむしろ海峡かいきょう出撃しゅつげき[71]。3月10にち船団せんだんはアッツとう到着とうちゃくし、10月13にちぜん部隊ぶたいほろむしろ海峡かいきょう帰投きとうした[71]

つづいて、ふたた船団せんだん護衛ごえいのため出撃しゅつげき。 3月27にちだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんほそかや戊子ぼしろう中将ちゅうじょう指揮しきもとじゅうじゅん2せき那智なち摩耶まや)、けい巡洋艦じゅんようかん2せき多摩たま阿武隈あぶくま)、駆逐くちくかん4せきだい21駆逐くちくたい若葉わかばはつしも》、だい6駆逐くちくたいかみなりでん》)とともにアメリカ艦隊かんたい指揮しきかんチャールズ・マクモリス少将しょうしょうじゅうじゅん1、けいじゅん1、駆逐くちくかん4)と交戦こうせんした(アッツとうおき海戦かいせん)。摩耶まや接近せっきんするアメリカ巡洋艦じゅんようかんとおざかるアメリカ巡洋艦じゅんようかんちがえたうえ[72]高角こうかくほうのためのデータを主砲しゅほう砲術ほうじゅつちょうおくり、さらにざんだんがあったにもかかわらずぜんたまくしたと勘違かんちがいするという失態しったいおかした[65]主砲しゅほうだん904はつ魚雷ぎょらい8ほん消耗しょうもうしたが、アメリカ艦隊かんたい追撃ついげき失敗しっぱいした[73]

ほろむしろ海峡かいきょうへの帰投きとう、3月31にちに「那智なち」、「摩耶まや」などは整備せいびのため横須賀よこすかへとかった[74]。「摩耶まや」は5月15にち横須賀よこすか出港しゅっこうし、一時いちじ座乗ざじょうしただい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんによる哨戒しょうかいせん視察しさつのち、5月19にち大湊おおみなといた[75]

7がつキスカとう撤退てったい作戦さくせんには、燃料ねんりょう消費しょうひ観点かんてんから参加さんかしていない。8月に横須賀よこすか帰港きこうし、9月15にち南方みなかた戦線せんせんかった。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)11がつ上旬じょうじゅん、『ごう作戦さくせんブーゲンビルとうおき航空こうくうせん)』に呼応こおうしてブーゲンビルとう上陸じょうりく作戦さくせん支援しえんするため、だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう旗艦きかん愛宕あたご」)が指揮しきするだい艦隊かんたいじゅう巡洋艦じゅんようかん7せき愛宕あたご高雄たかお鳥海とりうみ摩耶まや鈴谷すずや最上さいじょう筑摩ちくま)、けい巡洋艦じゅんようかん1せき能代のしろ)、駆逐くちくかん4せきたまりょう藤波ふじなみはやなみ)からなる艦隊かんたいはラバウルに入港にゅうこうした[76]。5にちだい38任務にんむ部隊ぶたいべい空母くうぼサラトガプリンストン基幹きかん)によるラバウル空襲くうしゅう遭遇そうぐうした。930ふん摩耶まやのカタパルト付近ふきん被弾ひだん左舷さげん機関きかんしつ損傷そんしょうし、火災かさい発生はっせいした[77]五番ごばん砲塔ほうとうたまでは機械きかいしつ火災かさいのため温度おんど上昇じょうしょうし、注水ちゅうすい処置しょちがとられた[78]機関きかん部員ぶいん艦上かんじょう脱出だっしゅつするなど[79]一時いちじかん放棄ほうき可能かのうせいもあったが、かろうじてまぬかれることができた[80]摩耶まやでは戦死せんし70めい負傷ふしょうしゃ60めいした[81]かんがトラックへげるなか、摩耶まや航行こうこう不能ふのうのためラバウルにのこった[82]。烹炊しょばくげき破壊はかいされたため、主計しゅけいこう甲板かんぱん行軍こうぐんがまけて乗組のりくみいん食事しょくじ提供ていきょうしている[83]。ラバウルでは連日れんじつ摩耶まやねらって空襲くうしゅうがあり、陸上りくじょう部隊ぶたいからは「出港しゅっこういそげ」と催促さいそくされたという[82]応急おうきゅう修理しゅうり結果けっか一軸いちじく運転うんてん可能かのうとなり、11月11にちにラバウルを出発しゅっぱつ[84]。12ノットくらいですすみ、13にちには潜水せんすいかんから雷撃らいげきされたが回避かいひした[82]摩耶まやおよ潜水せんすい母艦ぼかんちょうくじらは、だい水雷すいらい戦隊せんたいだいじゅう戦隊せんたい合同ごうどう部隊ぶたい能代のしろはやなみ藤波ふじなみ五月雨さみだれ風雲ふううん若月わかつき)に護衛ごえいされていた[85]。12にちけいじゅん阿賀あがべい潜水せんすいかんスキャンプ雷撃らいげき航行こうこう不能ふのうとなった[86]だい水雷すいらい戦隊せんたい能代のしろ藤波ふじなみなみ)は摩耶まや護衛ごえい中断ちゅうだんし、だいじゅう戦隊せんたい阿賀あがうらふう)の救援きゅうえんかった[86]。11月14にち摩耶まやちょうくじら護衛ごえい駆逐くちくかん五月雨さみだれ風雲ふううん若月わかつき)はトラックに帰港きこうする。15にち杉山すぎやま六蔵ろくぞうかんせい本部ほんぶちょう損傷そんしょうかくかん視察しさつし、摩耶まや横須賀よこすか回航かいこうだい修理しゅうり決定けっていした[84]工作こうさくかん明石あかし協力きょうりょく、トラックざいはくちゅうだいいち戦隊せんたいだい戦隊せんたいだいさん戦隊せんたいだいよん戦隊せんたいかくかん工作こうさくへい摩耶まや派遣はけんし、応急おうきゅう修理しゅうりは25にちわった[84]

11月30にち瑞鳳ずいほう艦長かんちょう指揮しきする空母くうぼ3せき瑞鳳ずいほうくもたか冲鷹)、じゅうじゅん摩耶まやだい7駆逐くちくたいあけぼのさざなみ)、だい17駆逐くちくたいうらふうはトラックを出発しゅっぱつして内地ないちかうが[87][88]航海こうかいちゅうに冲鷹がべいせんセイルフィッシュ雷撃らいげき撃沈げきちんされた[84]駆逐くちくかん2せきうらふうさざなみ)は艦隊かんたいから分離ぶんりして冲鷹生存せいぞんしゃ救助きゅうじょした[88]。12月4にち摩耶まや横須賀よこすか帰投きとうする[89]。その修理しゅうりともさんばん砲塔ほうとう撤去てっきょしてよん口径こうけいはちきゅうしきじゅうせんちめーとるなな高角こうかくほう2増設ぞうせつするなど、対空たいくうへいそう強化きょうか改装かいそうけた(上述じょうじゅつ参照さんしょう)。改造かいぞう1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ9にち完了かんりょうした[14]

1944ねん4がつ22にち摩耶まや戦艦せんかん大和やまと駆逐くちくかんしまふう早霜はやじもゆきふうやまくも護衛ごえいされ瀬戸内海せとないかい出撃しゅつげきした[90]やまくも豊後水道ぶんごすいどう通過つうか護衛ごえいをやめ[91]平郡島へいぐんとうもど[92]同様どうよう早霜はやじも横須賀よこすかかう[93]大和やまとたいは4がつ26にちマニラ、29にち出発しゅっぱつ[94][95]。5月1にちにリンガ泊地はくち進出しんしゅつ[96][97]。14にち、タウイタウイ泊地はくち前進ぜんしんした。6月19-20日はつかマリアナおき海戦かいせん栗田くりた中将ちゅうじょう指揮しきするだい艦隊かんたい前衛ぜんえい部隊ぶたい旗艦きかん愛宕あたご》)に所属しょぞくして参加さんかする。6月20にち1730ふん右舷うげん至近しきんだんにより若干じゃっかん被害ひがいけ、また左舷さげんへの至近しきんだん舷側げんそくバルジに浸水しんすいし2傾斜けいしゃした[98]。16めい戦死せんしし、40めい負傷ふしょう[99]横須賀よこすかもどり、損傷そんしょう修理しゅうり並行へいこうして出火しゅっか対策たいさく対空たいくう装備そうび強化きょうかおこなわれた(上述じょうじゅつ参照さんしょう[100]。7月16にち出港しゅっこう、リンガ泊地はくち進出しんしゅつした。

摩耶まや最期さいご

編集へんしゅう

1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつだいよん戦隊せんたい愛宕あたご高雄たかお鳥海とりうみ摩耶まや)はレイテおき海戦かいせん参加さんか栗田くりた中将ちゅうじょうつづ愛宕あたご旗艦きかんとしていた[101]摩耶まやだいいちゆうげき部隊ぶたい通称つうしょう栗田くりた艦隊かんたい)のいちかんとして22にち午前ごぜん8、ブルネイを出港しゅっこうした[102]。しかし23にち午前ごぜん630ふん前後ぜんこう、パラワン水道すいどうにてべいガトーきゅう潜水せんすいかんダーター (USS Darter, SS-227) とデイス (USS Dace, SS-247) の2せき栗田くりた艦隊かんたい襲撃しゅうげきした[103]。まずダーターが雷撃らいげきをおこない愛宕あたご轟沈ごうちん高雄たかお航行こうこう不能ふのうとなった(高雄たかお駆逐くちくかん2せき長波ちょうはあさしも》に護衛ごえいされ撤退てったい[103]旗艦きかん愛宕あたご沈没ちんぼつにより栗田くりた艦隊かんたい混乱こんらんするなか、つづいてデイスが摩耶まやたい雷撃らいげきをおこなった。デイスは摩耶まや戦艦せんかんだと誤認ごにんしていた[104]魚雷ぎょらい航跡こうせき発見はっけんし、回避かいひ運動うんどうをとるもわなかったという[101]。657ふん摩耶まや左舷さげん魚雷ぎょらい4ほん命中めいちゅうした(かんくび錨鎖びょうさ倉庫そうこ一番いちばん砲塔ほうとうななばんかんしつ後部こうぶ機械きかいしつ附近ふきん[105])。摩耶まや左舷さげんだい傾斜けいしゃかんくびからうみぼつをはじめ[106]、75ふん沈没ちんぼつした[107]沈没ちんぼつ地点ちてん北緯ほくい0927ふん 東経とうけい11723ふん / 北緯ほくい9.450 東経とうけい117.383 / 9.450; 117.383だいいち戦隊せんたい司令しれいかん宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう大和やまと座乗ざじょう)は当時とうじ状況じょうきょうについて、このように記述きじゅつしている[103]

てきせん僚艦りょうかん存在そんざいあれば過度かどに避退するもまた危險きけんともなえふ。のみならず、先任せんにん指揮しきかんとして過度かど離隔りかく視界しかい關係かんけいじょう出來できず。5Sのてんかじ1D/1Sも取舵とりかじしたがえじんとなる。此のときみぎななまえの4Sよんばんかん摩耶まや爆發ばくはつ水煙すいえんばくけむりけしへたるあとにはほとんどかげなし。同艦どうかん左前ひだりまえいち〇〇まい發射はっしゃげんみとめむ。大和やまとこんすこいずれにかよりりたらんには當然とうぜんさんよんほん見舞みまいはれたるところなり。 — 宇垣うがきまといせんろく昭和しょうわじゅうきゅうねんじゅうがつ廿にじゅうさんにち

大江おおえ艦長かんちょう以下いか336めい戦死せんしした[108]。このなかには、東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥げんすいまご東郷とうごう良一りょういち中尉ちゅういふくまれていた[109]副長ふくちょう以下いか769めい士官しかん47めい下士官かしかんへい722めい)が駆逐くちくかん秋霜しゅうそう[110]救助きゅうじょされ、午後ごご4前後ぜんこう大和やまとがた戦艦せんかん武蔵むさしよこづけ摩耶まや乗組のりくみいん移乗いじょうさせた[111][112]武蔵むさし主計しゅけいちょう永末ながすえ英一ひでかず摩耶まや主計しゅけいちょうに「ほんかん絶対ぜったいしずまないから安心あんしんせよ」と梅酒うめしゅをすすめたという[113]摩耶まや航海こうかいちょう武蔵むさし運用うんようちょうから同様どうようはなしいている[114]

よく10がつ24にち栗田くりた艦隊かんたいはアメリカ機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい襲撃しゅうげきされ、武蔵むさし集中しゅうちゅう攻撃こうげきけて航行こうこう不能ふのうとなった[115]摩耶まや生存せいぞんしゃ自発じはつてき戦闘せんとう配置はいち[116]、また武蔵むさし艦橋かんきょうへの命中めいちゅうだん作戦さくせんしつにいた摩耶まや副長ふくちょう軍医ぐんいふく摩耶まや士官しかん多数たすう死傷ししょうするなど[117][118]けい117めい戦死せんしした[108]午後ごご630ふん武蔵むさしふなばた後部こうぶ横付よこづけしたしまふうがた駆逐くちくかんしまふう摩耶まや乗組のりくみいん607めい連合れんごう艦隊かんたい司令しれい法務ほうむ士官しかん4めい移乗いじょうしたが、武蔵むさし応急おうきゅう修理しゅうり作業さぎょう従事じゅうじすべく摩耶まや士官しかん4めい下士官かしかんへい41めい武蔵むさし残留ざんりゅうした[119][120]午後ごご740ふんしまふう摩耶まや乗組のりくみいん武蔵むさし沈没ちんぼつ火柱ひばしら目撃もくげきした[121]翌日よくじつ以降いこう戦闘せんとうにおいても摩耶まや乗組のりくみいんしまふう水上すいじょう対空たいくう戦闘せんとう参加さんか[122]、5めい戦死せんし、8めい戦傷せんしょう[108]。10月26にち午後ごご10しまふうコロンとう(コロンわん)に到着とうちゃくした[123]最終さいしゅうてき戦死せんししゃは470めいだった[124]。その摩耶まや生存せいぞんしゃ日本にっぽん帰投きとうするはやぶさたか輸送ゆそう部隊ぶたい空母くうぼはやぶさたかじゅうじゅん利根とね駆逐くちくかん卯月うづきゆうがつ時雨しぐれ》)のうち利根りこん便乗びんじょうして日本にっぽん本土ほんどかった[114]

12月20にち摩耶まや帝国ていこく軍艦ぐんかんせきより除籍じょせきされた[125]

沈没ちんぼつせん

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2019ねん4がつ19にちマイクロソフト共同きょうどう創業そうぎょうしゃポール・アレン所有しょゆうする調査ちょうさせんペトレルによって、フィリピンさい西端せいたんパラワンしまおき水深すいしん1850mで沈没ちんぼつした摩耶まや発見はっけんされた[126][127]。そして2019ねん7がつ主砲しゅほう機銃きじゅうなどが綺麗きれいのこされたまま、発見はっけんされたのを公表こうひょうした。

歴代れきだい艦長かんちょう

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軍艦ぐんかん摩耶まやこれ

※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』111-114ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれき」にもとづく。

艤装ぎそういんちょう

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  1. 森本もりもとすすむ 大佐たいさ:1930ねん11月8にち -

艦長かんちょう

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  1. 森本もりもとすすむ 大佐たいさ:1932ねん6がつ30にち - 1932ねん12月1にち
  2. 山本やまもと弘毅こうき 大佐たいさ:1932ねん12月1にち - 1933ねん11月15にち
  3. 新見にいみ政一まさかず 大佐たいさ:1933ねん11月15にち - 1934ねん11月15にち
  4. 小沢おざわおさむ三郎さぶろう 大佐たいさ:1934ねん11月15にち - 1935ねん10がつ28にち
  5. 茂泉しげいずみ慎一しんいち 大佐たいさ:1935ねん10がつ28にち - 1936ねん12月1にち
  6. 大島おおしまいぬい四郎しろう 大佐たいさ:1936ねん12月1にち - 1937ねん11月15にち
  7. 鈴木すずきよし 大佐たいさ:1937ねん11月15にち - 1938ねん11月15にち
  8. 中原なかはら義正よしまさ 大佐たいさ:1938ねん11月15にち - 1939ねん11月15にち
  9. 大杉おおすぎ守一しゅいち 大佐たいさ:1939ねん11月15にち - 1941ねん4がつ15にち
  10. 伊崎いざき俊二しゅんじ 大佐たいさ:1941ねん4がつ15にち - 1941ねん8がつ11にち
  11. 鍋島なべしま俊策しゅんさく 大佐たいさ:1941ねん8がつ11にち - 1942ねん9がつ30にち
  12. 松本まつもとあつし 大佐たいさ:1942ねん9がつ30にち - 1943ねん10がつ16にち
  13. 加藤かとう与四郎よしろう 大佐たいさ:1943ねん10がつ16にち - 1943ねん12月26にち
  14. 大江おおえらん 大佐たいさ:1943ねん12月26にち - 1944ねん10がつ23にち戦死せんし

同型どうけいかん

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  • 摩耶まや艦艇かんてい使つかわれるのはほんこうじゅう巡洋艦じゅんようかん高雄たかおがた3ばんかんとしての摩耶まやが2度目どめであり、以前いぜん摩耶まやがた砲艦ほうかんネームシップとして摩耶まや使つかわれている。このとき同型どうけいかん鳥海とりうみ愛宕あたご赤城あかぎ赤城あかぎべつクラスとしてあつかわれることあり)。命名めいめいもとになった摩耶山まやさん天上寺てんじょうじ山門さんもん付近ふきんに「軍艦ぐんかん摩耶まやこれ」がてられている。なお、このいしぶみかれている川崎重工かわさきじゅうこう寄贈きぞう銅板どうばんほんこうほう摩耶まやである。
  • 東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥げんすいまご東郷とうごうみのる大佐たいさ息子むすこ東郷とうごう良一りょういち海軍兵学校かいぐんへいがっこう71入校にゅうこう留年りゅうねんのため卒業そつぎょう72期生きせい)は摩耶まや甲板かんぱん士官しかんとして摩耶まや沈没ちんぼつ戦死せんしした(前述ぜんじゅつ)。へい学校がっこう時代じだい祖父そふ東郷とうごう元帥げんすい)の短剣たんけんって登校とうこうしたり、摩耶まや乗艦じょうかんにわざと東郷とうごう元帥げんすい軍服ぐんぷく着用ちゃくようして周囲しゅういおどろかせたひとし逸話いつわのこされている[128]破天荒はてんこう青年せいねんだったが、へい学校がっこう生徒せいとたちや、下士官かしかんへいたちからの評判ひょうばん非常ひじょうかったという[128]
  • 野坂のさかあきら小説しょうせつ火垂ほたるのはか』では、主人公しゅじんこうせいふとしちちが1935ねん昭和しょうわ10ねんごろ摩耶まやんでいたと設定せっていされている。この設定せっていスタジオジブリのアニメ映画えいが高畑たかはたいさお監督かんとく)でも踏襲とうしゅうされている。

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 池田いけだきよしじゅうじゅん摩耶まや朝日あさひソノラマ文庫ぶんこ、1986ねんISBN 4-257-17069-7 
  • 池田いけだきよしじゅうじゅん摩耶まや もと乗組のりくみいんつづ栄光えいこう軌跡きせき』(学研がっけんM文庫ぶんこ、2002ねんISBN 4-05-901110-X
  • 池田いけだきよし野村のむらみのるほか へん海軍かいぐん艦隊かんたい勤務きんむ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2001ねんISBN 4-404-02914-4 
  • 宇垣うがきまとい成瀬なるせきょう発行はっこうじんせんろく 明治めいじひゃくねん叢書そうしょはら書房しょぼう、1968ねん1がつ 
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
    • 今城いましろ能文のうぶん(摩耶まや主計しゅけいちょう、1942ねん11がつ10日とおか〜1943ねん12月16にち)『「じゅうじゅん摩耶まや』から戦闘せんとう
      別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん日本にっぽん海軍かいぐん軍艦ぐんかん総覧そうらん 戦記せんきシリーズ37』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1997)をさいろく
  • 片桐かたぎりだい聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでんぜんはちろくせき栄光えいこう悲劇ひげき光人みつひとしゃ、2003ねん8がつISBN 978-4769811510 
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1977ねん7がつ 
  • 小板橋こいたばしたかしさく愛宕あたご奮戦ふんせん 旗艦きかん乗組のりくみいんたソロモン海戦かいせん光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2008ねんISBN 978-4-7698-2560-9 
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9
  • エドワード・P・スタッフォード、井原いはら裕司ゆうじ やく空母くうぼエンタープライズ THE BIG E 上巻じょうかん元就もとなり出版しゅっぱんしゃ、2007ねんISBN 978-4-86106-157-8 
  • 手塚てづかただしおのれ軍艦ぐんかん武藏むさし 上巻じょうかん新潮しんちょう文庫ぶんこ、2009ねんISBN 978-4-10-127771-4 
  • 手塚てづかただしおのれ軍艦ぐんかん武藏むさし 下巻げかん新潮しんちょう文庫ぶんこ、2009ねんISBN 978-4-10-127772-1 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ26 らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん 海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ、1969ねん5がつ 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい43かん ミッドウェー海戦かいせんちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ だい56かん 海軍かいぐんとしごう作戦さくせん2-フィリピンおき海戦かいせん-』ちょうくも新聞しんぶんしゃ、1972ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ62 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2) 昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこうちょうくも新聞しんぶんしゃ、1973ねん2がつ 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ88 海軍かいぐん戦備せんび(2) 開戦かいせん以後いごちょうくも新聞しんぶんしゃ、1975ねん10がつ 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ96 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(3) とう撤収てっしゅうちょうくも新聞しんぶんしゃ、1976ねん8がつ 
  • まる編集へんしゅう写真しゃしん 日本にっぽん軍艦ぐんかん だい6かん じゅうじゅんII』(光人みつひとしゃ、1989ねんISBN 4-7698-0456-3
  • まる編集へんしゅうへん巡洋艦じゅんようかん戦記せんき じゅうじゅん最上さいじょう出撃しゅつげきせよ』光人みつひとしゃ、2011ねん8がつ原著げんちょ1990ねん)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
    • レイテおきこの非情ひじょうなるだい海戦かいせん 史上しじょう最大さいだい海戦かいせんから奇蹟きせきてき生還せいかんした激闘げきとう記録きろく 井上いのうえだんひらめ五十鈴いすず航海こうかいちょう摩耶まや航海こうかいちょう沈没ちんぼつ》→だいじゅう戦隊せんたい司令しれいおおとりしょう航海こうかいちょう
  • 松浦まつうらたかし編著へんちょ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん永末ながすえ英一ひでかず(海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいい)"太平洋たいへいようしずんだ戦友せんゆうこえ"」『おわりなき海軍かいぐん わか世代せだいつたえたいのこしたい文化ぶんかしゃ、1978ねん6がつ 
  • クリストファー・ショアーズ、ブライアン・カル、伊沢いさわたもつ南方なんぽう進攻しんこう航空こうくうせん1941-1942』伊沢いさわたもつ やくだい日本にっぽん絵画かいが、2002ねんISBN 4-499-22770-4
  • 雨倉あめくら孝之たかゆき「ラバウル空襲くうしゅう 栗田くりた艦隊かんたい災厄さいやく」『まる別冊べっさつ 太平洋戦争たいへいようせんそう証言しょうげんシリーズ1 空白くうはく戦記せんき なか北部ほくぶソロモンの攻防こうぼうせんしお書房しょぼう、1985ねん、313-321ページページ
  • Hermon Gill, Second World War Official Histories - Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy: Volume I – Royal Australian Navy, 1939–1942, 1957
  • 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
    • 海軍かいぐん有終ゆうしゅうかいへん幕末ばくまつ以降いこう帝国ていこく軍艦ぐんかん写真しゃしん史実しじつ海軍かいぐん有終ゆうしゅうかい、1935ねん11月。 
    • 海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ編輯へんしゅう へん『ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん : にちえいべいふつ軍艦ぐんかんしゅう. 1935年版ねんばん海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ、1935ねん5がつ 
    • 海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ編輯へんしゅう へん『ポケット海軍かいぐん年鑑ねんかん : にちえいべいふつどく軍艦ぐんかんしゅう. 1937,1940年版ねんばん海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ、1937ねん2がつ 
    • 海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ編輯へんしゅう へん日本にっぽん軍艦ぐんかんしゅう 2600年版ねんばん海軍かいぐん研究けんきゅうしゃ、1940ねん7がつ 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • Ref.C05110627700「だい2525ごう 7.7.5摩耶まや
    • Ref.C05021073000「だい3413ごう 5.10.14外国がいこくじんたい軍艦ぐんかん摩耶まや進水しんすいしきはい案内あんない状差じょうさし出方でかた承認しょうにんけん
    • Ref.C08030750500「昭和しょうわ16ねん12月8にち昭和しょうわ19ねん11月5にち 秋山あきやまただし清元きよもと海軍かいぐん大尉たいい 乗艦じょうかん 伊勢いせ.摩耶まや.ふう.あけぼの 行動こうどう記録きろく
    • Ref.C13071974300『昭和しょうわ12ねん12月1にち現在げんざい10はんないれい提要ていよう追録ついろくだい3ごう原稿げんこうまき1追録ついろく/だい6るい機密きみつ保護ほご』。 
    • Ref.C13072003500『昭和しょうわ16ねん12月31にち現在げんざい10はんないれい提要ていよう追録ついろくだい10ごう原稿げんこうまき2.3/ まき3追録ついろく/だい13るい艦船かんせん(1)』。 
    • Ref.C08030774900『昭和しょうわ17ねん3がつ昭和しょうわ17ねん5がつ 軍艦ぐんかん高雄たかお行動こうどう関係かんけい書類しょるいつづり(1)』。 
    • Ref.C08030775000『昭和しょうわ17ねん3がつ昭和しょうわ17ねん5がつ 軍艦ぐんかん高雄たかお行動こうどう関係かんけい書類しょるいつづり(2)』。 
    • Ref.C08030080400『昭和しょうわ17ねん3がつ1にち昭和しょうわ17ねん5がつ31にち だい1水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(3)』。 
    • Ref.C08030366100『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ17ねん6がつ31にち 防備ぼうび戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(2)』。 
    • Ref.C08030019000『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん6がつ30にち だい5艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし AL作戦さくせん(1)』。 
    • Ref.C08030019100『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん6がつ30にち だい5艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし AL作戦さくせん(2)』。 
    • Ref.C08030019200『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん6がつ30にち だい5艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし AL作戦さくせん(3)』。 
    • Ref.C08030019300『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん6がつ30にち だい5艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし AL作戦さくせん(4)』。 
    • Ref.C08030019400『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん6がつ30にち だい5艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし AL作戦さくせん(5)』。 
    • Ref.C08030019500『昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん6がつ30にち だい5艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし AL作戦さくせん(6)』。 
    • Ref.C08030044200『昭和しょうわ17ねん6がつ1にち昭和しょうわ17ねん11月30にち だい5戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)』。 
    • Ref.C08030098100『昭和しょうわ17ねん10がつ1にち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)』。 
    • Ref.C08030098200『昭和しょうわ17ねん10がつ1にち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)』。 
    • Ref.C08030098300『昭和しょうわ17ねん10がつ1にち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(3)』。 
    • Ref.C08030098400『昭和しょうわ17ねん10がつ1にち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)』。 
    • Ref.C08030098500『昭和しょうわ17ねん10がつ1にち昭和しょうわ17ねん10がつ31にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(5)』。 
    • Ref.C08030768400『昭和しょうわ17ねん11月〜昭和しょうわ17ねん12月 だい7戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(1)』。 
    • Ref.C08030768500『昭和しょうわ17ねん11月〜昭和しょうわ17ねん12月 だい7戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(2)』。 
    • Ref.C08030768600『昭和しょうわ17ねん11月〜昭和しょうわ17ねん12月 だい7戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(3)』。 
    • Ref.C08030768700『昭和しょうわ17ねん11月〜昭和しょうわ17ねん12月 だい7戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(4)』。 
    • Ref.C08030101500『昭和しょうわ18ねん6がつ14にち昭和しょうわ18ねん11月11にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(6)』。 
    • Ref.C08030101600『昭和しょうわ18ねん6がつ14にち昭和しょうわ18ねん11月11にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(7)』。 
    • Ref.C08030749100『昭和しょうわ18ねん11月5にちラバウル港内こうない対空たいくう戦闘せんとう摩耶まや被害ひがいおよ応急おうきゅう処置しょち(2)』。 
    • Ref.C08030749200『昭和しょうわ18ねん11月5にちラバウル港内こうない対空たいくう戦闘せんとう摩耶まや被害ひがいおよ応急おうきゅう処置しょち(2)』。 
    • Ref.C08030589400『昭和しょうわ19ねん10がつ22にち昭和しょうわ19ねん10がつ28にち 駆逐くちくかん秋霜しゅうそう戦闘せんとう詳報しょうほう』。 
    • Ref.C08030565200『昭和しょうわ19ねん10がつ24にち 軍艦ぐんかん武蔵むさし戦闘せんとう詳報しょうほう』。 
    • Ref.C08030568800『昭和しょうわ19ねん10がつ22にち昭和しょうわ19ねん10がつ26にち 軍艦ぐんかん摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせん戦闘せんとう詳報しょうほう』。 
    • Ref.C12070090100『昭和しょうわ3ねん いたる かん/たち昭和しょうわ3ねん9がつ』。 
    • Ref.C12070203800『昭和しょうわ17ねん8がつ10日とおか.昭和しょうわ20ねん7がつ13にち ないれいおよ海軍かいぐん公報こうほうぐん極秘ごくひ)/うちれい昭和しょうわ19ねん10がつ〜12月(4)』。 

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 昭和しょうわ7ねん6がつ30にちづけ 海軍かいぐんないれい だい218ごう改正かいせい海軍かいぐん定員ていいんれいだい40ひょう 一等いっとう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其1」。この数字すうじ特修とくしゅうへいふくまない。
  2. ^ a b 昭和しょうわ3ねん11月7にちづけ 海軍かいぐんないれい だい313ごう
  3. ^ #聯合れんごう艦隊かんたい軍艦ぐんかん銘銘めいめいでん110ぺーじ
  4. ^ #艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう(昭和しょうわ16ねん12月31にち)p.1『艦艇かんてい類別るいべつ等級とうきゅうひょう|軍艦ぐんかん|巡洋艦じゅんようかん|一等いっとう|高雄たかおがた|高雄たかお愛宕あたご鳥海とりうみ摩耶まや
  5. ^ a b c #昭和しょうわ12ねん12月1にち現在げんざい艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんいp.4『摩耶まや|一等いっとう巡洋艦じゅんようかん|(かんしょもとりゃく)|神戸こうべ川崎かわさき造船ぞうせんしょ|3-12-4|5-11-8|7-6-30|(装備そうびりゃく)』
  6. ^ 日本にっぽん海軍かいぐん命名めいめい慣例かんれいについては日本にっぽん艦船かんせん命名めいめい慣例かんれい参照さんしょう
  7. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.17
  8. ^ #たち昭和しょうわ3ねん9がつp.15『いたるだいひゃくさんじゅういちごう 艦艇かんてい製造せいぞうヲ以テ昭和しょうわさん年度ねんどニ於テ建造けんぞう一等いっとう巡洋艦じゅんようかんいちせきひだりつう命名めいめいセラル|昭和しょうわさんねんきゅうがつじゅういちにち 海軍かいぐん大臣だいじん 岡田おかだ啓介けいすけ株式會社かぶしきがいしゃ川崎かわさき造船ぞうせんしょニ於テ建造けんぞう 摩耶まや(マヤ)』
  9. ^ a b #たち昭和しょうわ3ねん9がつpp.15-16『いたるだいひゃくさんじゅうごう 艦艇かんてい製造せいぞうヲ以テ昭和しょうわさん年度ねんどニ於テ建造けんぞう軍艦ぐんかんなみ驅逐くちくかんひだりつう命名めいめいス|昭和しょうわさんねんきゅうがつじゅういちにち 海軍かいぐん大臣だいじん 岡田おかだ啓介けいすけかんしゅ|かんめい|建造けんぞうしょとう砲艦ほうかん|熱海あたみ(アタミ)|三井物産みついぶっさん株式會社かぶしきがいしゃ造船ぞうせんだま工場こうじょうどう|二見ふたみ(フタミ)|株式會社かぶしきがいしゃ藤永ふじなが造船ぞうせんしょ一等いっとう驅逐くちくかん|てんきり(アマギリ)|株式會社かぶしきがいしゃ東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょどう|朝霧あさぎり(アサギリ)|佐世保させぼ海軍かいぐん工廠こうしょう
  10. ^ a b だい2525ごう 7.7.5摩耶まや」p.2
  11. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.12
  12. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.39
  13. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.45
  14. ^ a b c d e f g h #戦史せんし叢書そうしょ海軍かいぐん戦備せんび(2)106ぺーじ摩耶まや改装かいそう
  15. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.61
  16. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.65
  17. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.81
  18. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、153、158ページ
  19. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、154ページ
  20. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、216ページ
  21. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、216ページ、南方みなかた進攻しんこう航空こうくうせん、74、261ページ
  22. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、252-253ページ
  23. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、270ページ
  24. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい24かん 比島ひじま・マレー方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、302ページ
  25. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.95
  26. ^ #日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし127-128ぺーじ『アンボンとう爆撃ばくげき(いちがつ)』
  27. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.97
  28. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.99
  29. ^ a b c d #戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん492-493ぺーじ南方みなかた部隊ぶたい本隊ほんたい、ジャワ南方なんぽう進出しんしゅつ
  30. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん53-54ぺーじ
  31. ^ a b c d #戦史せんし叢書そうしょ26海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん511-515ぺーじ南方なんぽう部隊ぶたい本隊ほんたい、ジャワ南方なんぽう敵艦てきかんせん撃滅げきめつ
  32. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.629
  33. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい026かん らんしるし・ベンガルわん方面ほうめん海軍かいぐん進攻しんこう作戦さくせん、513、515ページ、Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.617,629-630
  34. ^ #S1703いちせん日誌にっし(1)p.51『11にち1130だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん|南方みなかた部隊ぶたいでんれいだい131ごう いち.摩耶まや高雄たかお有明ありあけ夕暮ゆうぐれ摩耶まや艦長かんちょう指揮しき3がつ11にち午後ごご以後いご「スターリング」わん出港しゅっこう爾後じご南方なんぽう部隊ぶたいヨリじょキGF長官ちょうかん所定しょてい行動こうどうスベシ』
  35. ^ #S1703高雄たかお行動こうどう(1)p.3『3がつ14にち1100燃料ねんりょう関係かんけいじょう有明ありあけ及夕くれかいれつセラル、天候てんこう一般いっぱんあら模様もようナリ…』
  36. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.110
  37. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.113
  38. ^ #日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし203ぺーじ
  39. ^ a b #せんろく(1968)110ぺーじ
  40. ^ #S1703高雄たかお行動こうどう(2)p.4
  41. ^ #S1612防備ぼうび戦隊せんたい日誌にっし(2)p.31『さんにち(天候てんこうりゃく).摩耶まや高雄たかお6dg(でんかけ)豊後水道ぶんごすいどうにゅうはく掩護えんご
  42. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、229ページ
  43. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい43かん ミッドウェー海戦かいせん、278ページ
  44. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、245-247ページ
  45. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、258ページ
  46. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、262-263ページ
  47. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん114-115ぺーじ
  48. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん128ぺーじ
  49. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.129
  50. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん157ぺーじ
  51. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん165ぺーじ
  52. ^ #愛宕あたご奮戦ふんせん171-172ぺーじ
  53. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.132
  54. ^ #S1710二水にすいせん日誌にっし(1)p.33『1205 2sd(15dgかけ)ハ前進ぜんしん部隊ぶたいヨリかいれつ31dgヲ5Sノ直衛なおえトシ2sd(15dg 31dgかけ)ヲじきりつ警戒けいかいたいトナル』
  55. ^ #S1710二水にすいせん日誌にっし(1)p.34『2222 5S(みょうだか摩耶まや)「ガダルカナル」飛行場ひこうじょうたい砲撃ほうげき開始かいし
  56. ^ #S1706戦隊せんたい日誌にっし(4)p.67『(いち)使用しよう弾薬だんやく 主砲しゅほう20せんちめーとるほうれいしきだんてっかぶとだん みょうだか463はつ 摩耶まや450はつ けい913はつ
  57. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.141
  58. ^ #S1711なな戦隊せんたい日誌にっし(1)p.6『(りゃく)〔兵力へいりょくだいなな戦隊せんたい(熊野くまのかけ)摩耶まや天龍てんりゅうだいじゅう駆逐くちくたいあさしお
  59. ^ #S1711なな戦隊せんたい日誌にっし(1)p.6『(さん)13にち0540がい南洋なんよう部隊ぶたいぬしたいどもニ「ショートランド」出撃しゅつげき2210「「サボ」とう北西方きたにしかたニ於テぬしたい分離ぶんり支援しえんたいりつヰ「ガ」しま海面かいめん突入とつにゅう飛行場ひこうじょう制圧せいあつ射撃しゃげき実施じっし14にち0004しゃげき終了しゅうりょう…』
  60. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.146、#海軍かいぐん艦隊かんたい勤務きんむp.185
  61. ^ #BIG Eうえp.285
  62. ^ a b c #BIG Eうえp.286
  63. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.147
  64. ^ #海軍かいぐん艦隊かんたい勤務きんむp.187
  65. ^ a b #海軍かいぐん艦隊かんたい勤務きんむp.188
  66. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、402ページ
  67. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.153
  68. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、410-411、441ページ
  69. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、441ページ
  70. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、439-442ページ
  71. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、442ページ
  72. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.157
  73. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.160
  74. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、443-444ページ
  75. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい29かん 北東ほくとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん、446ページ
  76. ^ #戦史せんし叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう396ぺーじ栗田くりた部隊ぶたいのラバウル進出しんしゅつ決定けってい
  77. ^ #戦史せんし叢書そうしょ96ガとう撤収てっしゅう400ぺーじ
  78. ^ ラバウル空襲くうしゅう、319ページ
  79. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.172
  80. ^ #海軍かいぐん艦隊かんたい勤務きんむp.189
  81. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.173
  82. ^ a b c ラバウル空襲くうしゅう、321ページ
  83. ^ #海軍かいぐん艦隊かんたい勤務きんむp.190
  84. ^ a b c d #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)430ぺーじ摩耶まや応急おうきゅう修理しゅうり内地ないち回航かいこう
  85. ^ #S1806二水にすいせん日誌にっし(6)p.49『11にちはたはた2sd/かんN1702/直衛なおえ配備はいびひだりつうていム 能代のしろ左右さゆう70摩耶まや左右さゆう90ちょうくじらノ180距離きょり2きろめーとる前方ぜんぽうヨリ右側みぎがわ若月わかつき風雲ふううん左側ひだりがわはや藤波ふじなみ後方こうほうがつ
  86. ^ a b #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)429ぺーじ阿賀あがかみなりとその救難きゅうなん
  87. ^ #ラバウル空襲くうしゅう摩耶まや被害ひがい(2)p.33『いち.かく部隊ぶたい指揮しきかんひだりたいかんヲシテ11がつ30にちごろ「PT」はつ「NAA」ニ回航かいこうセシムベシ 瑞鳳ずいほう冲鷹くもたか摩耶まやななうらふう.瑞鳳ずいほう艦長かんちょう回航かいこうちゅうみぎ部隊ぶたい指揮しきスベシ』
  88. ^ a b #戦史せんし叢書そうしょ中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)529ぺーじべい潜水せんすいかん跳梁ちょうりょうと冲鷹のかみなり沈没ちんぼつ
  89. ^ #ラバウル空襲くうしゅう摩耶まや被害ひがい(2)p.33『だい「トラック」(11月30にちはつ)横須賀よこすか(12月4にち)(りゃく)』
  90. ^ #S1812じゅう戦隊せんたい日誌にっし(5)p.7『(3)ゆきふう(りゃく)じゅう二日臼杵湾発途中大和摩耶ト合同ごうどうさんくも早霜はやじもとうふうども警戒けいかいにんジツゝ「マニラ」ヲけいテ「リンガ」ニ進出しんしゅつス』
  91. ^ #S1812じゅう戦隊せんたい日誌にっし(5)p.56『23(天候てんこうりゃく)いち〇〇いそふう「リンガ」ニこう昭南しょうなんはついちななちゃく やまくも大和やまと護衛ごえいとめ平郡島へいぐんとう
  92. ^ #S1812じゅう戦隊せんたい日誌にっし(5)p.4『(1)やまくも(りゃく)じゅういちにち重油じゅうゆ搭載とうさいため徳山とくやま回航かいこうにち大和やまと摩耶まや護衛ごえい平郡島へいぐんとう回航かいこうじゅう三日仝地着爾後内海西部ニ於テしょ訓練くんれん従事じゅうじじゅう七日呉皈投月末迄整備補給ニ従事じゅうじス』
  93. ^ #S1812じゅういちみずせん日誌にっし(4)p.43「二三にさん(天候てんこうりゃく)いちろく〇〇横須賀よこすか長良ながらいち〇〇内海うちうみ西部せいぶ
  94. ^ #S1812じゅう戦隊せんたい日誌にっし(5)p.12『(さん)麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう
  95. ^ #S1812じゅう戦隊せんたい日誌にっし(5)pp.56-57『26(天候てんこうりゃく)いちさん五七雪風大和摩耶島風「マニラ」』-『29(天候てんこうりゃく)〇〇〇ゆき風島かぜしまふう大和やまと摩耶まや護衛ごえい「リンガ」ニこうケ「マニラ」はつ
  96. ^ #S1812じゅう戦隊せんたい日誌にっし(6)p.10『(5)ゆきふう 大和やまと摩耶まや警戒けいかいにんいちにち「リンガ」ちゃくじゅうにちまでどう方面ほうめんニ於テ訓練くんれん警戒けいかい待機たいき従事じゅうじ…』
  97. ^ 木俣きまた日本にっぽん戦艦せんかん戦史せんし』355ページ
  98. ^ #巡洋艦じゅんようかん戦記せんき372-374ぺーじ消息しょうそくをたったそう旗艦きかん
  99. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.198
  100. ^ #巡洋艦じゅんようかん戦記せんき375-376ぺーじ暗雲あんうんひくき日本にっぽん本土ほんど
  101. ^ a b #巡洋艦じゅんようかん戦記せんき380-384ぺーじ『わが摩耶まや断末魔だんまつま
  102. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.3『10.22|0800|だいいちゆうげき部隊ぶたい「ブルネイ」出撃しゅつげき
  103. ^ a b c #せんろく(1968)416-147ぺーじ
  104. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.227
  105. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.3『10.23|0657|北緯ほくいきゅうじゅうななふん東経とうけいいちいちななじゅうさんふん(パラワン水道すいどう南口みなみぐち附近ふきん)ニ於テてき潜水せんすいかん攻撃こうげきヲ受ケ錨鎖びょうさ一番いちばん砲塔ほうとうななかんしつ後部こうぶ機械きかいしつかく左舷さげん魚雷ぎょらいけいよんほん命中めいちゅう左舷さげんだい傾斜けいしゃス』
  106. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.235
  107. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.3『0705|摩耶まや沈没ちんぼつ
  108. ^ a b c #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんpp.4-5『()被害ひがい (人員じんいん関係かんけいノミ)』
  109. ^ #武藏むさしじょう630ぺーじでは中尉ちゅういとしている。
  110. ^ #巡洋艦じゅんようかん戦記せんき385ぺーじ(摩耶まや航海こうかいちょう岸波きしなみ回想かいそうしている)
  111. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.3『0900|副長ふくちょう以下いかななろくきゅうめい驅逐くちくかん秋霜しゅうそう収容しゅうようサル|1545|副長ふくちょう以下いかななろくきゅうめい軍艦ぐんかん武蔵むさし移乗いじょう
  112. ^ #S1910秋霜しゅうそう詳報しょうほうp.4『1600武蔵むさしよこづけ摩耶まや乗員じょういん移乗いじょう|1624移乗いじょう終了しゅうりょう進撃しんげき開始かいし
  113. ^ #わりなき海軍かいぐん218-219ぺーじ
  114. ^ a b #巡洋艦じゅんようかん戦記せんき385-389ぺーじ武蔵むさし健在けんざいなりや』
  115. ^ #せんろく(1968)418ぺーじ
  116. ^ #武蔵むさし戦闘せんとう詳報しょうほうp.3『便乗びんじょうちゅう軍艦ぐんかん摩耶まや乗員じょういんおっと固有こゆう戦闘せんとう配置はいちおうほんかん戦闘せんとうりょく増強ぞうきょうスル配備はいびニ就キざいリタリ』
  117. ^ #武蔵むさし戦闘せんとう詳報しょうほうp.11『作戦さくせんしつニ於テ摩耶まや副長ふくちょう海軍かいぐん中佐ちゅうさ永井ながい貞三ていぞう 摩耶まや醫務いむ分隊ぶんたい海軍かいぐん軍醫ぐんい大尉たいい薄場うすばゆう戦死せんし
  118. ^ #武藏むさし124-125ぺーじ
  119. ^ #武藏むさし176ぺーじ
  120. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.5『備考びこう|武蔵むさし應急おうきゅう作業さぎょう援助えんじょため内務ないむいんじゅん士官しかん移乗いじょう4めい下士官かしかんへい41めい残留ざんりゅうセシム』
  121. ^ #わりなき海軍かいぐん222ぺーじ
  122. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.4『10.25|しまふう便乗びんじょうちゅうかく配置はいちニ於テ水上すいじょうせん及對空戦くうせん従事じゅうじ(しまふうせん詳報しょうほう参照さんしょう)』
  123. ^ #摩耶まやりつまろうどおき海戦かいせんp.4『10.26|2200|「コロン」湾入わんにゅうこう
  124. ^ #池田いけだ 朝日あさひp.256、「軍艦ぐんかん摩耶まや戦死せんししゃ名簿めいぼ
  125. ^ #うちれい昭和しょうわ19ねん10がつ〜12月(4)p.33『うちれいだいいちさんろくきゅうごう(ぐん極秘ごくひ)|横須賀よこすか鎮守ちんじゅ在籍ざいせき 軍艦ぐんかん 愛宕あたご 軍艦ぐんかん 鳥海とりうみ 軍艦ぐんかん 摩耶まや 軍艦ぐんかん 多摩たま 軍艦ぐんかん 能代のしろ 軍艦ぐんかん 千代田ちよだ|鎮守ちんじゅ在籍ざいせき 軍艦ぐんかん 鬼怒きぬ 軍艦ぐんかん 最上さいじょう 軍艦ぐんかん 鈴谷すずや|佐世保させぼ鎮守ちんじゅ在籍ざいせき 軍艦ぐんかん 阿武隈あぶくま 軍艦ぐんかん 瑞鳳ずいほう 軍艦ぐんかん せんさい|みぎ帝國ていこく軍艦ぐんかんせきヨリじょカル|昭和しょうわじゅうきゅうねん十二月じゅうにがつじゅうにち 海軍かいぐん大臣だいじん
  126. ^ きゅう海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかん摩耶まや」を発見はっけん フィリピンおき沈没ちんぼつ. 共同通信きょうどうつうしん. (2019ねん7がつ2にち). https://web.archive.org/web/20190702055323/https://this.kiji.is/518610158745125985?c=39546741839462401 2019ねん7がつ2にち閲覧えつらん 
  127. ^ rvpetrelの投稿とうこう(2445210215514445) - Facebook
  128. ^ a b #武藏むさしじょう211-213ぺーじ

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