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南人 (李氏朝鮮) - Wikipedia

みなみじん (朝鮮ちょうせん)

みなみじん(ナミン、あさ: 남인)は朝鮮ちょうせんりん朋党ほうとうである。せんのときにひがしじんきたじんみなみじん分裂ぶんれつしたことにより誕生たんじょうした。

沿革えんかく

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ひがしじん分裂ぶんれつ

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1580年代ねんだい後半こうはん政権せいけんにぎっていたのはひがしじんであった。そんななか1589ねんていなんじりつ反乱はんらんくわだてたことが発覚はっかくし、朝廷ちょうていではひがしじんわっててい中心ちゅうしんとする西人せいじん実権じっけんにぎった。しかしてい澈がひかりかいくん世子せいしさつふう建議けんぎしたところひがしじんから「ひかりかいくんおう世子せいしにしてじん嬪金とそのしんじょうくん殺害さつがいくわだてている」とのうそ密告みっこくけて左遷させんされ、ひがしじん西人せいじんたいする粛清しゅくせい敢行かんこうして政権せいけんにぎっていった。

しかし、ひがしじんてい澈の処分しょぶんたいする主張しゅちょう相違そういから分裂ぶんれつしていった。 てい澈は配流はいる十分じゅうぶんとの穏健おんけんろん展開てんかいしたのが禹性でんであった。それにたいしててい澈を死刑しけいしょすべきとの強硬きょうこう主張しゅちょうをしたのが山海さんかいだった。また、山海さんかいべつ問題もんだいやなぎしげるりゅうとも対立たいりつしていた。これによりひがしじんは禹性でんやなぎしげるりゅう中心ちゅうしんとしたみなみじん山海さんかい中心ちゅうしんとしたきたじんぶんとうした。

みなみじん』という呼称こしょう由来ゆらいは、やなぎしげるりゅうみねみなみ出身しゅっしんであったことや禹性でん実家じっか南山みなみやまのふもとにあったこと、拠点きょてん当時とうじであったかんじょうよりみなみにあったことなどがげられる。

ぶんとう以降いこうてい澈の処分しょぶんについてみなみじん主張しゅちょうする流刑りゅうけい採用さいようされたことでやなぎしげるりゅうや禹性でん政権せいけん主導しゅどうしていく。だが、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい契機けいきやなぎしげるりゅう罷免ひめんされることによってきたじんによる政権せいけん樹立じゅりつされ、ながみなみじん在野ざいやすることになった。

政権せいけん

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日本にっぽんによる朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい以後いご政権せいけんきたじん掌握しょうあくしていたが、世子せいしさつふう問題もんだいきたじん大北おおきたしょうきた分裂ぶんれつした。大北おおきたしょうきた党争とうそうひろげるなかみなみじん下野げやしたままでいた。その1623ねんひかりかいくん王座おうざから追放ついほうしたじんはんせいこるときたじん勢力せいりょく壊滅かいめつし、西人せいじん政権せいけんにぎることになった。もちろんみなみじん下野げやしたままであった。

だい18だい国王こくおうとして顕宗けんそう即位そくいすると、当時とうじみなみじん領袖りょうしゅうであったもときよし西人せいじん排撃はいげきする好機こうきた。こうむね薨去こうきょしたさいじんつぎであったそうれつおうきさき服喪ふくも期間きかん問題もんだいとなった。そうれつおうきさきこうむね義理ぎりははにあたるが、朝鮮ちょうせんではくしたおや長男ちょうなんであれば3ねん長男ちょうなん以外いがいであれば1ねんふくすのが慣例かんれいになっていたがこうむね嫡男ちゃくなんとみなすかかで議論ぎろんかもしていた。そこで西人せいじん領袖りょうしゅうそうれつが1ねん主張しゅちょうし、議論ぎろん終止符しゅうしふたれた。しかし、もときよし議論ぎろんくされなかったとの口実こうじつで3ねん主張しゅちょうした。3ねん主張しゅちょうするということはこうむねじん嫡男ちゃくなんとみなすことであり、こうむね正統せいとうせいたかみとめることでみなみじん勢力せいりょく伸張しんちょうさせる目的もくてきがあった。しかし、みなみじん思惑おもわくどおりにことはこばれず、西人せいじん見解けんかいみとめられるかたち終息しゅうそくした。(だいいちれい訟論そう)

1674ねんこうむね王妃おうひじんせんおうきさき薨去こうきょした。するとふたたそうれつおうきさき服喪ふくも期間きかんをめぐって論争ろんそうきる。長男ちょうなんよめくなった場合ばあい服喪ふくも期間きかんは1ねんだったが、長男ちょうなん以外いがいよめであれば服喪ふくも期間きかんは9かげつであった。このとき西人せいじんは9かげつ主張しゅちょうしたが、みなみじんこうむね正統せいとうせいみとめる観点かんてんから1ねん主張しゅちょう顕宗けんそうちち正統せいとうせいげることはみとめがたいため、みなみじん見解けんかい採用さいようした。結果けっかとしてりょうせいみなみじん領袖りょうしゅうであるもとせき抜擢ばってきされ、ついに50ねんつづいた西人せいじんからみなみじん政権せいけんうばったのである。(だいれい訟論そう)

かわきょくみなみじん

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顕宗けんそう死後しごだい19だい国王こくおうとして粛宗即位そくいすると、かわきょくばれる大胆だいたん政権せいけん交代こうたい王命おうめいによって断行だんこうされた。それによって政権せいけんみなみじん西人せいじんうごいていた。

粛宗が即位そくいした当初とうしょ政権せいけんにあったのはみなみじんであった。外戚がいせききむすずかぶとははじめみなみじん迎合げいごうしていたが、みなみじん勢力せいりょくすにつれてみずからの立場たちばあやうくなるとかんがえて西人せいじん結託けったくしてみなみじん排除はいじょはじめた。そんななか当時とうじみなみじん領袖りょうしゅうであったもとせき宴会えんかいひらさい宮中きゅうちゅう使つか天幕てんまく(個人こじん私的してき使つかうことはきんじられている)を粛宗の許可きょかずにした。それをみずからの権力けんりょくあまんじておうかろんずるがゆえ行為こういだとめた粛宗はみなみじん辞職じしょくさせたり追放ついほうしたりした。(庚申こうしんかわきょく)

庚申こうしんかわきょくつづいて三福みふくへんきた。みなみじん王族おうぞくであるぶくあきらくんぶくよしくん福平ふくだいらきみとともに謀反むほんくわだてているとの告発こくはつがなされたのである。それによりみなみじん重鎮じゅうちん大量たいりょう殺害さつがいされたり配流はいるされた。そして政権せいけん西人せいじんめるようになった。

みなみじん下野げやしたが、そのあいだ西人せいじんろうろんしょうろんかれて対立たいりつしていた。そのすきみなみじん政権せいけん奪還だっかんはかろうとする。粛宗が後宮こうきゅう側室そくしつ)としたちょう支持しじしたのである。一方いっぽう西人せいじん正室せいしつじんあらわおうきさき支持しじみなみじん西人せいじん対立たいりつしているなか、粛宗の寵愛ちょうあい一身いっしんけていたちょう1688ねん男子だんし出産しゅっさんする。粛宗は昀に元子もとこ(王位おうい継承けいしょうけんだいいち)の称号しょうごうあたえようとするが、西人せいじんがこれに反対はんたいする。粛宗がもと称号しょうごう強行きょうこうしようとすると西人せいじん再度さいど反対はんたいする。それに憤慨ふんがいした粛宗は西人せいじん追放ついほうする。これにともなってみなみじん要職ようしょくめるかたち政権せいけん復帰ふっきした。そして正室せいしつであったじんあらわおうきさきはいされ、ちょうわって王妃おうひいた。ちょうあにちょうのぞみまぐるしく出世しゅっせしていくと、みなみじんかれむすんで西人せいじん排除はいじょかった。謀反むほんくわだてを告発こくはつしたうえで西人せいじん加担かたんつみせ、粛清しゅくせいしていったのである。(おのれかわきょく)

みなみじんちょう兄妹きょうだい結託けったくして専断せんだんしていくなか西人せいじんじんあらわおうきさき復位ふくい運動うんどう展開てんかいする。みなみじんはそれを西人せいじん完全かんぜん追放ついほうしようとするが、ちょうへの寵愛ちょうあいうすれていた粛宗から寵愛ちょうあいけていた後宮こうきゅうちぇ毒殺どくさつ未遂みすい事件じけん浮上ふじょうすると粛宗は突如とつじょとして覚書おぼえがきし、みなみじん追放ついほうして西人せいじん登用とうようした。このとき追放ついほうされたみなみじんおのれかわきょくさい粛清しゅくせいされた西人せいじんよりもはるかにおおかった。そしてみなみじん権力けんりょく失墜しっついし、2政権せいけんをとることはなく、官界かんかいへとすすみちもほとんどざされた。(きのえいぬかわきょく)

いきおいみち政治せいじによるりん終焉しゅうえんまで

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えい治世ちせいの1728ねんろうろんによって排斥はいせきされた麟佐(しょうろん)がつちのえさるらんこすとけい尚道なおみち反乱はんらん加担かたんしたみなみじんがいた。このけん以来いらいみなみじん逆賊ぎゃくぞく烙印らくいんされることになった。

きのえいぬかわきょく下野げやしてから100ねんほどった1798ねんせいとろけたいらさくによって当時とうじ領袖りょうしゅうであった蔡済きょう大臣だいじん抜擢ばってきされる。これを皮切かわきりに中央ちゅうおう政界せいかい復帰ふっきすべく儒者じゅしゃ鎮東は、みなみじんつちのえさるらん反乱はんらんぐん抵抗ていこうしたのに逆賊ぎゃくぞく汚名おめいせられているとせいうったえる。するとせいみなみじんへの支援しえん確約かくやくし、積極せっきょくてき科挙かきょみなみじん登用とうようしていった。

みなみじん次々つぎつぎ登用とうようされていくなかろうろんはこれに抵抗ていこうする。せいみなみじん傾倒けいとうしてろうろん意見いけんかないこと、これをもって学問がくもんをないがしろにしてあそびほうけていると諫言したのである。みなみじんはこの発言はつげんをしたろうろん一人ひとり弾劾だんがいし、この発言はつげん擁護ようごしたいんきゅうむね調しらべをする。調しらべをすすめるといんきゅうむねだい20だい国王こくおうけいむねであるはし懿王きさき陵墓りょうぼまえとおりすぎるさい輿こしからりていなかったことがあきらかになる。これによってろうろんけいむね国王こくおうとみなしていなかったことが露見ろけんする。これを契機けいきに蔡済きょうろうろんによってめられたそうけんじ世子せいしはなししてろうろん批判ひはんする。さらにみなみじんそうけんじ世子せいし名誉めいよ回復かいふくろうろん反逆はんぎゃくざい適用てきようもとめた上訴じょうそおこない、この上訴じょうそには1まん57にん連署れんしょした。これにたいせい感極かんきわまり、理解りかいしめしつつもおいろん配慮はいりょしてみなみじんうったえをみとめなかった。[1]その10日とおかみなみじん前回ぜんかいより311にんおおい1まん368にんふたた上訴じょうそする。さらにもう一度いちど上訴じょうそ計画けいかくするがせい懇切こんせつ丁寧ていねい説得せっとくにより断念だんねんする。

せい治世ちせいそうけんじ世子せいしたいして同情どうじょうてきだった派閥はばつどきという。みなみじんしょうろんとともにどき形成けいせいした。

当時とうじみなみじんキリスト教きりすときょう受容じゅようしていた。清人きよひと神父しんぷ朝鮮ちょうせん密入国みつにゅうこくする事件じけんこると、ろうろんによって排斥はいせきされはじめる。しかしせいは粛宗時代じだいおいろん領袖りょうしゅうキリスト教きりすときょう評価ひょうかしていたことにれてろうろんキリスト教きりすときょう排斥はいせき批判ひはんして政権せいけんみなみじんかわもしくはちょうわか政権せいけんになうことをほのめかした。(みそむしろきょう)

しかしみなみじんは1799ねんに蔡済きょう死去しきょして勢力せいりょくよわまったことにくわみそむしろきょう直後ちょくごせい死去しきょしたことにより窮地きゅうちたされる。

じゅん即位そくいするとさだじゅんおうきさき中心ちゅうしんおいろんキリスト教きりすときょう弾圧だんあつ(からしとりきょうごく)してみなみじんおお処刑しょけい流刑りゅうけいしょしてみなみじん排除はいじょした。そのみなみじん政権せいけんかえくことは二度にどとなかった。そして外戚がいせき台頭たいとうしていきおいみち政治せいじはじまり朋党ほうとうによる政治せいじ終焉しゅうえんした。

思想しそう行動こうどう規範きはん

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みなみじん政治せいじ理念りねん綱領こうりょうは、儒教じゅきょうせい理学りがくだった。

17世紀せいきになるときよし考証こうしょうがく実利じつり思想しそう追及ついきゅうして実学じつがく発展はってん寄与きよする。

18世紀せいきになるとヨーロッパ実学じつがくとしてキリスト教きりすときょう受容じゅよう。キリストきょう弾圧だんあつともなっておおくのみなみじんころされた。

りん党派とうは変遷へんせん

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りん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1575ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西人せいじん
 
 
 
 
 
ひがしじん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1591ねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みなみじん
 
 
 
きたじん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大北おおきた
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1608ねんひかりかいくん擁立ようりつ
 
 
 
 
 
 
 
 
西人せいじん
 
 
 
みなみじん
 
大北おおきた
政権せいけん掌握しょうあく
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1623ねんひとしはんせい
 
 
 
 
 
 
 
 
西人せいじん
政権せいけん掌握しょうあく
 
 
 
みなみじん
 
×
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1674ねんきのえとられい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西人せいじん
粛清しゅくせい
 
 
 
みなみじん
政権せいけん掌握しょうあく
 
 
 
 
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1680ねん庚申こうしんかわきょく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西人せいじん
 
 
 
みなみじん
粛清しゅくせい
 
 
 
 
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かわきょく政治せいじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ろうろん
 
しょうろん
 
みなみじん
 
 
 
 
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とろけたいらさく
みずのえうま事件じけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
へき
 
 
 
どき
 
 
 
 
 
 
 
しょうきた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう西にし
 
 
 
信西しんぜい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1801ねんからしとり迫害はくがい
 
 
 
 
へき
 
 
 
×
 
 
 
 
 
 
 
1804ねん
 
 
 
 
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脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ せい実録じつろくまきさんなな

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小和田こわだやすしけい、『朝鮮ちょうせん王朝おうちょう』、2013ねん
  • しげるしげる、『朝鮮ちょうせん王朝おうちょう(した)』、2006ねん
  • ぼくえいけい、『朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく』、2012ねん

関連かんれん項目こうもく

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