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名越時兼 - Wikipedia

名越なごしけん

鎌倉かまくら時代じだい末期まっき武士ぶし北条ほうじょう名越なごしりゅう

名越なごし けん(なごえ ときかね、生年せいねん不明ふめい - たてたけし2ねん1335ねん8がつ)、または北条ほうじょう けん(ほうじょう ときかね)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき武士ぶし名越なごしりゅう北条ほうじょう名越なごや太郎たろう

概要がいよう

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名越なごしけん鎌倉かまくら時代じだい末期まっき越中えっちゅう守護しゅごであった名越なごしゆうとされる。

せいけい2ねん/元弘もとひろ3ねん1333ねん)、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう幕府ばくふ再興さいこうたてたけし新政しんせい転覆てんぷくはか北条ほうじょう残党ざんとう各地かくち蜂起ほうきする。たてたけし2ねん(1335ねん7がつ北条ほうじょうぎょう信濃しなの諏訪すわよりゆきじゅうらに擁立ようりつされ鎌倉かまくら奪還だっかん目指めざ挙兵きょへいすると(ちゅう先代せんだいらん)、ときけんもそれに呼応こおうして、えつちゅう能登のと加賀かが長沢ながさわ井口いぐち野尻のじり新政しんせい不満ふまん武士ぶし結集けっしゅう北陸ほくりく蜂起ほうきした[1]

どきけんすぎ本城ほんじょう拠点きょてんとし、松倉まつくらしろ椎名しいな六郎ろくろう入道にゅうどうとう北陸ほくりくしん政権せいけんがわ勢力せいりょく攻撃こうげきしつつ[2]、3まんあまりひき上洛じょうらく目論もくろんだが、加賀かが大聖寺だいしょうじじょう迎撃げいげきした福田ふくだ敷地しきち山岸やまぎし上木じょうぼくといった狩野かのいちとうや、援軍えんぐんとして派遣はけんされた瓜生うりゅうたもつはじめとする越前えちぜんたけ深町ふかまち武士ぶしだんやぶられた[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 太平たいへいまき13中前ちゅうぜんだい蜂起ほうきごと名越なごや太郎たろうけんには、野尻のじり井口いぐち長沢ながさわくらみつる者共ものどもはせちょけるあいだ越中えっちゅう能登のと加賀かがいきおいどもおお与力よりきして、ほどろくせんなりにけり」
  2. ^ 太平たいへいつき鈔』では、ときけん境川さかいがわ経由けいゆし、向川むかいがわえてしん不知ふち出撃しゅつげきしたことしるされている。
  3. ^ 太平たいへいまき13足利あしかが殿どの東国とうごく下向げこうごとづけぎょう滅亡めつぼうごと名越なごや太郎たろうけんが、北陸ほくりくどう打順だじゅんへて、さんまんにて京都きょうとせめじょうけるも、越前えちぜん加賀かがとのさかい大聖寺だいしょうじうんしょにて、敷地しきち上木じょうぼく山岸やまぎし瓜生うりゅう深町ふかまち者共ものどもが僅のいきおいまけて、ほね白刃はくじんしたくだき、おん黄泉よみそこほうぜり」

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 越前えちぜん新田にった義貞よしさだこううえ歴史れきし研究けんきゅう学習がくしゅう資料しりょう』(福井ふくい新田塚にったづか郷土きょうど歴史れきし研究けんきゅうかいちょ
  • 太平たいへい』(まきじゅうさん 足利あしかが殿どの東国とうごく下向げこうごとづけぎょう滅亡めつぼうごと
  • 久保くぼ尚史ひさし国吉くによしめいしょうろん位置いち執権しっけん北条ほうじょうやすし越中えっちゅう守護しゅご名越なごやとの関係かんけいについて-」『富山とやまだん』62・63合併がっぺいごう、1976ねん久保くぼ1976A)
  • 久保くぼ尚史ひさし越中えっちゅう守護しゅご名越なごしゆうとその所領しょりょうについて」『富山とやまだん』64ごう、1976ねん久保くぼ1976B)
  • 久保くぼ尚史ひさし鎌倉かまくら越中えっちゅう守護しゅご支配しはいについて」『富山とやまだん』80・81合併がっぺいごう、1983ねん

関連かんれん項目こうもく

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