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周文 - Wikipedia

しゅうぶん

室町むろまち時代じだい中期ちゅうき禅僧ぜんそうそう

しゅうぶん(しゅうぶん、なま没年ぼつねんしょう)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき禅僧ぜんそうそうしゅうぶんで、みちごうてんあきらごうこしけい俗姓ぞくせい藤倉ふじくら相国寺しょうこくじ如拙まなぶ。雪舟せっしゅうとうそうとして著名ちょめいであるが、仏像ぶつぞう制作せいさくにもたずさわっており、雲居くもいてら大仏だいぶつ阿弥陀あみださんみこと)・仁王におうぞう造立ぞうりゅう関与かんよしたことでもられる。

水色みずいろ巒光山水さんすい部分ぶぶん、1445ねん

略歴りゃくれき

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たけとき読書どくしょ山水さんすい部分ぶぶん

相国寺しょうこくじかん(つかん、つうす)のしょくにあり、相国寺しょうこくじ庶務しょむ会計かいけいとして財政ざいせい担当たんとうするとともに、画家がかとして俸禄をもら足利あしかが将軍家しょうぐんけ御用ごようつとめた。1423ねんおうひさし30ねん大蔵経だいぞうきょう招来しょうらいするための朝鮮ちょうせん派遣はけん使節しせつ参加さんかし、その山水さんすいえがいた。1430ねんえいとおる2ねん)には大和やまとこく片岡かたおか達磨寺だるまでら達磨だるま大師だいし座像ざぞう彩色さいしきほどこし、1440ねんえいとおる12ねん)には、雲居くもいてら(うんごじ)の仏像ぶつぞうぞうよう参考さんこうとするため奈良なら東大寺とうだいじおもむくなど、ひろ範囲はんい事績じせきられ、1454ねんとおるとく3ねんごろまで生存せいぞんしていたようである。しゅうぶんぼつ将軍家しょうぐんけ御用ごよう小栗おぐりそうじんがれた。ほかにもたけおうぞうおかてんゆう松渓まつたに雪舟せっしゅうとう楊といった優秀ゆうしゅう弟子でしそだて、室町むろまち時代じだい水墨すいぼく確立かくりつおおきく貢献こうけんした。

しゅう文様もんようしき

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しゅうぶん作品さくひんにはもともと款記がなく、印章いんしょうなどはのちされた可能かのうせいたかいため、しゅうぶん自身じしん実際じっさいえがいたという作品さくひん特定とくていできず、画風がふう実態じったいについては不明ふめいである。したがってつてしょう作品さくひんのうち、しゅうぶん活躍かつやくしたであろうおうひさしなか以後いごからひろしただし年間ねんかんまでのやく40年間ねんかん制作せいさくされたのがあきらかで、しかも当時とうじしゅうぶん名声めいせい相応ふさわしいような名作めいさくを「でんあまねぶん作品さくひんとしてあつかっている。そのため、もっと真筆しんぴつ可能かのうせいたかいとわれる代表だいひょうさく水色みずいろ巒光」と「たけとき読書どくしょ」をくらべても、筆致ひっち明白めいはく差異さい存在そんざいする。共通きょうつうする作品さくひん特徴とくちょうとして、縦長たてなが構図こうずもちいた高遠こうえん強調きょうちょううまとおなつならった対角線たいかくせん構図こうず多用たよう力強ちからづよい描線、ひとしげられる。のちしゅう文様もんようしきばれたこうした画風がふうは、実景じっけい写生しゃせいではなく、記憶きおくなか景観けいかんそうもとなど先行せんこう作品さくひんしょ要素ようそ抽出ちゅうしゅつさい構成こうせいした、からつくったものである。そのためリアリティーはいが、中国ちゅうごくもとにしながらどの中国ちゅうごくにもておらず、しゅう文様もんようしきという安定あんていしたスタイルの確立かくりつしゅうぶん独自どくじせいがある。

でんあまねぶん作品さくひん

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四季しき山水さんすい屏風びょうぶみぎせき東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう

国宝こくほう

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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これらはしゅうぶんよりのち弟子でし世代せだいさくかんがえられる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 国宝こくほう指定してい名称めいしょうは「山水さんすい」。
  2. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうは「山水さんすい」。
  3. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうは「とう道明みちあき聴松ちょうまつ」。
  4. ^ ほんひん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざいの「山水さんすい」とはべつほん

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう資料しりょう

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