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因果 - Wikipedia

因果いんが

原因げんいん結果けっか意味いみする用語ようご

因果いんが(いんが)は、原因げんいん結果けっか意味いみする用語ようご[2]仏教ぶっきょう用語ようごとしてもちいられる場合ばあいごう(カルマ)ろん関連かんれんせしめられて自己じこ境遇きょうぐうかんする因果いんが関係かんけいとしてかたられる[3]時代じだい関係かんけい考慮こうりょし、ヴェーダ、仏教ぶっきょうじゅん解説かいせつする。 因果いんがは てんじて原因げんいん結果けっかのことをすようになった。

ドミノだおし。仏教ぶっきょうでは「AによってBがしょうずる」と因果いんがせいく(縁起えんぎ[1]

ある事象じしょう惹起じゃっきさせる直接的ちょくせつてきなもとと、それによってもたらされた事象じしょう一般いっぱんには、事象じしょうAが事象じしょうBをひきこすとき、AをBの原因げんいんといい、BをAの結果けっかという。このとき、AとBのあいだには因果いんが関係かんけいがあるという。

また果報かほう(かほう)とは、過去かこ行為こうい原因げんいんとして、現在げんざい結果けっかとしてけるむくいのこと[4]いんたいするはてぎょうたいするほう由来ゆらいする[4]

ヴェーダやバラモン教ばらもんきょうにおける説明せつめい

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いん中有ちゅううはて(いんちゅううか)

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正統せいとうバラモン教ばらもんきょう一派いっぱ[よう説明せつめい]に、こののすべての事象じしょうは、原因げんいんなかにすでに結果けっか包含ほうがんされている、とするものがある。

仏教ぶっきょうにおける説明せつめい

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仏教ぶっきょうにおける因果いんが(いんが, hetu-phala)は、因縁いんねん, ともえ: hetu-pratyaya[5])と果報かほうVipāka)による熟語じゅくご仏教ぶっきょうでは、一切いっさい存在そんざい本来ほんらい善悪ぜんあくであるととらえ、ごうもとづく輪廻りんね世界せかいでは、苦楽くらく応報おうほうするとかれている。一切いっさいは、直接的ちょくせつてき要因よういんいん)と間接かんせつてき要因よういんえん)によりしょうじるとされ、「いんろん」「かみによる創造そうぞう」などは否定ひていされる[6]

また、「原因げんいんって結果けっかきる」という法則ほうそく縁起えんぎぶ。縁起えんぎ解釈かいしゃく流派りゅうはによってことなり、「縁起えんぎせつ」ともばれている。ぜんいんには善果ぜんか悪因あくいんにはあくはておとずれるというごう因果いんが法則ほうそくかれている。

世尊せそんつげ曰 ...
  假令たといけいひゃくこう ところ作業さぎょうほろび
  因縁いんねんかいぐう 果報かほうかえ

世尊せそんった。仮令たとい(たとい)ひゃくせんこうけいとも、所作しょさごうほろびぜず。因縁いんねんかいぐうときには、果報かほうかえってみずから受く。

仏教ぶっきょうにおいて因果いんがつぎのようにかれる。

  • ぜんいんらくはて(ぜんいんらっか)…ぜんらくをうむ(ぜんいん善果ぜんかともいう[8]
  • 悪因あくいんはて(あくいんくか)…あくをうむ(悪因悪果あくいんあっかともいう[8]

いんあるいは不善ふぜんあく)であり、はてらくであれであれくつがえとなることについて、よしからはてことなってじゅくすることをじゅくはてぶ。因果いんが否定ひていする見解けんかいを、釈迦しゃか邪見じゃけんだとだんじている[9]

単純たんじゅんに「ぜんいんらくはて悪因あくいんはて」について“いことをすればいことがこり、わるいことをすればわるいことがこる”と解説かいせつされる場合ばあいがあるが、いんはては、かぞえきれないほどの過去かこにおけるせい想定そうていする概念がいねんであるために、そのじょ複雑ふくざつであり、今生こんじょういん今生こんじょうはてとなるとはかぎらない。また、「いことをすればおもどおりのことがきる」という独自どくじおしえを団体だんたいもあるが、厳密げんみつには正確せいかく解釈かいしゃくではない。

過去かこ現在げんざい因果いんがけい

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挿絵さしえのついた『過去かこ現在げんざい因果いんがけい』(8世紀せいき日本にっぽん

過去かこ現在げんざい因果いんがけい』は、5世紀せいきもとめばつ陀羅(ぐなばつだら)によってかんやくされたぜん4かん仏伝ぶつでん経典きょうてんで、釈迦しゃか前世ぜんせい善行ぜんこうほんせいたんジャータカ)と現世げんせいでの事跡じせき仏伝ぶつでん)をしるし、過去かこえたぜんいんけっしてめっすることなくはてとなって現在げんざいおよぶことをいている。

ろくいんはてろん

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おもね達磨だるま倶舎ろんでは、以下いかろくいんはてろん提出ていしゅつされた。

  • ろくいん - のうさくいん, 倶有いん, 同類どうるいいん, 相応そうおういん, あまねぎょういん, じゅくいん
  • はて - ぞうじょうはて, ようはて, ひとしりゅうはて, じゅくはて, はなれ繫果

因果応報いんがおうほう

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Yādisaṃ vapate bījaṃ tādisaṃ harate phalaṃ, Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ pāpakārī ca pāpakaṃ,

ひと作物さくもつ自分じぶんいたたねによるものです。
そのようにぜん行為こういをしたひと善果ぜんかを、あく行為こういをしたひとあくはてるのです[10]

まだあくはてじゅくしないあいだは、悪人あくにんでも幸運こううんうことがある。
しかしあくはてじゅくしたときは、悪人あくにんわざわいにう。

ダンマパダ,120

一切いっさいが、みずからの原因げんいんによってしょうじた結果けっかむくいであるとするかんがかたを、因果応報いんがおうほうぶ。

おこないが幸福こうふくをもたらし、わるおこないが不幸ふこうをもたらす」といったかんがかた自体じたいは、仏教ぶっきょうかぎったものではなく、世界せかいひろられる。ただし、仏教ぶっきょうでは、過去かこせい来世らいせ未来みらいせい)できたこと、きることも視野しやれつつこのような表現ひょうげんもちいているところに特徴とくちょうがある。

もともとインドにおいては、沙門しゃもん[11]バラモン教ばらもんきょうなどさまざまなかんがかたにおいてひろく、ごう輪廻りんねというかんがかたをしていた。つまり、過去かこせいでの行為こういによって現世げんせい境遇きょうぐうまり、現世げんせいでの行為こういによって来世らいせ境遇きょうぐうまり、それが永遠えいえんかえされている、という世界せかいかん生命せいめいかんである。

仏教ぶっきょうにおいても、この「ぎょう輪廻りんね」というかんがかた継承けいしょうされており、ぎょうによって衆生しゅじょうは、「地獄じごく餓鬼がき畜生ちくしょう修羅しゅらひとてん」の六道ろくどう(あるいはそこから修羅しゅらのぞいたみち)をぐるぐると輪廻りんねしているとする。

仏教ぶっきょう目指めざほとけ境地きょうちさとりの世界せかいというのは、この因果応報いんがおうほう六道ろくどう輪廻りんね領域りょういきえたところにひらかれるものだとかんがえられた。

修行しゅぎょうによってさとることができないひと場合ばあいは、(現世げんせいさとりにいたらなくても)善行ぜんこうむことで天界てんかいまれる(=なまてん)のがよいとされた。

因果応報いんがおうほう受容じゅよう

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インドではもともとぎょう輪廻りんね思想しそうひろくゆきわたっていたので、仏教ぶっきょう因果応報いんがおうほうかんがかた最初さいしょからなん違和感いわかんなく受容じゅようされていたが、それが地域ちいきにおいてもすんなりと受容じゅようされたかとうと、かならずしもそうではない。

中国ちゅうごくではもともと『えきけい』などで、いえ単位たんいで、おこないが家族かぞくかえってくる、といった思想しそうはあった。だが、これは現世げんせいはなしであり、家族かぞく親族しんぞくあいだでそのような影響えいきょうがある、というかんがかたである。輪廻りんねというかんがかたをしていたわけではないので、個人こじん善悪ぜんあく現世げんせいえて来世らいせにも影響えいきょうするというかんがかたには違和感いわかんおぼえるひとたちが多数たすういた。中国ちゅうごく伝統でんとうてき思想しそう仏教ぶっきょう思想しそうとのあいだでせめぎあいがしょうじ、六朝りくちょうには仏教ぶっきょう因果応報いんがおうほう輪廻りんねをめぐる論争ろんそうかみめつ不滅ふめつ論争ろんそう)がきたという。

とはいうものの、因果応報いんがおうほうはやがて、六朝りくちょう時代じだいとうだい小説しょうせつのテーマとしてあつかわれるようになり、さらには中国ちゅうごく土着どちゃく宗教しゅうきょう道教どうきょうなかにもそのかんがかた導入どうにゅうされるようになり、人々ひとびとひろまっていった。

日本にっぽんでは、平安へいあん時代じだいに『日本にっぽん霊異れいい』で因果応報いんがおうほうかんがかた表現ひょうげんされるなどし、仏教ぶっきょう因果応報いんがおうほうというかんがかたつよむすびついたかたちで民衆みんしゅうひろがっていった。現在げんざい日本にっぽん日常にちじょうてきなことわざとしての用法ようほうでは、後半こうはん強調きょうちょうされ「悪行あくぎょうかなら神仏しんぶつさばかれる」という意味いみ使つかわれることがおおい。ただ、『日本にっぽん霊異れいい』においての因果応報いんがおうほうというかんがえも輪廻りんねとのかかわりよりも、げん在世ざいせいというただいちせいでの因果いんが強調きょうちょうしているという事実じじつ見逃みのがすことはできない。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ 丸山まるやま 2007, pp. 189–192.
  2. ^ 三枝さえぐさたかしとく日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)、小学しょうがくかん。『因果いんが』 - コトバンク
  3. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん平凡社へいぼんしゃ。『因果いんが』 - コトバンク
  4. ^ a b 岩波いわなみ 仏教ぶっきょう辞典じてん』(2はん岩波書店いわなみしょてん、2002ねん、「果報かほう」。ISBN 978-4000802055 
  5. ^ Hetu: 21 definitions - WISDOM LIBRARY
  6. ^ スマナサーラ 2012, No.ぜん1930ちゅう 807 / 42%.
  7. ^ SAT大正たいしょうしんおさむ大藏經だいぞうきょうテキストデータベース2018はん (SAT 2018), 東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかいけい研究けんきゅう, (2018), Vol.23, No.1442, https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php 
  8. ^ a b スマナサーラ 2014, No.91/359.
  9. ^ パーリ仏典ぶってん, 中部ちゅうぶだいよんじゅうけい, Sri Lanka Tripitaka Project
  10. ^ スマナサーラ 2014, 7%.
  11. ^ 概要がいよう遊行ゆぎょう僧院そういん建設けんせつとサンガの形成けいせい (もり 章司しょうじ) - 「中央ちゅうおう学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ紀要きよう」モノグラフへん No.14

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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