(Translated by https://www.hiragana.jp/)
業 - Wikipedia

ごう

行為こうい所作しょさ意志いしによる身心しんしん活動かつどう意志いしによる身心しんしん生活せいかつ意味いみするかたり

ごう(ごう)、業報ごうほう(ごうほう)、ごうりょく(ごうりき)、応報おうほう(おうほう)、[よう出典しゅってん]カルマ: कर्मन् karman[注釈ちゅうしゃく 1])に由来ゆらいし、行為こうい所作しょさ意志いしによるしん活動かつどう意志いしによる身心しんしん生活せいかつ意味いみするかたり[2]原義げんぎにおいてはたんなる行為こうい(action)という意味いみであり、「い」「わるい」といったいろはなく、くらいニュアンスもない[3]

インド哲学てつがく正統せいとう、および異端いたん一部いちぶ仏教ぶっきょうなど)のせつでは、ぜんまたはあくごうつくると、因果いんが道理どうりによってそれ相応そうおうらくまたはむくい(果報かほう)がしょうじるとされる[2][4]ぎょう果報かほうたいになるかたりだが、ごう果報かほうそのものをぎょうという場合ばあいもある[4]

ごう思想しそうインド発祥はっしょう宗教しゅうきょう(とりわけヒンドゥーきょう仏教ぶっきょうジャイナきょうシークきょう)と道教どうきょうにおいて、輪廻りんねつよむすびつく概念がいねんである[5] これらのおおくのせつでは、善意ぜんい善行ぜんこういカルマと幸福こうふく転生てんせいをもたらし、悪意あくい悪行あくぎょうわるいカルマとわる再生さいせいをもたらすとされる[6]ぜんいん善果ぜんか悪因悪果あくいんあっか[7]

インド哲学てつがく

編集へんしゅう

ごうインドにおいて、ふる時代じだいから重要じゅうようされた。ヴェーダ時代じだいからウパニシャッド時代じだいにかけて輪廻りんね思想しそうむすびついて展開てんかいし、紀元前きげんぜん10世紀せいきから4世紀せいきまでのあいだにしだいに固定こていしてきた。

ぜんをなすものは善生よしきをうけ、あくをなすものはあくせいをうくべし。きよしぎょうによってきよしたるべく。よごれたるくだりによって、よごれをうくべし
善人ぜんにん天国てんごくいたってみょうらくをうくれども、悪人あくにん奈落ならくいたってもろ苦患くげんをうく。死後しご霊魂れいこんばかりにかけられ、善悪ぜんあくごうをはかられ、それにおうじて賞罰しょうばつせられる

— 『ひゃくみち梵書』 (Śatapathā-brāhmana)

あたかもきむ細工ざいくじんひとつの黄金おうごんしょう部分ぶぶん資料しりょうとし、さらにあたらしくかつうつくしいほか形像けいぞうつくるように、この身体しんたい無明むみょうとをだっして、あたらしくうつくしいほか形像けいぞうつくる。それは、あるいは祖先そせんであり、あるいはいぬい闥婆(けんだつば)であり、あるいはしょかみであり、生生せいせいであり、梵天ぼんてんであり、もしくは有情うじょうである。……ひと言動げんどうするによって、いろいろの地位ちいをうる。そのように言動げんどうによって未来みらいせいをうる。まことにぜんぎょうひとぜんとなり、悪業あくごうひとあくとなり、ぶくぎょうによってぶくじんとなり、罪業ざいごうによって罪人ざいにんとなる。ゆえに、ひとはいう。ひとよくよりなる。よくにしたがって意志いし形成けいせいし、意志いしかうところにしたがってごう実現じつげんする。そのごうにしたがって、その相応そうおうする結果けっかがある

— 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』

インド哲学てつがく正統せいとうでは、ごう輪廻りんね転生てんせい思想しそうとセットとして展開てんかいする。この輪廻りんね密着みっちゃくするごう思想しそうは、因果いんがろんとして決定けっていろん宿命しゅくめいろんのような立場たちば理解りかいされる。インドにおいてぎょうは、プラブリッティという発展はってんするものと、ニヴリッティというとめめつ方向ほうこうかうものと2種類しゅるい区別くべつされており、涅槃ねはんさとといったかたちでの輪廻りんね終焉しゅうえんとめめつ方向ほうこう重視じゅうしされる[8]

異端いたん沙門しゃもんたち

編集へんしゅう

この正統せいとうせつ反発はんぱつする人々ひとびとは、異端いたんとして、決定的けっていてき厭世えんせい圧力あつりょくからのがれようとした。従来じゅうらいバラモン教ばらもんきょう所属しょぞくしない、様々さまざま自由じゆう思想家しそうかたちがあらわれていた。かれらは高度こうど瞑想めいそう技術ぎじゅつっており、瞑想めいそうによってられた体験たいけんから、様々さまざま思想しそう哲学てつがくし、ごう輪廻りんね宿命しゅくめい解脱げだつ認識にんしきろんなどの思想しそう体系たいけいされていった。このなかごう思想しそうふくまれていた。

それが沙門しゃもんとよばれ、釈迦しゃかどう時代じだい哲学てつがくしゃとしてられたろく外道げどう仏教ぶっきょうがわばれる人々ひとびとであった。

あるひとは、霊魂れいこん肉体にくたいとを相即そうそくするものとかんがえ、肉体にくたいほろびる事実じじつから、霊魂れいこんもまたほろびるとしていん無業むぎょう主張しゅちょうをなし(じゅん)、またひと霊魂れいこん肉体にくたいとをべつであるとし、しかも両者りょうしゃともに永遠えいえん不滅ふめつ実在じつざいかんがえ、そのような立場たちばから、つくるものも、つくられるものもないと、まったぎょうみとめないと主張しゅちょうした(アージーヴィカきょう)。

なおバラモン教ばらもんきょうにおける輪廻りんね思想しそう発生はっせいを、従来じゅうらいかんがえられているよりも時代じだいであるとする見解けんかいもある。たとえば上座かみざ仏教ぶっきょうでは、釈迦しゃか在世ざいせい存在そんざいしたバラモン経典きょうてんを、みっつのヴェーダまでしかみとめておらず[注釈ちゅうしゃく 2]釈迦しゃか以前いぜんバラモン教ばらもんきょう輪廻りんね思想しそう存在そんざいしなかったとする。もちろん、当時とうじ自由じゆう思想家しそうかたちが輪廻りんね思想しそういていたことは明白めいはくであるが、かれらはバラモン教徒きょうとではなかったことに注意ちゅういすべきである。

仏教ぶっきょう

編集へんしゅう
仏教ぶっきょう用語ようご
ごう , カルマ
パーリ kamma
サンスクリット karma
(Dev: कर्मन्)
チベット ལས།
(Wylie: las;
THL: lé;
)
日本語にほんご ごう or ごう
英語えいご karma
テンプレートを表示ひょうじ

仏教ぶっきょうはすべての結果けっかについて「偶然ぐうぜんによる事物じぶつ発生はっせい」「(原因げんいんなく)事物じぶつ突然とつぜんしょうじること」「かみによる創造そうぞう」などを否定ひていし、その原因げんいん[9][10]ぎょう果報かほうむくい、はてじゅく)をしょうじるいんとなるので、ごうのことをごういん因業いんごうともいう[2][注釈ちゅうしゃく 3]釈迦しゃかごうもとづいた理論りろんにて、バラモン教ばらもんきょうまれによるカーストせい否定ひていした[11]

Na jaccā brāhmaṇo hoti na jaccā hoti abrāhmaṇo Kammanā brāhmaṇo hoti kammanā hoti abrāhmaṇo.

ひとまれによってバラモンとなるのではなく、まれによってバラモンとなるのではない。
ぎょうによってバラモンとなるのであり、ぎょうによってバラモンとなるのである[12]

ごうによるむくいをごうはて(Karmaphala)や業報ごうほうという[2]ぎょうによってむくいをけることをごうかんといい、ごうによるであるむくいを業苦ごうくという[2][注釈ちゅうしゃく 4]過去かこつくったごう宿業しゅくごうまたはまえぎょうといい、宿業しゅくごうによるわざわいをごうやくという[2]宿業しゅくごうによるぬげれることのできないおも病気びょうき業病ごうびょうという[2]自分じぶんつくったごうむくいは自分じぶんけなければならないことを自業自得じごうじとくという[2]

Kammasakkā māṇava, sattā kammadāyādā kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇā. Kammaṃ satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti.

青年せいねん(スバ)よ、衆生しゅじょうは、ごう自分じぶんのものとし、ごう相続そうぞくし、ごうを胎とし、ごう親族しんぞくとし、ごうをよりどころとする。ぎょう衆生しゅじょう分類ぶんるいし、優劣ゆうれつをつける[13]

  • 自分じぶんのもの(sakkā)- によってうしなわれるものではなく、来世らいせについてくる所有しょゆうぶつ[13]
  • 相続そうぞくする(dāyādā)- くち三業さんぎょうからがれる[13]
  • まれる(yoni)- 生命せいめいすのは、みずかおこなった行為こういからで、すべてぎょうよりまれる[13]
  • はなせない(bandhu)- 生命せいめいごうとのつながりをることはできない[13]
  • よりどころとする(paṭisaraṇā)- 生命せいめいのよりどころである[13]
  • 優劣ゆうれつをつける(satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti) - 生命せいめい優劣ゆうれつをつける要素ようそひとつである[13]

分類ぶんるい

編集へんしゅう

仏教ぶっきょうにおけるごうは、様々さまざま分類ぶんるいされる。ここではおも仏教ぶっきょうないし上座かみざ仏教ぶっきょうしょ経典きょうてんもとづいてしるす。ちゅうかん密教みっきょうひとし大乗だいじょうしょ宗派しゅうはでは教義きょうぎにおける比重ひじゅう意味合いみあいがことなる可能かのうせい注意ちゅういすること。[よう出典しゅってん]

三業さんぎょう

編集へんしゅう

Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi, cetayitvā kammaṃ karoti kāyena vācāya manasā,

比丘びくたちよ、意思いし(cetanā)がぎょう(kamma)である、とわたしく。
おもって(cetanā)から、身体しんたい(kāya)・言語げんご(vāk)・(manas)によってごうをなす[14]

ごう一般いっぱんに、(しん)・くち(く、もしくはかたり)・(い)の三業さんぎょう(さんごう)にけられる[2]においてもじゅう悪業あくごうとして、三業さんぎょう分類ぶんるいしてかれる。

  • ぎょう(しんごう, : kāya-karman[15]、カーヤ・カルマン) - 身体しんたいかかわる行為こうい[16]身体しんたいてき行為こうい[15]
    • せつ一切いっさいゆうにおいては、ぎょうとは、その行為こうい動作どうさをする瞬間しゅんかん瞬間しゅんかん身体しんたいしめ形状けいじょうであるとする[17]。たとえば、ひとつという行為こういは、映画えいがのフィルムの1こま1こまの画面がめん変化へんかのように、こぶしをげてそれを相手あいて頭上ずじょうろすという過程かてい瞬間しゅんかん瞬間しゅんかんに、身体しんたい形状けいじょうすこしずつ変化へんかしていくことによって完遂かんすいされる[17]。そのかく瞬間しゅんかん身体しんたい形状けいじょう、すなわちいろほう眼識がんしき対象たいしょう)こそがぎょうであるとする[17]
    • じゅう悪業あくごうにおいては、三業さんぎょう殺生せっしょう(せっしょう)・偸盗ちゅうとう(ちゅうとう;ぬすみ)・邪淫じゃいん(じゃいん;不倫ふりんみちはずれた性行為せいこうい[18])となる[19]
  • くちぎょう(くごう, : vāk-karman[15]、ヴァーク・カルマン) - 言語げんごかかわる行為こうい[16]言語げんご表現ひょうげん[15]かたりぎょう(ごごう, : vāk-karman[20]、ヴァーク・カルマン)ともいう[21]
    • せつ一切いっさいゆうにおいては、一瞬いっしゅん一瞬いっしゅん発音はつおんされる声音こわねかさなりが言語げんごをなすのだから、こえほうみみ識の対象たいしょう)こそがくちぎょうであるとする[17]
    • じゅう悪業あくごうにおいては、くちよんぎょう妄語もうご(もうご; うそをつく)・両舌りょうぜつ(りょうぜつ; 二枚舌にまいじた使つかう)・悪口わるぐち(あっく; 悪口わるぐちう)・綺語きご(きご; 無益むえきなおしゃべり)となる[19]
  • ぎょう(いごう, : manas-karman[15]、マナス・カルマン) - 意志いしかかわる行為こうい[16]心意しんい作用さよう[15]

おもえぎょうおもえやめぎょう

編集へんしゅう

Manopubbaṅgamā dhammā manoseṭṭhā manomayā
Manasā ce paduṭṭhena bhāsati vā karoti vā Tato naṃ dukkhamanveti cakkaṃ'va vahato padaṃ.

ものごと(諸法しょほう)は、(manas)が先行せんこうし、最大さいだい原因げんいんであり、をもとにつくりだされる(=ぎょう)。
もしも、けがれたによって、はなしたり(=かたりぎょう)、行動こうどうするならば(=ぎょう)、くるしみがついてくる。 はこうし足跡あしあと車輪しゃりんしたがうように。

ごうは、意志いし活動かつどうであるおもえぎょう(しごう, cetana kamma)と、おもえぎょうわってからなされるおもえやめぎょう(しいごう, cetayitva kamma)との2つにけられる[22][2]

せつ一切いっさいゆうおもね達磨だるまだい毘婆すなろんでは、だいいち段階だんかいぎょうおもえぎょう)とし、だい段階だんかいぎょうくちぎょうのみ(おもえやめぎょう)とした[23][22]

一方いっぽうおもね含経では、行為こういおこなわれる場合ばあいは、だいいち段階だんかいおもえ(cetanā; 意志いし発動はつどう)のしん作用さようだい段階だんかい実際じっさい行為こういぎょうくちぎょうぎょう)があるとしている[17]。ここでは、(だい段階だんかいぎょうだけでなく)、だいいち段階だんかいおもえをもごうのなかにふくめて理解りかいしている[17]。そればかりでなく、だいいち段階だんかいこそがごう本質ほんしつてきなものだとして重要じゅうようしている[24]

なお、けいりょう大乗だいじょう仏教ぶっきょうは、三業さんぎょうすべての本体ほんたいおもえ意志いし)であるとする[2][22]

ひょうぎょうひょうぎょう

編集へんしゅう

せつ一切いっさいゆうは、ぎょうかたりぎょうにはひょう(ひょう)とひょう(むひょう; : avijñapti[25]、アヴィジュニャプティ)とがあるとし、これらはひょうぎょう(ひょうごう; : vijñapti-karman[26]、ヴィジュニャプティ・カルマン)とひょうぎょう(むひょうごう; : avijñapti-karman[25]、アヴィジュニャプティ・カルマン)ともいわれる[2]ひょうぎょうは、「らしめる行為こうい[27]そと表現ひょうげんされて他人たにんしめすことができるもの[2]行為こういしゃ外面がいめんあらわれから認知にんちされるような行為こうい[27]意味いみする。ひょうぎょうは、他人たにんしめすことのできないもの[2]善悪ぜんあくごうによってはつとくされるあくぜん防止ぼうしするこうのう習性しゅうせい[28]行為こういしゃ内面ないめんひそほかから認知にんちされないような行為こうい[27]意味いみする。また、ひょうぎょうひょうしょく(むひょうしき、: avijñapti-rūpa[29]ともいう。

おもね達磨だるま倶舎ろんにおいて、ごうこしたときしんぜんしんならそれとことなる不善ふぜんあるいはしん乱心らんしんといい、ごうこしたときしん不善ふぜんしんならそれとことなるぜんあるいはしん乱心らんしんという[30]。また、想定そうてい滅尽めつじんじょうはいってしん生起せいきまったくなくなった状態じょうたい無心むしんという[30]。このうえひょうしょくは、 おもね達磨だるま倶舎ろん分別ふんべつかいひんだいいちにおいては、これらの「乱心らんしん無心むしんとう(この2つに不乱ふらんこころおよび有心うしんふくめた4つをよんしんという[31]著者ちょしゃおやはこれによってすべてのしん状態じょうたいしめたとかんがえている[32]。)のものにもしたがえりゅう(ほう連続れんぞく生起せいきしてえないながれをなすこと[30]。なお、ずいりゅう相続そうぞく(: pravāha)ともいう[33]。)であって、きよし不浄ふじょうにして、だいたね(四大しだいしゅ)によってあるもの」と定義ていぎされている[34]分別ふんべつかいひんだいいち定義ていぎよんふんずいりゅうともいう[28]。なお、ひょうしょく四大しだいしゅところみやつこであるが極微きょくびところなりではない[35]。また、ほうしょ法界ほうかいぞくしながらいろほうであり[35]五根ごこん対象たいしょうとはならず、ただ対象たいしょうである[35]

ひょうぎょうとは、せつ一切いっさいゆう伝統でんとうてき解釈かいしゃくによれば「わるもしくはぜん行為こういさまたげる習性しゅうせい」で、具体ぐたいてきには律儀りちぎ律儀りちぎ律儀りちぎ律儀りちぎ三種さんしゅであり(これはおもね達磨だるま倶舎ろん分別ふんべつぎょうひんだいよん所説しょせつであり、この所説しょせつひょうぎょう全体ぜんたい解明かいめいしているというかんがかたがある[28] 。)、いわゆる「戒体」とおなじものである[28]。 また、ひょうしょくひょうかたりひょうしゅけられ、殺生せっしょう偸盗ちゅうとう邪淫じゃいんみっつのぎょう妄語もうご綺語きご離間りかん悪口わるぐちよっつのかたりぎょうわせたななささえかかわるものである[31]明治めいじ大正たいしょうより、近代きんだい仏教ぶっきょう学者がくしゃによってけい種子しゅしせつとの混同こんどう[36]大乗だいじょう仏教ぶっきょう立場たちばからゆうひょうぎょう誤謬ごびゅうとして規定きていしたり[37]、「仏教ぶっきょう元来がんらいひょう」を想定そうていすることによって、ひょうしょくを「ぎょう結果けっかしょうぜしめるもの」とする理解りかい流行りゅうこうしたが、文献ぶんけんがくてき論証ろんしょうされたものではなく、根拠こんきょとぼしい[37]

ひょうひょうかたりひょうかたりひょうよっつにぎょうくわえてぎょうという[2]

引業とまんぎょう

編集へんしゅう

総体そうたいとしての一生いっしょう果報かほうごうを引業(牽引けんいんぎょうそうほうぎょう、引因とも)という[2]。これは人間にんげんかいとか畜生ちくしょうかいなどにまれさせるつよちからのあるごうのことを[2]他方たほう人間にんげんかいなどにまれたものにたいして個々ここ区別くべつあたえて個体こたい完成かんせいさせるぎょうまんぎょうという[2]。引業とまんぎょうの2つを総別そうべつ二業にぎょうという[2]

ともぎょうともぎょう

編集へんしゅう

山河さんが大地だいちうつわ世間せけん)のような、おおくの生物せいぶつ共通きょうつうする果報かほうをひきおこすごうともぎょう(ぐうごう)といい、個々ここ生物せいぶつ固有こゆう果報かほうをひきおこすごうともぎょう(ふぐうごう)という[2]ちょ大乗だいじょうおもね達磨だるましゅうろん」においては、ともぎょうによる影響えいきょうは、これを結果けっかたいするぞうじょうえん (adhipati-pratyaya) とかんがえ、直接的ちょくせつてき結果けっか、すなわちじゅく (vipāka) とはかんがえない[38]

さんせいぎょう

編集へんしゅう

善心ぜんしんによってこるぜんぎょう安穏あんのんぎょう)と、悪心あくしんによってこる不善ふぜんぎょう悪業あくごう不安ふあん穏業とも)と、善悪ぜんあくのいずれでもないしんによってこるぎょうの3つがあり、この3つをさんせいぎょうという[2]

さんぎょう

編集へんしゅう

ぎょうによって果報かほうける時期じきことなりがあるので、ごう下記かきの3つにける[2]。この3つをさんぎょうという[2]さんぎょう各々おのおのは、このつくったごうむくいをける時期じきがそれぞれことなる[2]

  • じゅん現業げんぎょうじゅんげんほう受業じゅぎょう、じゅんげんぽうじゅごう[よう出典しゅってん]、dṛṣṭadharma-vedanīya-karman[39]) - このつくったごうむくいを、このける[2]
  • じゅん生業せいぎょう順次じゅんじなま受業じゅぎょう、じゅんじしょうじゅごう[よう出典しゅってん]、upapadya-vedanīya-karman[40]) - このつくったごうむくいを、つぎまれかわったける[2]
  • じゅんぎょうじゅんつぎ受業じゅぎょう、じゅんごじじゅごう[よう出典しゅってん]、aparaparyāya-vedanīya-karman[41]) - このつくったごうむくいを、つぎ来世らいせよりさきける[2]

さんぎょうむくいをける時期じきさだまっているのでじょうぎょうといい、むくいをける時期じきさだまらないものを不定ふていぎょうじゅん不定ふていぎょう: aniyata-karman[42])という[2]さんぎょう不定ふていぎょうくわえてよんぎょうという[2]

ごういんごうはてとの関係かんけい

編集へんしゅう

善悪ぜんあくごうつくると、それによってらくむくい(果報かほうはてじゅく)がしょうじることを、ごういんによってごうはて(Karmaphala)がしょうじるという[2][注釈ちゅうしゃく 5]。このごういんごうはてとの関係かんけいについて諸説しょせつがある[2]

せつ一切いっさいゆうは、ごうそのものはさんせい実在じつざいするとし、ごう現在げんざいあるときにはそれがいんとなっていかなる未来みらいはてくかが決定けっていし、ごう過去かこちていってからはてちからあたえてはて現在げんざいすとする[2]

けいりょうは、ごう瞬間しゅんかんほろるとするが、そのごうはてしょうじる種子しゅし(しゅうじ)をうえにうえつけ、その種子しゅしはてをひきおこすことになるとする[2]

ごうどう

編集へんしゅう

ごうがそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、有情うじょう苦楽くらく果報かほうみちび通路つうろとなるものをごうどうという[2][注釈ちゅうしゃく 6]ぎょうどうには十善じゅうぜんぎょうどうじゅう悪業あくごうどうの2つがある[2]

ごう識、ごうさわ

編集へんしゅう

ごう識(ごっしき)とは、ごうえんとしてしょうじた、または無明むみょうのためにうごかされた識のこと[43]ぎょうさわ(ごっしょう)とは、ごうざわりのことをし、ごう識障(ごっしきしょう)ともいう。ぜんぎょうおよび悪業あくごうふく前世ぜんせいからの宿業しゅくごうにより様々さまざままれつくこと[44]。また、ごう識性(ごっしきしょう)は、しい・しい・にくい・可愛かわいいという煩悩ぼんのう妄想もうそう[45]

仏典ぶってん宗派しゅうはごとのあつか

編集へんしゅう

パーリ経典きょうてん

編集へんしゅう

だいよんじゅうけいにおいては釈迦しゃかはち正道せいどうき、じゅうことせいとして、果報かほう否定ひていを「邪見じゃけん」とだんじている。おもね達磨だるまはつさとしろんにおいてもあくのひとつとしてはいしている。

おもね達磨だるま

編集へんしゅう

総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん(1988)』によれば、おもね達磨だるまでは[どこ?]十二支じゅうにし縁起えんぎだいじゅうささえの「ゆう」はごう意味いみするものと解釈かいしゃくされている[2]。これをごうゆうという[2]

浄土じょうどきょう

編集へんしゅう

一般いっぱんに、念仏ねんぶつして阿弥陀あみだほとけ浄土じょうど往生おうじょうしようとねがうことをきよしぎょうという[2]

密教みっきょう

編集へんしゅう

ジャイナきょう

編集へんしゅう

西洋せいよう

編集へんしゅう

西洋せいようでは、ドイツの思想家しそうかゴットホルト・エフライム・レッシング(1729ねん - 1781ねん)の時代じだいから、せいかえしによるまなびをとおした個人こじん段階だんかいてき完成かんせいとして、東洋とうようよりはるかに楽観らっかんてき転生てんせい思想しそうとなえられてきた[46]

心霊しんれい主義しゅぎ

編集へんしゅう

フランスじんアラン・カルデック19世紀せいき創始そうしした心霊しんれい主義しゅぎキリスト教きりすときょうスピリティズム(カルデシズム)では、転生てんせいしんじられており、かみからあたえられた自由じゆう意思いしによって、転生てんせいするあいだあやまちをこしてカルマを形成けいせいし、この負債ふさいであるカルマによって、そのひとわざわいがこるとかんがえられた[47][48]人間にんげんくるしみの原因げんいんみずからが過去かこせい蓄積ちくせきした負債ふさいであり、地上ちじょうせいはこの負債ふさい返済へんさいのためにある[47]。また人生じんせいくるしみはかみ恩寵おんちょうでもあり、くるしみをつうじて負債ふさい軽減けいげんされることはかみ期待きたい沿うことであり、くるしみをえることはおおきな栄光えいこうであるとかんがえられている[47]。スピリティズムにおいて、自由じゆう意思いし負債ふさい原因げんいんであると同時どうじすくいを可能かのうにするものであり、個人こじん救済きゅうさいされるかかはすべ個人こじん自由じゆう意思いし次第しだいであり、すくいは慈善じぜん活動かつどう他者たしゃ救済きゅうさいのみによって可能かのうとなる[47]

エドガー・ケイシー(後述こうじゅつ)とどう時代じだいには、心霊しんれい主義しゅぎ霊媒れいばいモーリス・バーバネルがおり、かれ憑依ひょういしたれいであるという「シルバー・バーチ」という人格じんかくによると、転生てんせいとはつぐないやばち問題もんだいではなく、進化しんかのためにあり、「ぎょうという借金しゃっきん」は「教訓きょうくんまなぶための大切たいせつ手段しゅだん」であるとされ、懲罰ちょうばつてき意味合いみあいは中心ちゅうしんからはずされているか、完全かんぜんになくなっている[49]

かみ智学ちがく

編集へんしゅう

19世紀せいき近代きんだいかみ智学ちがく創始そうししたロシアじんオカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーは、転生てんせいせつき、その中核ちゅうかくをカルマろんであるとし、それを「ぜん存在そんざいつらぬ不可侵ふかしん法則ほうそく」であるとした[8]身体しんたいてき進化しんかのベースに霊的れいてき進化しんかがあると主張しゅちょうし、人間にんげん転生てんせいかえしをとおして神性しんせいかがやきにかって進化しんかするもので、連続れんぞくするなまはカルマの法則ほうそくによって統括とうかつされているとかんがえた[50]古代こだいギリシアやカルデックといったヨーロッパの転生てんせいせつは、カルマろんけているため、十分じゅうぶんな「科学かがくてき真理しんり」になりえなかったとみなしている[8]

ブラヴァツキーはインドの伝統でんとう思想しそう傾倒けいとうしたが、彼女かのじょ神智しんちがくのカルマろんは、その思想しそうがインドの思想しそうことなることをよくしめしている[8]彼女かのじょうカルマの法則ほうそくは、ぜんぎょう善果ぜんかことをすれば結果けっかとなる)、悪業あくごうあくはてわるいことをすればわる結果けっかとなる)の因果応報いんがおうほうで、これにより不正ふせいただされ、社会しゃかい進歩しんぽし、人間にんげんかみへと進化しんかするという[8]神智しんちがくのカルマの法則ほうそくは、この「かみへの進化しんか」という目的もくてきろん不可分ふかぶんであるとされ、とめめつ方向ほうこう重視じゅうしされるインドのカルマろんとは別物べつものである[8]。インドにはそもそも進化しんかという発想はっそうはなく、インドのごう(カルマ)の理論りろんでは、神智しんちがくうような進化しんか発展はってんとはぎゃくに、とめめつ方向ほうこう根元ねもとへといた[8]。インドの輪廻りんねぎょう理論りろんでは、人間にんげんまれわってむしになることもあるが、神智しんちがくではこうしたかんがえは否定ひていされており、インド・イランがく研究けんきゅうしゃ岡田おかだ明憲あきのりは、近代きんだいヨーロッパ文化ぶんか特徴とくちょうづけたダーウィンの進化しんかろん影響えいきょうと、さらにキリスト教きりすときょうてき終末しゅうまつかんもとづく目的もくてきろんてき歴史れきし意識いしきられると指摘してきしている[8]神智しんちがくはヨーロッパの限界げんかいえようとし、キリストきょう批判ひはんしたが、その思想しそうはヨーロッパてき意識いしきだっていない[8]

ニューエイジ

編集へんしゅう

近代きんだいかみ智学ちがくから直接ちょくせつまれわりの思想しそういだニューエイジでは、転生てんせいやカルマがしんじられている[51][52]じょう寛文ひろふみによると、ニューエイジを一般いっぱんひろめた女優じょゆうシャーリー・マクレーンなどの「スピリチュアルな」重要じゅうよう人物じんぶつたちは、心霊しんれい診断しんだんエドガー・ケイシー最大さいだい権威けんいとして参照さんしょうしており、ケイシーは現代げんだいアメリカの転生てんせい思想しそうもっとおおきな影響えいきょうがある[53]催眠さいみん状態じょうたいのケイシーがかたる「リーディング」でつたえた原則げんそくてき教訓きょうくんは、「いたものはらねばならない」という新約しんやく聖書せいしょ言葉ことば標語ひょうごにするもので、死後しご存在そんざいつづくと意識いしきすることによってしょうじる内面ないめん正義せいぎ目的もくてきとする倫理りんりである[53]。リーディングでは、カルマという用語ようご説明せつめいされた[53]。ヒンドゥーきょうから用語ようごりつつも、キリストきょう内部ないぶ元々もともとあったおしえであることがあんしめされている[53]。ケイシーのおしえには、カルマを活用かつようすることでまれわりの機会きかい改善かいぜんするという志向しこうがある[53]。リーディングには、てられた問題もんだい今生こんじょう解決かいけつし、もう地球ちきゅう転生てんせいしないかもしれないというごく少数しょうすう事例じれいもあり、かれらは死後しごより高次こうじ惑星わくせい移行いこうするとされている[53]。ケイシーはアトランティス大陸たいりく滅亡めつぼう歴史れきしてき事実じじつとしてかたり、そのときのカルマにより現代げんだい社会しゃかい滅亡めつぼうちかいという終末しゅうまつろんとなえた[54]

ニューエイジの「カルマの法則ほうそく」は、原因げんいん結果けっかかんする宇宙うちゅう法則ほうそくたがいにむすびつき道徳どうとくてき均衡きんこうへとかう宇宙うちゅう傾向けいこう一部いちぶであり、しばしば道徳どうとくてき意味いみ宇宙うちゅう進化しんかおなじとかんがえられた[51][52]あくくるしみは幻影げんえいであるとされ、カルマはあくくるしみとは無関係むかんけい概念がいねんになっている[51]いま人生じんせい課題かだい前世ぜんせいのカルマによってめられているというかんがかたは、きる指針ししん見失みうしな喪失そうしつかんくるしむ現代げんだいアメリカじんたちから、ひろ支持しじ[55]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 原語げんごの karman は、サンスクリット動詞どうし語根ごこん「クリ」(√kṛ)、す) より派生はせいした[1]羯磨(かつま)とおとうつしする[2]
  2. ^ 原始げんし仏典ぶってんであるおもね経典きょうてん(カーヤ)において、ウパニシャッドは言及げんきゅうすらされておらず、まったく存在そんざいしていなかったとかんがえるからである[よう出典しゅってん]登場とうじょうするヴェーダもみっつまでである[よう出典しゅってん]
  3. ^ ただし、ごういんには、煩悩ぼんのうなどの「ぎょうこさせる原因げんいん」という意味いみもあり、因業いんごうには「いんごう」すなわち「あるじいんすけえん」という意味いみもある[2]
  4. ^ ごうとそのであるむくいのことを業苦ごうくという場合ばあいもある[2]
  5. ^ ぜんあくぎょうごうはてちからがない[2]
  6. ^ けいりょう大乗だいじょう仏教ぶっきょうでは、かたりどうはつ(どうほつ)するおもえ意志いし)の種子しゅし(しゅうじ)のことをしてごうどうという場合ばあいもある[2]

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 宮元みやもと啓一けいいち「インドにおける唯名論ゆいめいろん基本きほん構造こうぞう」『RINDAS ワーキングペーパー伝統でんとう思想しそうシリーズ19』、龍谷大りゅうこくだいがく現代げんだいインド研究けんきゅうセンター、2014ねん、6-8ぺーじ }
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq 総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん 1988, p. 363-365.
  3. ^ スマナサーラ 2014, 11%.
  4. ^ a b 広辞苑こうじえん 1986, p. 789.
  5. ^ Parvesh Singla. The Manual of Life – Karma. Parvesh singla. pp. 5–7. GGKEY:0XFSARN29ZZ. https://books.google.com/books?id=1mXR35jX-TsC&pg=PP5 4 June 2011閲覧えつらん 
  6. ^ Halbfass, Wilhelm (2000), Karma und Wiedergeburt im indischen Denken, Diederichs, München, Germany
  7. ^ スマナサーラ 2014, No.91/359.
  8. ^ a b c d e f g h i 岡田おかだ 2002, pp. 120–121.
  9. ^ スマナサーラ 2014, 16%.
  10. ^ スマナサーラ 2012, No.893/1930.
  11. ^ 志賀しがきよしくに「インド仏教ぶっきょう復興ふっこう運動うんどう軌跡きせきとその現況げんきょう」『京都産業大学きょうとさんぎょうだいがく世界せかい問題もんだい研究所けんきゅうじょ紀要きようだい25かん、2010ねん、23-46ぺーじNAID 110007523445 
  12. ^ 長友ながともやすしじゅん原始げんし仏典ぶってん人間にんげんかん : チャラカ・サンヒターの人間にんげんかんとの比較ひかく研究けんきゅう」『南九州大学みなみきゅうしゅうだいがく研究けんきゅう報告ほうこく. 人文じんぶん社会しゃかい科学かがくへんだい44かん、2014ねん、21-28ぺーじNAID 40020099536 
  13. ^ a b c d e f g チャンディマ・ガンゴダウィラ『あたらしいかたひらななつの実践じっせん小業こわざ分別ふんべつけい』』Sukhi Hotu、2020ねん、22%。ASIN B0852RN3Q3 
  14. ^ 馬場ばば 2018, pp. 121–122.
  15. ^ a b c d e f 岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん 1989, p. 314.
  16. ^ a b c 岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん 1989, p. 246.
  17. ^ a b c d e f さくら上山かみのやま 2006, p. 117~118.
  18. ^ 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん小学しょうがくかん邪淫じゃいんよこしまいん』 - コトバンク
  19. ^ a b c 松久保まつくぼ 2001, p. 77.
  20. ^ さくら上山かみのやま 2006, p. 索引さくいんぺーじ仏教ぶっきょう基本きほん語彙ごい(3)」.
  21. ^ さくら上山かみのやま 2006, p. 117.
  22. ^ a b c 池田いけだねり太郎たろうおもえぎょうおもえやめぎょう」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい30かんだい1ごう、1981ねん、298-302ぺーじdoi:10.4259/ibk.30.298 
  23. ^ さくら上山かみのやま 2006, p. 120.
  24. ^ さくら上山かみのやま 2006, p. 117-18.
  25. ^ a b 岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん 1989, p. 788.
  26. ^ さくら上山かみのやま 2006, p. 索引さくいんぺーじ仏教ぶっきょう基本きほん語彙ごい(7)」.
  27. ^ a b c さくら上山かみのやま 2006, p. 121.
  28. ^ a b c d 青原あおばら 2017, p. 847.
  29. ^ さくら上山かみのやま 2006, p. 索引さくいんぺーじ仏教ぶっきょう基本きほん語彙ごい(9)」.
  30. ^ a b c さくら 1989, p. 63.
  31. ^ a b 青原あおばら 2017, p. 846.
  32. ^ 加藤かとう 1967, p. 120.
  33. ^ 工藤くどう 1981, p. 130.
  34. ^ 阿部あべ 1995, p. 35.
  35. ^ a b c さくら 1989, p. 66.
  36. ^ 青原あおばら 2017, p. 844-846.
  37. ^ a b 青原あおばら 2017, p. 844-843.
  38. ^ 干潟ひかたりゅうさちぎょう(ごう)の社会しゃかいせい-ともぎょう(ぐうごう)-について (昭和しょうわじゅうねんがつじゅうにち提出ていしゅつ)]」『日本學士院にほんがくしいん紀要きようだい33かんだい1ごう、1975ねん、1-7ぺーじdoi:10.2183/tja1948.33.1 
  39. ^ じゅんげんほう受業じゅぎょう」 - ふつこうだい辭典じてん (慈怡法師ほうしぬしへん)
  40. ^ 順次じゅんじなま受業じゅぎょう」 - ふつこうだい辭典じてん (慈怡法師ほうしぬしへん)
  41. ^ じゅんつぎ受業じゅぎょう」 - ふつこうだい辭典じてん (慈怡法師ほうしぬしへん)
  42. ^ 清水しみず 2011, p. 17.
  43. ^ 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんごう』 - コトバンク
  44. ^ 山本やまもと 1960, p. 16.
  45. ^ 秋月しゅうげつ 2002, p. 33.
  46. ^ 教皇きょうこうちょう 2007, pp. 36–37.
  47. ^ a b c d 山田やまだ政信まさのぶしん宗教しゅうきょうのブラジル伝道でんどう(14)キリストきょう変容へんよう天理大学てんりだいがく
  48. ^ 山田やまだ政信まさのぶ改宗かいしゅう正当せいとうするかたりの論理ろんり」 ラテンアメリカ研究けんきゅう年報ねんぽうNo.19(1999ねん)
  49. ^ じょう 2005, p. 76.
  50. ^ Tingay, 宮坂みやさかきよしやく 2009, pp. 428–434.
  51. ^ a b c 教皇きょうこうちょう 2007, p. 119.
  52. ^ a b York, 井上いのうえ監訳かんやく 2009, pp. 428–434.
  53. ^ a b c d e f じょう 2005, pp. 71–73.
  54. ^ 大田おおた 2013. 位置いちNo.1173/2698
  55. ^ 大田おおた 2013. 位置いちNo.1165/2698

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 新村しんむらいずるへん)『広辞苑こうじえん』(だいさんはん岩波書店いわなみしょてん、1986ねん10がつ 
  • 総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへん)『総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん法蔵館ほうぞうかん、1988ねん1がつ 
  • 中村なかむらもと岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん』(だい2はん岩波書店いわなみしょてん、1989ねんISBN 4-00-080072-8 
  • さくらけん上山うえやま春平しゅんぺい存在そんざい分析ぶんせきアビダルマ>―仏教ぶっきょう思想しそう〈2〉』角川書店かどかわしょてん角川かどかわソフィア文庫ぶんこ〉、2006ねんISBN 4-04-198502-1 初出しょしゅつ:『仏教ぶっきょう思想しそうだい2かん 角川書店かどかわしょてん、1969ねん
  • 青原あおばられい「いわゆる「ひょうぎょう誤解ごかい」について」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい65かんだい2ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、2017ねん、848-841ぺーじdoi:10.4259/ibk.65.2_848 
  • 清水しみず俊史しゅんじ不定ふていぎょうすんでゆうぎょうゆう上座かみざごう理論りろん」『佛教大学ぶっきょうだいがく大学院だいがくいん紀要きよう 文学ぶんがく研究けんきゅうへんだい39ごう佛教大学ぶっきょうだいがく大学院だいがくいん、2011ねん、17-34ぺーじ 
  • 工藤くどうみちゆかりおやひょうぎょう解釈かいしゃくをめぐって」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい31かんだい1ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1981ねん、130-131ぺーじdoi:10.4259/ibk.31.130 
  • 阿部あべしん也「倶舎ろんにおけるひょうについて」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい87かんだい1ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1995ねん、35-37ぺーじdoi:10.4259/ibk.44.35 
  • 加藤かとうじゅんあきらしん薩婆」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい16かんだい1ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1967ねん、120-121ぺーじdoi:10.4259/ibk.16.120 
  • 松久保まつくぼしげるたね唯識ゆいしき初步しょほ : しんつめる仏教ぶっきょう智恵ちえ鈴木すずき出版しゅっぱん、2001ねんISBN 978-4-7902-1103-7 
  • 山本やまもとげんほうもんせき提唱ていしょうだい法輪ほうりんかく、1960ねんISBN 978-4-804-61019-1 
  • 秋月あきづきりゅうもんせきむ』講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2002ねん 
  • じょう寛文ひろふみれい>の探究たんきゅう : 近代きんだいスピリチュアリズムと比較ひかく宗教しゅうきょうがく春秋しゅんじゅうしゃ、2005ねん、1-283ぺーじISBN 4-393-29194-8https://hdl.handle.net/2241/00148382 
  • 岡田おかだ明憲あきのり神秘しんぴ思想しそうとヨーロッパ」『別冊べっさつたまきだい5かん藤原ふじわら書店しょてん、2002ねん、140-147ぺーじ 
  • 教皇きょうこうちょう文化ぶんか評議ひょうぎかい/教皇きょうこうちょうしょ宗教しゅうきょう対話たいわ評議ひょうぎかい『ニューエイジについてのキリスト教きりすときょうてき考察こうさつ』カトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかい司教しきょう協議きょうぎかい秘書ひしょしつ研究けんきゅう企画きかく やく、カトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかい、2007ねん 
  • 現代げんだい世界せかい宗教しゅうきょう事典じてん現代げんだいしん宗教しゅうきょう、セクト、代替だいたいスピリチュアリティ』クリストファー・パートリッジ英語えいごばん へん井上いのうえじゅんこう 監訳かんやく井上いのうえじゅんこう井上いのうえまどか・冨澤とみさわかな・宮坂みやさかきよし やくゆうしょかん、2009ねん 
    • Michael York 執筆しっぴつ「ニューエイジの伝統でんとう」。 
    • Kevin Tingay 執筆しっぴつかみ智学ちがく協会きょうかい」。 
  • 大田おおた俊寛としひろ現代げんだいオカルトの根源こんげん - れいせい進化しんかろんひかりやみ筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま新書しんしょ〉、2013ねんISBN 978-4-480-06725-8 
  • アルボムッレ・スマナサーラ無我むが見方みかた (「わたし」から自由じゆうになるかた)』(kindle)サンガ、2012ねんISBN 978-4905425069 
  • アルボムッレ・スマナサーラ『Power up Your Life 力強ちからづよきるためにブッダがいたカルマの法則ほうそく』(Kindle)サンガ、2014ねんISBN 978-4904507230 
  • 馬場ばばきの寿ひさし初期しょき仏教ぶっきょう――ブッダの思想しそうをたどる』〈岩波いわなみ新書しんしょ〉2018ねんISBN 978-4004317357 

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう