奥屋おくや 熊ぐま郎ろう(おくや くまお、1894年ねん7月がつ11日にち[1] - 1964年ねん11月14日にち[2])は、日本にっぽんの新聞しんぶん記者きしゃ、放送ほうそうプロデューサー。戦前せんぜんの草創そうそう期きのNHKで、その企画きかく力りょくにより独創どくそう的てきな企画きかくを次々つぎつぎに実現じつげん、特とくに国民こくみん歌謡かようの発案はつあん者しゃとして知しられる。
1894年ねん、 三重みえ県けん阿山あやま郡ぐん新居にのい村むら字じ東村あずまむら(現在げんざいの伊賀いが市し東高倉ひがしたかくら)に生うまれ、後のちに一家いっかで神戸こうべへ出でる。
1914年ねんに神戸こうべ新報しんぽう社しゃ記者きしゃとなったのを皮切かわきりに、神戸こうべ又新またしん日報にっぽう、大阪おおさか日にち日にち新聞しんぶんで記者きしゃとして活動かつどう。その一方いっぽうで、富田とみた砕花さいかの詩しや短歌たんかに親したしみ、みずから1917年ねん、文化ぶんか雑誌ざっし「ミナト芸術げいじゅつ」を創刊そうかんするなど、神戸こうべの文化ぶんか活動かつどうの一端いったんを担になう。
1926年ねん1月がつ、戦前せんぜんのNHK大阪おおさか放送ほうそう局きょく入局にゅうきょく。桂かつら春はる團だん治ちの落語らくご、野球やきゅう中継ちゅうけい、ラジオ体操たいそう、女優じょゆう岡田おかだ嘉子よしこによる「椿つばき姫ひめ」一人ひとり芝居しばい、「詩しの朗読ろうどく」など、ユニークな企画きかくを次々つぎつぎに実現じつげん。同局どうきょく文芸ぶんげい課長かちょうを務つとめる。
1936年ねん4月がつ、奥屋おくやの企画きかくによる「新しん歌謡かよう曲きょく」放送ほうそう後ご、局内きょくないの議論ぎろんの結果けっか「国民こくみん歌謡かよう」と改題かいだいし、同年どうねん6月がつ1日にちより放送ほうそうを開始かいし[3] [4]。のちに奥屋おくや自身じしんも作詞さくしを手掛てがけた。
1943年ねん7月がつ、NHKを去さって東京とうきょうへ移うつり、日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい常務じょうむ取締役とりしまりやくに就任しゅうにん。
1949-1951年ねん、同社どうしゃ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう。1964年ねん11月14日にち、脳溢血のういっけつのため神奈川かながわ県けん鎌倉かまくら市し材木座ざいもくざの自宅じたくで死去しきょ[2]。