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女房名 - Wikipedia

女房にょうぼうめい(にょうぼうな)は、おも平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代ときよにかけて、貴人きじん出仕しゅっしする女房にょうぼうつかえる主人しゅじん同輩どうはいへの便宜べんぎのために名乗なのった通称つうしょう、またその形式けいしき

当時とうじ女子じょしいみなおおやけにすることは忌避きひされていた。宮中きゅうちゅうでの歌合うたあわせ記録きろくなどにも女性じょせい実名じつめいしるされることはなく、系図けいずうえにすら実名じつめい垣間見かいまみることはまれだった。そのため、和歌わか文学ぶんがく世界せかいにおける活躍かつやくひろられた女房にょうぼうでも、その実名じつめい判明はんめいしていないというれいがほとんどである。

女房にょうぼうめいは、ちち兄弟きょうだいおっとなど、本人ほんにん帰属きぞくするいえ代表だいひょうするもの官職かんしょくめいもちいることがおおい。すなわち、紫式部むらさきしきぶの「式部しきぶ」(ちち藤原ふじわらため式部しきぶだいすすむだった)、清少納言せいしょうなごんの「少納言しょうなごん」(兄弟きょうだい少納言しょうなごんとなったものがいたという)、伊勢いせちち伊勢いせまもる)、相模さがみおっと相模さがみもり)などがこれにたる。ただしこれのみでは同名どうめいものして不便ふべんなため、そのもの特性とくせい端的たんてきあらわかんすることで区別くべつをした。清少納言せいしょうなごんの「きよし」は清原きよはら出自しゅつじであることをしめす。紫式部むらさきしきぶ当初とうしょおなじように藤原ふじわらの「ふじ」をかんして「ふじ式部しきぶ」(とうしきぶ)とばれていたが、やがてその著作ちょさく源氏物語げんじものがたり』が有名ゆうめいになると登場とうじょう人物じんぶつむらさきじょうにちなんで「むらさき」をかんすようになったという経緯けいいがある[1]。また和泉式部いずみしきぶのようにおっと官職かんしょく和泉いずみまもる)とちち官職かんしょく式部しきぶだいすすむ)をわせたれいや、大弐三位だいにのさんみのようにおっと官職かんしょくだいおさむ大弐だいに)と本人ほんにん位階いかいしたがえさん)をわせたれいもある。小式部内侍こしきぶのないしはは和泉式部いずみしきぶどう時期じき一条天皇いちじょうてんのう中宮なかみや藤原ふじわら彰子あきこ出仕しゅっししていたため、母式ぼしき区別くべつするために「しょう」をかんしてしょう式部しきぶばれるようになったとみられる。

それでも時代じだいくだると、歌人かじん物語ものがたり作者さくしゃとして後代こうだいにまでのこした女房にょうぼう女房にょうぼうめいが、ことなる時代じだいおな女房にょうぼうめい使つかった別人べつじんとまぎらわしくなることがおおくなった。そこでこれをけるため、女房にょうぼうめい主人しゅじん主人しゅじん家名かめいかんすることが院政いんせいころからはじまり、これが以後いご主流しゅりゅうとなっていった。祐子ゆうこ内親王ないしんのう紀伊きいろくじょう斎院さいいん宣旨せんじまちけんもんいん堀河ほりかわじょういん讃岐さぬきすめらぎ嘉門かもんいん別当べっとういんとみもんいん大輔だいすけむべあきもんいん丹後たんご後鳥羽ごとばいん下野げやこう深草ふかくさいん少将しょうしょう内侍ないし璧門いん少将しょうしょうこう堀河ほりかわいんみんきょう典侍てんじなど、そのれいには枚挙まいきょひまがない。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 紫式部むらさきしきぶ由来ゆらいは?」増淵ますぶち勝一かついち源氏物語げんじものがたりなぞ』、くにけんウェブ文庫ぶんこ、2014ねん10がつ29にち閲覧えつらん