少しょう論ろん派は(しょうろんは、ソロンパ)は、李り氏し朝鮮ちょうせんの党派とうはの一ひとつ。粛宗の外戚がいせきに対たいし妥協だきょう的てきな老ろう論ろん派は(ろうろんは、ノロンパ)との対比たいひで使つかわれる事ことが多おおい。
元もとは西人せいじんであったが、1680年ねん、南みなみ人じんの専横せんおうに歯止はどめをかけたい粛宗が南みなみ人じんを大量たいりょうに追放ついほうした庚申こうしん換かわ局きょくの時ときに、老ろう論ろんと少しょう論ろんに分裂ぶんれつした。少しょう論ろん派はの長ちょうは尹いん拯(朝鮮ちょうせん語ご版ばん)であったが、彼かれは1714年ねんに死去しきょ、さらに少しょう論ろん派はを支持しじした景けい宗むねも1724年ねん10月がつに死去しきょ、代かわって即位そくいした英えい祖そは少しょう論ろん派はを追おい出だした。しかし、英えい祖そには景けい宗むねを毒殺どくさつしたという噂うわさが付つきまとい、全羅道ぜんらどうにおける李り麟佐の乱らん(朝鮮ちょうせん語ご版ばん)を引ひき起おこした。李り麟佐の乱らんは京畿けいき道どうと忠清ただきよ道どうの民衆みんしゅうにも支持しじされた。
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