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尾陽神社 - Wikipedia

神社じんじゃ

名古屋なごや昭和しょうわ鎮座ちんざする神社じんじゃ

神社じんじゃ(びようじんじゃ)は、愛知あいちけん名古屋なごや昭和しょうわ御器所ごきそ鎮座ちんざする神社じんじゃ

神社じんじゃ
尾陽神社拝殿
所在地しょざいち 愛知あいちけん名古屋なごや昭和しょうわ御器所ごきしょ丁目ちょうめ9-19
位置いち 北緯ほくい358ふん52びょう 東経とうけい13655ふん17びょう / 北緯ほくい35.14778 東経とうけい136.92139 / 35.14778; 136.92139座標ざひょう: 北緯ほくい358ふん52びょう 東経とうけい13655ふん17びょう / 北緯ほくい35.14778 東経とうけい136.92139 / 35.14778; 136.92139
主祭しゅさいしん 天照大御神あまてらすおおみかみ
徳川とくがわ義直よしなお
徳川とくがわ慶勝よしかつ
社格しゃかくひとし けんしゃ・4きゅうしゃ
創建そうけん 明治めいじ43ねん
本殿ほんでん様式ようしき 権現造ごんげんづくり
例祭れいさい 4がつ28にち
10月28にち
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由緒ゆいしょ

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明治めいじ時代じだいになってきゅう尾張おわり藩士はんし請願せいがんによって名古屋なごや東照宮とうしょうぐう合祀ごうしされていた徳川とくがわ義直よしなお初代しょだい尾張おわり藩主はんしゅ)と徳川とくがわ慶勝よしかつ(14だい・17だい)をまつるための神社じんじゃとして、名古屋なごや開府かいふ300ねん記念きねん事業じぎょうわせてきゅう藩士はんしによる戴恩かい結成けっせいされ、1910ねん明治めいじ44ねん)に創建そうけん1922ねん大正たいしょう11ねん)6がつ30にちけんしゃれっせられたのち、大正たいしょう13ねん10がつ28にち遷座せんざされた。

神社じんじゃ資料しりょうでは別格べっかくかんぬさしゃ昇格しょうかく内示ないじがあったものの、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつがあったため昇格しょうかくかなわなかったとしている。当初とうしょつくられた社殿しゃでん神明しんめいづくりであったが1945ねん昭和しょうわ20ねん)の名古屋大なごやだい空襲くうしゅうにより焼失しょうしつし、現在げんざい社殿しゃでん1970ねん昭和しょうわ45ねん)に再建さいけんされたものである。

1949ねん昭和しょうわ24ねん)に天照大御神あまてらすおおみかみ主祭しゅさいしんとして合祀ごうし。また、1973ねん昭和しょうわ48ねん)には徳川とくがわ本邸ほんていさかえ稲荷いなり神社じんじゃを、1976ねん昭和しょうわ51ねん)には大神神社おおみわじんじゃ摂社せっしゃであるひさのべ彦神しゃ分霊ぶんれいけて摂社せっしゃとしてまつっている。なお、ひさのべ彦神しゃ社殿しゃでん枚方ひらかたにある山田やまだ神社じんじゃからおくられたもので、元々もともとやく200ねんまえ春日大社かすがたいしゃ本殿ほんでんとして使つかわれていたものであるという[1]

祭神さいじん

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境内けいだいしゃ

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摂社せっしゃ

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末社まっしゃ

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神宝しんぽう

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御器所ごきしょ西城にししろ

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御器所ごきしょ西城にししろ
愛知あいちけん
 
別名べつめい 御器所ごきしょじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 平山ひらやましろ
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい
築城ちくじょうぬし 佐久間さくまかち
築城ちくじょうねん 嘉吉よしきち年間ねんかん1441ねん-1443ねん
遺構いこう ほりあと石碑せきひ説明せつめいばん
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
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御器所ごきしょ西城にししろ(ごきそにしじょう)は現在げんざい神社じんじゃがある付近ふきんった平山ひらやましろである。

概要がいよう

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だか10メートルのおかてられた。現在げんざい社地しゃち嘉吉よしきち年間ねんかん1441ねん-1443ねん)に佐久間さくま美作みさくまもる佐久間さくまかちともわれる[1])がきずいた御器所ごきしょ西城にししろ跡地あとちつたわる。 なお、創建そうけん当時とうじ空堀からぼりるい一部いちぶのこっていたというが、2009ねん平成へいせい21ねん現在げんざいでは周辺しゅうへん開発かいはつすすんでおり痕跡こんせき確認かくにん出来できない。神社じんじゃ西側にしがわから北側きたがわにかけて石垣いしがきがあるがこれは近年きんねん神社じんじゃ整備せいびによってつくられたもの。本殿ほんでん背後はいご北側きたがわ)にわずかにのこがけじょう地形ちけいが、しろがあった当時とうじ様相ようそうつたえるのみである。

佐久間さくまもりだいになると織田おだ信長のぶながつかえた。佐久間さくまもりまさし柴田しばた勝家かついえおいであったので天正てんしょう11ねん1583ねん)の賤ヶだけたたかではかち軍勢ぐんぜいぞくした。このたたかいでもりまさし討死うちじにし、はいじょうになった。

自家用車じかようしゃ

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公共こうきょう交通こうつう機関きかん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 名古屋なごや復刻ふっこくばん 名古屋なごや 社寺しゃじへん愛知あいちけん郷土きょうど資料しりょう刊行かんこうかい1980ねん原書げんしょ1915ねん大正たいしょう4ねん発行はっこう
  • 名古屋なごや教育きょういくかい 編著へんちょ概観がいかんだい名古屋なごや』、1933ねん
  • 昭和しょうわせい施行しこう50周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう委員いいんかい 編著へんちょ昭和しょうわ』、1987ねん
  • 名古屋なごや教育きょういく委員いいんかい編著へんちょ名古屋なごや史跡しせき文化財ぶんかざいしんていばん)』だいさんはん、1998ねん
  • 生田いくた良雄よしお昭和しょうわ歴史れきし』 愛知あいちけん郷土きょうど資料しりょう刊行かんこうかい1999ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 名古屋なごや教育きょういく委員いいんかい『『名古屋なごや史跡しせき文化財ぶんかざいしんていばん)』だいさんはん名古屋なごや教育きょういく委員いいんかい、1988ねん、186ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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