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平盛嗣 - Wikipedia

ひらもり

平安へいあん時代じだい末期まっき平家へいけかた武将ぶしょう

ひら もり(たいら の もりつぐ)は、平安へいあん時代じだい末期まっき平家ひらかかた武将ぶしょうひらもりしゅん次男じなんちち同様どうよう平家へいけ郎党ろうとうとして勇名ゆうめいせた。

 
ひらもり
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ たてひさ5ねん1194ねん
別名べつめい 越中えっちゅう次郎じろう兵衛ひょうえ通称つうしょう
主君しゅくん 平清盛たいらのきよもりそうもり
氏族しぞく 伊勢いせたいら
父母ちちはは ちちひらもりしゅん
兄弟きょうだい もりつなもり
つま 気比けひ道弘みちひろむすめ
盛長もりなが
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

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平家ひらか物語ものがたり』では「越中えっちゅう次郎じろう兵衛ひょうえもり」の通称つうしょうばれ、平家へいけにおいてその豪勇ごうゆうとなえられる名将めいしょうであった。みなもととの数々かずかずせん参戦さんせんし、水島みずしまたたかではみなもと義清よしきより、屋島やしまたたかでは源義経みなもとのよしつね郎党ろうとうである伊勢いせ義盛よしもりとのせん簡単かんたんえば嘲笑ちょうしょう合戦かっせん)の逸話いつわのこしている。

寿ことぶきひさし4ねん1185ねん)の壇ノ浦だんのうらたたかで、もり嗣は自害じがいこころよおもわずきょうび、その但馬たじまこく潜伏せんぷく生活せいかつはいった。もり嗣は城崎きのさきぐん気比庄きひしょう本拠ほんきょとする日下部くさかべ道弘みちひろ気比けひ道弘みちひろ)に身分みぶんいつわり、馬飼まかいいとしてつかえたとわれている。そのもり嗣は道弘みちひろむすめ婿むことなり、平穏へいおん落人おちうど生活せいかつおくっている。しかし鎌倉かまくらかたもり嗣の行方ゆくえきびしく追及ついきゅうしており、みなもと頼朝よりともは「越中えっちゅう次郎じろう兵衛ひょうえもり嗣、からめてもちゅうしてもまいらせたるものには勧賞かんしょうあるべし」とみな披露ひろうしたとされる記述きじゅつが『平家ひらか物語ものがたり』(のべけいほん)にもある。

たてひさ5ねん1194ねん)、もり嗣は源氏げんじかた捕縛ほばくされ、鎌倉かまくらおくられることとなった(捕縛ほばくされた状況じょうきょうには諸説しょせつある)。もり嗣は頼朝よりとも面前めんぜんされたさいに「いまうんきてかようにからこうじょうは、ちからおよこうはず。とくとくどうせ」と堂々どうどう自説じせつべ、ついに由比ヶ浜ゆいがはまにて斬首ざんしゅされた。

京都きょうと福知山ふくちやま大江おおえまち北原きたはらにはもり嗣ら平家へいけ郎党ろうとうらがびた伝説でんせつがあり、もり嗣の末裔まつえいとして現在げんざいでも福知山ふくちやま周辺しゅうへん市町村しちょうそんに「越中えっちゅうせい現存げんそんしているが一部いちぶ子孫しそん改名かいめいしているものもいる。

画像がぞうしゅう

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関連かんれん項目こうもく

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