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志村 (東京府) - Wikipedia

志村しむら (東京とうきょう)

日本にっぽん東京とうきょうきた豊島としまぐんにあったむら

志村しむら(しむら)は、かつて東京とうきょうきた豊島としまぐん存在そんざいしたむらむらめい自治体じちたいめい)は(「志村しむら」ではなく)「こころざし」。

しむら
志村しむら
廃止はいし 1932ねん10がつ1にち
廃止はいし理由りゆう 東京とうきょう編入へんにゅう
志村しむら板橋いたばしまち上板かみいた橋村きょうそん赤塚あかつかむら練馬ねりままちうえ練馬ねりまむら中新井なかあらいむら石神井しゃくじいむら大泉おおいずみむら東京とうきょう
現在げんざい自治体じちたい 東京とうきょう板橋いたばし
廃止はいし時点じてんのデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 関東かんとう地方ちほう
都道府県とどうふけん 東京とうきょう
ぐん きた豊島としまぐん
市町村しちょうそんコード なし(導入どうにゅうまえ廃止はいし
そう人口じんこう 12,151ひと
(1930ねん10がつ1にち
隣接りんせつ自治体じちたい 東京とうきょうきた豊島としまぐん板橋いたばしまち上板かみいた橋村きょうそん赤塚あかつかむら練馬ねりままち岩淵いわふちまち王子おうじまち
埼玉さいたまけん北足立きたあだちぐん戸田とだまち
志村しむら役場やくば
所在地しょざいち 東京とうきょうきた豊島としまぐん志村しむら
座標ざひょう 北緯ほくい3546ふん35びょう 東経とうけい13941ふん45びょう / 北緯ほくい35.77647 東経とうけい139.69597 / 35.77647; 139.69597 (志村しむら)座標ざひょう: 北緯ほくい3546ふん35びょう 東経とうけい13941ふん45びょう / 北緯ほくい35.77647 東経とうけい139.69597 / 35.77647; 139.69597 (志村しむら)
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1889ねん明治めいじ22ねん)の市制しせい町村ちょうそんせいで、もと武蔵むさしこく豊島としまぐん志村しむらほか7むら合併がっぺいにより誕生たんじょうした。もと志村しむらおよびこの7むら関係かんけいふかいためわせて記述きじゅつする。

現在げんざい環状かんじょうなな号線ごうせんより北側きたがわ板橋いたばし北東ほくとう部分ぶぶんであり、地名ちめいでは相生あいおいまち小豆沢あずさわ泉町いずみちょう大原おおはらまち坂下さかした清水しみずまち志村しむら中台ちゅうたい西台にしだい蓮沼はすぬままち蓮根はすね東坂下さこぎ前野まえのまち宮本みやもとまち若木わかぎのほぼ全域ぜんいきおよび舟渡ふなとよん丁目ちょうめ一部いちぶのぞ大半たいはん高島平たかしまだいらいちきゅう丁目ちょうめ大半たいはんおよび丁目ちょうめ一部いちぶきゅう前谷まえたに津川つがわ以東いとう)、新河岸しんがしいち丁目ちょうめ一部いちぶ相当そうとうする。

中部ちゅうぶ以南いなん武蔵野台むさしのだい北部ほくぶ荒川あらかわ氾濫はんらんばらである。ゆえにきゅう中山道なかせんどうには清水しみずざか隠岐おき殿しんがりざか隠岐おきざか地蔵じぞうざかとも)、国道こくどう17ごう中山道なかせんどう)には志村しむらざかがあり、武蔵野むさしの台地だいちがわ坂上さかがみ氾濫はんらんばらがわ坂下さかしたぶようになった。

湧水わきみず井戸いどおお土地とちであり、東京とうきょう水道局すいどうきょくが1952ねん発行はっこうした『東京とうきょう水道すいどう』に志村しむら沃泉および志村しむらさん濫泉の記述きじゅつがある。志村しむらさん濫泉は志村しむらさんいずみともばれ、それぞれ薬師くすしいずみ見次みつぎいずみ出井でいいずみという。出井でいいずみ出井いずいがわ源泉げんせんであり、清水しみずまち泉町いずみちょう地名ちめい由来ゆらいでもある。現在げんざい小豆沢あずさわ大善寺だいぜんじ清水しみず薬師くすし跡地あとちには薬師くすしいずみ公園こうえんが、前野まえのまちには見次みつぎ公園こうえんが、泉町いずみちょうには出井でいいずみ公園こうえんがある。

また、この湧水わきみずにより、きゅう志村しむら蓮沼はすぬまむらぜん野村のむらあたりは練馬ねりま大根だいこん一種いっしゅであるみの早生わせ(みのわせ)大根だいこん清水しみず大根だいこん優秀ゆうしゅう産地さんちでもあった。

奈良なら時代じだいにはこの周辺しゅうへんは「武蔵むさしこく豊島としまぐん広岡ひろおかきょう」とばれていた。広岡ひろおかきょう現在げんざい板橋いたばし練馬ねりまあたりをめるかなり広大こうだい地域ちいきであった。

ふるくは「しのむら」ともいい、しのしげっていた場所ばしょ開村かいそんしたためこの名前なまえになったといわれている。鎌倉かまくら時代ときよの『吾妻あづまきょう』ですでにこの名前なまええている。鎌倉かまくら時代じだいから室町むろまち時代じだいにかけては豊島としま支配しはいにあり、豊島としま支流しりゅうには志村しむらがいた。志村しむらしろ志村しむらによってきずかれたとされているが、武蔵むさし千葉ちばによってきずかれたとするせつもある。前野まえのむら中台ちゅうたいむら西台にしだいむらなどのむらめい志村しむらからの位置いち由来ゆらいしていることから、ふるくからこのあたりの中心ちゅうしんであったことがわかる。

江戸えど時代じだいとなると大半たいはん江戸えど幕府ばくふ天領てんりょうとなった。志村しむらじょうまる築城ちくじょう以前いぜんからある熊野くまの神社じんじゃは、江戸えど時代じだいには志村しむらだけでなく小豆沢あずきさわむら蓮沼はすぬまむら前野まえのむら中台ちゅうたいむら西台にしだいむらむらそう鎮守ちんじゅだった。また、荒川あらかわ氾濫はんらんばらであった草原そうげん志村しむらばら志村しむらはらしもはる)とばれるようになった。五代ごだい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしによって禁止きんしされていた鷹狩たかがりはちだい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねによって復活ふっかつされると、連続れんぞくする徳丸とくまるばらとも将軍しょうぐんたかじょうひとつである戸田とだすじまれた。

1889ねん明治めいじ22ねん)に市制しせい町村ちょうそんせい開始かいしされると、志村しむら小豆沢あずきさわむらほん蓮沼はすぬまむら前野まえのむら中台ちゅうたいむら西台にしだいむらうえ蓮沼はすぬまむらむらの8むら合併がっぺいされ志村しむらとなり、かくむら大字だいじこころざし大字だいじ小豆沢あずきさわ大字だいじ本蓮ほんばすぬま大字だいじ前野まえの大字だいじ中台ちゅうたい大字だいじ西台にしだい大字だいじ蓮根れんこん上蓮かみはすぬま合併がっぺい)となった。ほん蓮沼はすぬまむら小豆沢あずきさわむら前野まえのむらいねづけむらかこまれる本村もとむら部分ぶぶんと、志村しむらうえ蓮沼はすぬまむら荒川あらかわ現在げんざい新河岸川しんがしがわ)にかこまれる坂下さかした部分ぶぶんかれていたが、このさい本村もとむら部分ぶぶん小豆沢あずさわ小字こあざとして合併がっぺいしている。

1932ねん昭和しょうわ7ねん)の板橋いたばし成立せいりつにはそれぞれ志村しむらまちいち丁目ちょうめ - よん丁目ちょうめ志村しむら小豆沢あずきさわまち志村しむらほん蓮沼はすぬままちきゅうほん蓮沼はすぬまむら本村もとむら部分ぶぶん)、志村しむら長後ちょうごまちきゅうほん蓮沼はすぬまむら坂下さかした部分ぶぶんきゅう大字だいじ本蓮ほんばすぬま名称めいしょうちょうから)、志村しむら前野まえのまちいち丁目ちょうめ - ろく丁目ちょうめ志村しむら清水しみずまちきゅう大字だいじ前野まえの一部いちぶ)、志村しむら中台ちゅうたいまち志村しむら西台にしだいまち志村しむら蓮根はすねまちとなった。

1939ねん昭和しょうわ14ねん5月9にち志村しむらにあっただい日本にっぽんセルロイド東京とうきょう工場こうじょう火災かさい。さらに隣接りんせつする日本にっぽんこう工場こうじょう延焼えんしょうして爆発ばくはつ死者ししゃ32にん負傷ふしょうしゃ245にん惨事さんじがあった[1]

かつての志村しむら役場やくばがあったところは、現在げんざい東京とうきょう聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃ生活せいかつ支援しえんセンター(きゅう東京とうきょうろうあしゃ更生こうせいりょう)となっている。

沿革えんかく

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交通こうつう

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船舶せんぱく

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名所めいしょ旧跡きゅうせき観光かんこうスポット・祭事さいじ催事さいじ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「セルロイド工場こうじょう爆発ばくはつ 死傷ししょうひゃくろくじゅうめいたっす」『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1939ねん5がつ9にち夕刊ゆうかん

関連かんれん項目こうもく

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