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扶南国 - Wikipedia
扶南
50/68ねん - 550ねん 真臘
扶南の位置
1 - 9世紀せいき地図ちず
驃国(Sri Ksetra)ドヴァーラヴァティー/扶南(Fou-Nan)/チャンパ
公用こうよう クメールサンスクリット
首都しゅと バーヴァプラ
元首げんしゅとう
480ねん - 514ねん ジャワルマン1せい
変遷へんせん
建国けんこく 50/68ねん
臘の属国ぞっこくとなる550ねん

扶南こく(ふなんこく)は、1世紀せいきから7世紀せいきにかけてメコンがわしも流域りゅういき現在げんざいカンボジアベトナム南部なんぶ)からチャオプラヤーデルタにかけてえたヒンドゥーきょう仏教ぶっきょう(5世紀せいき以降いこう)の古代こだい国家こっか

扶南の起源きげん

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3世紀せいきころけんぎょうにあった官僚かんりょう報告ほうこくしょどう時代じだい東南とうなんアジアの国家こっかている。しかし、扶南という名称めいしょうておらず、当時とうじ現地げんちじんがどのような名前なまえくにんでいるのかからない。

扶南をたてた人物じんぶつは、インドからカンボジアわたって扶南を建国けんこくしたとするせつと、インド出身しゅっしんバラモンそうであり、マレまれ半島はんとう経由けいゆでカンボジアにわたり、おうとなったとするせつがある外国がいこくじんカウンディンヤである[1][2][3]。カウンディンヤは土地とち女王じょおうソーマ英語えいごばん結婚けっこんし、その子供こども王権おうけんあたえると、その子供こどもななつのまち[4]つくったとつたえられている。4世紀せいきごろからチャンパ王国おうこくミーソン聖域せいいき建設けんせつ開始かいしされ、扶南滅亡めつぼう658ねん日付ひづけ同様どうようはなし記録きろくされている。

インドシナ半島いんどしなはんとうでは1世紀せいきころからインド文化ぶんかつたわり、扶南もその文化ぶんかてき影響えいきょうつよけていた。ヒンドゥーきょうつたわると官僚かんりょうとしておおくのインドじん採用さいようされ、サンスクリットかたり法律ほうりつ用語ようごとして使つかわれた。

扶南はインド・中国ちゅうごくあいだ海上かいじょう交易こうえきルートの中継ちゅうけいとしておおいにさかえ、とりわけタイランドわんめんした外港がいこうオケオには交易こうえきによる商品しょうひん後背こうはいからの様々さまざま産物さんぶつ集積しゅうせきされ、活況かっきょうていしていたとかんがえられている。

扶南の滅亡めつぼう

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550ねんから628ねんにかけて、扶南とあいだ戦争せんそうがあった。550ねんころ、扶南は臘を属国ぞっこくとしていた。

628ねん臘のイシャーナヴァルマン1せいフランス語ふらんすごばんが扶南を占領せんりょうし、滅亡めつぼうした。

民族みんぞく

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扶南をたてた民族みんぞくについては、クメールひと(カンボジアじん)である。

中国ちゅうごく史書ししょによる記録きろく

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はりしょまきじゅうよん 列伝れつでんだいよんじゅうはち しょえびすのなかに記載きさいされている。以下いか原文げんぶんしるし、適宜てきぎ解説かいせつする。

どうつてには、ひたすらへりくだくに毗騫くになどとならんで記述きじゅつされている。


脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてんカウンディンヤ』 - コトバンク
  2. ^ 深見ふかみ純生すみおこんはまぶつ--扶南国家こっか形成けいせいさい検討けんとう」『国際こくさい文化ぶんか論集ろんしゅうだい39ごう桃山学院大学ももやまがくいんだいがく総合そうごう研究所けんきゅうじょ、2009ねん3がつ10日とおか、7-9ぺーじISSN 0917-0219OCLC 835763878 
  3. ^ はじむ蝸藤 (2020ねん5がつ7にち). かんあずかえびす:「中國人ちゅうごくじんはややめ遊牧ゆうぼく民族みんぞく成立せいりつ?”. せきかぎ評論ひょうろんもう. オリジナルの2020ねん6がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200615092443/https://www.thenewslens.com/article/134488 
  4. ^ ソーマ英語えいごばんカウンディンヤナーガ伝説でんせつをなぞらえたはなし

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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