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教義 - Wikipedia

教義きょうぎ(きょうぎ、えい: dogmaドグマ)とは、宗教しゅうきょうおしえを体系たいけいしたもの。多岐たきわた宗教しゅうきょうがあり、そのいずれにも独自どくじのこれが存在そんざいし、各々おのおの宗教しゅうきょう信奉しんぽうするひとが、これにのっとって物事ものごと理解りかいしたり判断はんだんするたすけとなるものとされる。教理きょうりとは相違そういがある。てんじて、一定いってい集団しゅうだんなかにおいてのみ支持しじされているルールやかんがかたも、比喩ひゆてき教義きょうぎばれることがある。また教義きょうぎ絶対ぜったいする、あるいは固執こしつする傾向けいこう教条きょうじょう主義しゅぎえい: dogmatism)という。

概要がいよう

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これらは、宗教しゅうきょうにおける様々さまざまな「おしえ」を明文化めいぶんかしたもので、とくにおおやけ会議かいぎみとめられたものを教義きょうぎという場合ばあいおおい。その一方いっぽうで、それぞれの宗教しゅうきょうにおける開祖かいそ語録ごろく引用いんようして、それの解釈かいしゃくふくめて教義きょうぎとする場合ばあいおおい。おな開祖かいそ宗教しゅうきょうであっても、その開祖かいそ言動げんどう様々さまざま解釈かいしゃくされ、その解釈かいしゃくちがいによって宗派しゅうは発生はっせいする。宗派しゅうは各々おのおの事象じしょうたいしてことなる見解けんかいつのがつねであるが、これは教義きょうぎに(とく解釈かいしゃく部分ぶぶんにて)差異さいがあるために宗派しゅうは相容あいいれなくなっているとおもわれる。

教義きょうぎ様々さまざまめん引用いんようされ、生活せいかつ思想しそう指針ししんとされるが、まれ破壊はかいてきカルト代表だいひょうされるようなはん社会しゃかいてき内容ないよう教義きょうぎ宗教しゅうきょう存在そんざいする。しかしおおくの人々ひとびとれられている宗教しゅうきょうにあっては、おおむ同胞どうほうあい博愛はくあいいてひとひととの共存きょうぞんけており、けっして異様いよう事柄ことがらつらねてあったり、社会しゃかい混乱こんらんまねくようなものではないとかんがえられる。しかし宗教しゅうきょう自体じたい否定ひていてきひとにあっては、この教義きょうぎ存在そんざいからして、個人こじん自主じしゅせい否定ひていするものであるとかんがえるひともある。

主要しゅよう宗教しゅうきょう教義きょうぎ

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以下いかげるのは、主要しゅようとされる宗教しゅうきょうにおいて、宗派しゅうは如何いかかかわらずみとめられる教義きょうぎである。

キリスト教きりすときょう

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教義きょうぎ」と「教理きょうり」はことなる。「教理きょうり」がキリスト教きりすときょうという宗教しゅうきょう信仰しんこう内容ないようについてのおしえであるのにたいして、「教義きょうぎ」は教理きょうりかんして教会きょうかい会議かいぎさだめられたという意味いみでの公的こうてき法的ほうてき意味合いみあいがつよい。キリストきょう教理きょうりたとえば、以下いかのようなものであり、教義きょうぎたとえば「ニカイア信条しんじょう」、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条しんじょうとう代表だいひょうされるようなものである。かみ唯一ゆいいつで、ちちなるかみなるイエス・キリスト聖霊せいれいさんかくつ(三位一体さんみいったい存在そんざいである。かみはじめに人間にんげんふくめた世界せかいのすべてを創造そうぞうし、それをいものとしたが、ひとかみ命令めいれいそむざいおかしたために、ひと罪深つみぶか存在そんざいとなった。かみひとあいするゆえに、御子みこイエスをつかわし、十字架じゅうじかうえひとけるべきかみさばきを身代みがわりとなりけるにいたった。イエスは十字架じゅうじかけいによってぬが、三日みっか復活ふっかつし、弟子でしたちのまえあらわれ、そのてんのぼり、聖霊せいれいとしてこのった。イエスが我々われわれつみわりにに、かみがイエスをよみがえらせ、イエスはかみすくぬしであるとしんじるものは、このわりにおいて自分じぶんけるべきさばきをまぬがれ、すくわれ、かみくに完成かんせいする。


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