中世以降、商品の流通の活発化により北国街道の重要性はさらに高まり、特に琵琶湖の湖上輸送は京阪方面と北陸方面を結ぶ重要な役割を果たした[1]。ただ、古代から利用されていた深坂越え(深坂峠)は難所であるため、天正8年(1580年)にさらに東側に新道野越が開かれた[2]。日本海側から敦賀に運ばれた荷物は、東の新道野越(塩津街道)のルートや西の西近江路(七里半越)のルートで琵琶湖の湖北や湖西にある中継港に運ばれた[1]。
県境付近には芭蕉句碑があり、近江商人の中継問屋だった新道地区の西村家(西村孫兵衛家)には国の重要文化財「奥の細道素龍清書本 附 細道伝来記」(『おくのほそ道』西村本)が伝わる[3][4][5]。西村家は旅行会社が造ったドライブインの支配人を1964年(昭和39年)に引き受け、1973年(昭和48年)には滋賀県から古民家を移築して峠の茶屋として独立し「民芸茶屋 孫兵衛」となった[4]。芥川龍之介が説話を題材にした『芋粥』で藤原利仁が都人に自慢した芋はその屋敷のあった敦賀のもので[5]、新道地区の近くでとれた山芋であったともいい、とろろそばが茶屋の名物となっていたが、2023年(令和5年)11月末で閉店することになった[4]。