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日通事件 - Wikipedia

日通にっつう事件じけん(にっつうじけん)は、1968ねん発覚はっかくした汚職おしょく事件じけん

概要がいよう

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日本通運にほんつううんが1940ねん昭和しょうわ15ねん以来いらい独占どくせん輸送ゆそうをしている米麦べいばくなどの政府せいふ食糧しょくりょうについて、国鉄こくてつをバックにした全国ぜんこく通運つううん新規しんき参入さんにゅう目指めざしてもう運動うんどう展開てんかいし、1967ねん昭和しょうわ42ねん)4がつ衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかい社会党しゃかいとう猪俣いのまた浩三こうぞう民社党みんしゃとう竹本たけもと孫一まごいちが「米麦べいばく輸送ゆそうをなぜにちどおりにだけわせるのか」と攻撃こうげきしたさいに、社会党しゃかいとう大倉おおくら精一せいいち元日がんじつどおり労組ろうそ委員いいんちょう)と自民党じみんとう池田いけだ正之まさゆきたいし、議会ぎかい発言はつげんをしないようはたらきかける見返みかえりとして、大倉おおくらには200まんえん池田いけだには300まんえんわたしたとされている。

東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう調査ちょうさ開始かいし資金しきんめん日本通運にほんつううん管財かんざい課長かちょうが5おくえんのリベートを管理かんりしていたことをめたほか、グループ企業きぎょうふくめた多数たすう関係かんけいしゃ脱税だつぜい容疑ようぎ逮捕たいほしてかねながれを調しらべた[1]が、結果けっかてき空振からぶりにわった。 このさい日本通運にほんつううんぜん社長しゃちょう福島ふくしま敏行としゆき取調とりしらべにあたっては、のち検事けんじ総長そうちょうになる吉永よしなが祐介ゆうすけ東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう検事けんじとして参加さんかした。

東京とうきょう地検ちけんによる捜査そうさ井本いもとたいきち検事けんじ総長そうちょう東京とうきょう地検ちけん次席じせき河井かわい信太郎しんたろうによる内部ないぶ対立たいりつび、その結果けっか河井かわい失脚しっきゃく東京とうきょう地検ちけん特捜とくそうがこののち8ねんながねむりについたきっかけとなる事件じけんとの評価ひょうかもある。

  • 1967ねん昭和しょうわ42ねん)10がつ31にち 東京とうきょう国税局こくぜいきょく大和やまと造林ぞうりんという社員しゃいん3にん造園ぞうえん業者ぎょうしゃ捜索そうさく
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)1がつ11にち 日本通運にほんつううん社長しゃちょう福島ふくしま敏行としゆき、4にんふく社長しゃちょう西村にしむら猛男たけお小幡おばたやすし池田いけだ幸人ゆきと入江いりえ逓男)が突如とつじょ辞任じにんし、序列じょれつ12番目ばんめ澤村さわむら貴義たかよし専務せんむしん社長しゃちょう就任しゅうにんする。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)2がつ18にち 参考さんこうじんとして取調とりしらべをけていた福島ふくしま敏行としゆきぜん社長しゃちょう次男じなん福島ふくしま秀行ひでゆき資金しきん課長かちょう検察庁けんさつちょうビルから自殺じさつ
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)2がつ23にち 東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう管理かんり課長かちょう業務ぎょうむじょう横領おうりょううたがいで逮捕たいほ
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)4がつ8にち 東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう福島ふくしま敏行としゆきぜん社長しゃちょう西村にしむら猛男たけおぜん経理けいり担当たんとうふく社長しゃちょう業務ぎょうむじょう横領おうりょううたがいで逮捕たいほ
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)4がつ19にち 新橋しんばし料亭りょうていはなちょう」で池田いけだ正之まさゆき輔、福田ふくだ赳夫たけお当時とうじ自由民主党じゆうみんしゅとう幹事かんじちょう)とともに、井本いもとたいきち検事けんじ総長そうちょう会食かいしょく
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)6がつ4にち 東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう大倉おおくら精一せいいちをあっせん収賄しゅうわいうたがいで逮捕たいほ
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)6がつ22にち 検事けんじ総長そうちょう公邸こうていおこなわれた検察けんさつ首脳しゅのう会議かいぎは、池田いけだ正之まさゆき輔の逮捕たいほ可否かひをめぐり激論げきろんとなったが、結論けつろんなかった。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)6がつ23にち 前日ぜんじつつづ再開さいかいされた検察けんさつ首脳しゅのう会議かいぎで、池田いけだ正之まさゆき輔を逮捕たいほすべきだとの河井かわい信太郎しんたろう東京とうきょう地検ちけん次席じせき検事けんじはじめ東京とうきょう地検ちけん意見いけんたいし、井本いもとたいきち検事けんじ総長そうちょう逮捕たいほ反対はんたいした。7月7にちせま参院さんいんせん影響えいきょうあたえるとの理由りゆうであった。結局けっきょく最高検さいこうけん刑事けいじ部長ぶちょう山本やまもときよし二郎じろう提示ていじした「池田いけだ正之まさゆき輔を逮捕たいほせず、大倉おおくら精一せいいち同時どうじ起訴きそする」という折衷せっちゅうあんとおった。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)6がつ24にち 東京とうきょう地検ちけん特捜とくそう池田いけだ正之まさゆき輔と大倉おおくら精一せいいち起訴きそし、家宅かたく捜索そうさくおこなう。このときに4がつ19にち新橋しんばし料亭りょうていはなちょう」での4まん910えん領収りょうしゅうしょつかる。東京とうきょう地検ちけん特捜とくそうは、大倉おおくら逮捕たいほみとめたが、池田いけだ逮捕たいほ井本いもと強硬きょうこう態度たいどみとめなかったことと、はなちょう会合かいごうとは無関係むかんけいではありないと激怒げきどした。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)9がつ2にち 共産党きょうさんとう機関きかん赤旗あかはたが4がつ19にち新橋しんばし料亭りょうていはなちょう」での井本いもとたいきち検事けんじ総長そうちょう池田いけだ正之まさゆき輔との会食かいしょく掲載けいさい井本いもとは、「この会食かいしょく日通にっつう事件じけんとは関係かんけいがない。検事けんじ総長そうちょう就任しゅうにんしたときに池田いけだ正之まさゆき輔がいわいのうたげひらいてくれたので、そのおかえしとしていちせきもうけただけだ。代金だいきんの4まん910えんも、もちろんポケットマネーではらった。福田ふくだ赳夫たけおわたし友人ゆうじんとして出席しゅっせきしただけだ」と記者きしゃ会見かいけんかたった。なお、井本いもと福田ふくだはともに1905ねん明治めいじ38ねん)に群馬ぐんまけんまれ、旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこうから東京大学とうきょうだいがくすすんだ友人ゆうじんであり、昭電しょうでん疑獄ぎごく福田ふくだ当時とうじ大蔵省おおくらしょう主計しゅけい局長きょくちょう)が逮捕たいほ起訴きそされたときに公職こうしょく追放ついほうなか井本いもと弁護士べんごしとして無罪むざい判決はんけつ寄与きよしたという関係かんけいがある。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)9がつ9にち 河井かわい信太郎しんたろう東京とうきょう地検ちけん次席じせきから最高検さいこうけん検事けんじ棚上たなあげされた。こののち水戸みと地方ちほう検察庁けんさつちょう異動いどうし、二度にど東京とうきょうもどることがなかった。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)11月4にち 池田いけだ正之まさゆき輔は河井かわい信太郎しんたろう名誉めいよ毀損きそん告訴こくそ。このほか民事みんじでも慰謝いしゃりょう2,000まんえん朝日あさひ毎日まいにち読売よみうりさん謝罪しゃざい広告こうこく掲載けいさいもとめるうったえを東京とうきょう地裁ちさい提起ていきした。
  • 河井かわい信太郎しんたろう雑誌ざっし月刊げっかん現代げんだい』11がつごうでの池田いけだ正之まさゆき輔にたいする反論はんろんをめぐり、水島みずしま廣雄ひろおそごう社長しゃちょうに「池田いけだとのトラブルを解決かいけつすることを委任いにんします。」との委任いにんじょういたことを理由りゆうに、法務大臣ほうむだいじんから訓告くんこく処分しょぶんけた。
  • 1968ねん昭和しょうわ43ねん)12月5にち 池田いけだ正之まさゆき輔は検察官けんさつかん適格てきかく審査しんさかい会長かいちょう小野おの清一郎せいいちろう)にたい河井かわい信太郎しんたろう懲戒ちょうかい免職めんしょくもとめる申立もうしたてをおこなう。
  • 1977ねん昭和しょうわ52ねん)10がつ14にち 最高裁さいこうさい判決はんけつで、池田いけだ正之まさゆき輔は懲役ちょうえき1ねん6がつ追徴金ついちょうきん300まんえん実刑じっけい確定かくてい名誉めいよ毀損きそん民事みんじ訴訟そしょう検察官けんさつかん適格てきかく審査しんさのいずれも池田いけだ敗北はいぼくわる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ トンネル会社かいしゃ疑惑ぎわく ヤミ資金しきん財源ざいげん 政治せいじ寄金ききん役員やくいん賞与しょうよに?『朝日新聞あさひしんぶん』1968ねん昭和しょうわ43ねん)3がつ19にち朝刊ちょうかん 12はん 15めん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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