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比流王 - Wikipedia

りゅうおう

百済くだらおう

りゅうおう(ひりゅうおう、生年せいねんしょう - 344ねん)は百済くだらだい11だいおう在位ざいい304ねん - 344ねん)であり、だい6だいかたきくびおうだい2いみなおくりなつたわっていない。304ねん10がつ先代せんだい汾西おうらくなみ太守たいしゅ刺客しかくころされたさい、汾西おう王子おうじがみな幼少ようしょうであったために臣民しんみん推戴すいたいされてりゅうおう王位おういについた。きんあやかおう

りゅうおう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 비류왕
漢字かんじ りゅうおう
発音はつおん ピリュワン
日本語にほんごみ: ひりゅうおう
マ字まじ Biryu-wang
テンプレートを表示ひょうじ

概要がいよう

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かたきくびおうだい1とされるだい7だいすなともおうあににあたるが、あにすなともおうは234ねん即位そくいおとうとりゅうおうは304ねん即位そくいしたとされている。兄弟きょうだいが70年間ねんかんけて即位そくいしたとはかんがえにくい。

K.J.H. GARDINERは、りゅうおうを、百済くだら初代しょだいおうゆたか祚王あにであるにえりゅうどう一人物いちじんぶつて、りゅうおう以前いぜんの10にん百済くだらおう虚構きょこうとした[1]

国外こくがいとの交流こうりゅう交戦こうせんはなく、337ねんしん使者ししゃ訪問ほうもんしてきたことをつたえるのみである。国内こくないでは312ねん慰問いもん使巡回じゅんかいさせ、寡婦かふ寡夫やもめひと自活じかつできないものに穀物こくもつ一人ひとりにつきさんせきたまわった。また、320ねんにはだい宮殿きゅうでん西部せいぶもうけて毎月まいつき2かい軍事ぐんじ訓練くんれんをさせるようにするなど、国力こくりょく増強ぞうきょうつとめた。しかし、327ねんにはおうの庶弟でありうちしん佐平さへい(1とうかん)でもあったゆうぶくきたかん山城やましろ京畿けいきどう広州こうしゅう)で反乱はんらんこしたり、331ねんには旱魃かんばつつづきで不作ふさくとなり人々ひとびとたがいにころしてひとにくうようになるなど、かならずしも国力こくりょく増強ぞうきょうにはいたらなかった。344ねん10がつ在位ざいい41ねんにして死去しきょした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ K.J.H. GARDINER『The Early History of Korea』University of Hawaii Press、1969ねん1がつ1にち、45ぺーじISBN 0708102573 

参考さんこう文献ぶんけん

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