水茶屋みずちゃや(みずぢゃや、みずちゃや)は、江戸えど時代じだい、道みちばたや社寺しゃじの境内けいだいで、湯ゆ茶ちゃなどを供きょうして休息きゅうそくさせた茶屋ちゃやである。「掛茶屋かけぢゃや」ともいう。
江戸えどでいえば、上野うえの山下やました、両国りょうこく広小路ひろこうじ、その他た参詣さんけい人じんの多おおい寺社じしゃの付近ふきんにあった。なかでも浅草あさくさ観音かんのん境内けいだいの伝法でんぼう院いんの付近ふきんに軒のきを並ならべた二に十じゅう軒けん茶屋ちゃやは有名ゆうめいであった。『江戸えど真砂まさご六ろく十じゅう帖じょう広本ひろほん』には、「江戸えど町まち々に水茶屋みずちゃや始はじめむる事ごと、浅草あさくさ観音かんのん、芝しば神明しんめい、其その外宮げくう地ち寺てら々には古来こらいより有あり来くる。享とおる保ほ十じゅう八丑年嵯峨釈迦如来回向院にて開帳かいちょう、両国橋りょうごくばしの川端かわばたに茶ちゃや出来でき、元もと文ぶん四よん年ねん信州しんしゅう善光寺ぜんこうじ回向えこう院いんにて開帳かいちょう、両国りょうこく五十嵐いがらし向こう広小路ひろこうじに大和やまと茶ちゃ壹いちぷく壹いち銭ぜにに売うる茶屋ちゃや出来でき、同朋どうほう町まち源げん七ななといふ者しゃ大阪おおさか者しゃにて仕出しだす、段々だんだん今いまは町まち々に出でる」とある。『守まもり貞さだ漫稿』によれば、水茶屋みずちゃやでは、最初さいしょに、1斤きんの価あたい6匁もんめくらいの茶ちゃを茶ちゃ濾の小しょう笟に入いれ、上うえから湯ゆを注さしたものを出だし、しばらくいると、別べつに所望しょもうしなくても塩しお漬づけの桜さくらか香煎こうせんを白湯さゆに入いれて出だし、客きゃくの置おく茶代ちゃだいは、1人ひとりで100文ぶん置おく者ものもいるし、4、5人にんで100文ぶんあるいは200文ぶん置おくこともあるが、1人ひとりの場合ばあい、標準ひょうじゅんは24文ぶんから50文ぶんの間あいだであるという。
評判ひょうばんの高たかかった給仕きゅうじの女性じょせいには、明和めいわ年間ねんかんの谷中たになか笠森かさもり稲荷いなり境内けいだい鍵屋かぎやのおせん、寛政かんせい年間ねんかんの浅草あさくさ随身ずいじん門前もんぜん難波なんば屋やのおきた、両国りょうこく薬研堀やげんぼりの高島屋たかしまやおひさなどのいわゆる『看板娘かんばんむすめ』がいた。彼女かのじょらは鈴木すずき春信はるのぶ、喜多川きたがわ歌麿うたまろなどによって一いち枚まい絵えにまで描えがかれた。今いまでいう「ブロマイド」である。また看板娘かんばんむすめの名前なまえは店みせの雰囲気ふんいきを変かえるために店みせにいるときの名前なまえ、つまり「芸名げいめい」であることが多おおい。その風俗ふうぞくは、寛政かんせい年間ねんかんの『青楼せいろう惚とぼけ多た手て買かい』(せいろうほたてがい)に、「丈たけ長ちょうで髪かみあげして、はげて落るやうに口紅くちべにをこくつけ、黄楊つげの水みず櫛ぐしおちるやうに横よこツちよの方かたへチヨイとさし、頭痛ずつうの呪のろいとみえて、不審ふしん紙しのやうにくひさき紙しを丸まるくして両方りょうほうの小鬢こびんさきへ貼はり、藍あい立りつ縞しまの青梅あおうめの着物きものに、尻しりの方ほうまで廻まわる幅広はばひろいセイラツのかはり縞しまの前垂まえだれに蛇口じゃぐちにした緋ひ縮緬ちりめんの紐ひもをかけ」などと見みえる。
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