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水茶屋 - Wikipedia

水茶屋みずちゃや

江戸えど時代じだいみちばたや社寺しゃじ境内けいだい湯茶ゆちゃなどをきょうして休息きゅうそくさせた茶屋ちゃや

水茶屋みずちゃや(みずぢゃや、みずちゃや)は、江戸えど時代じだいみちばたや社寺しゃじ境内けいだいで、ちゃなどをきょうして休息きゅうそくさせた茶屋ちゃやである。「掛茶屋かけぢゃや」ともいう。

概要がいよう

編集へんしゅう

江戸えどでいえば、上野うえの山下やました両国りょうこく広小路ひろこうじ、その参詣さんけいじんおお寺社じしゃ付近ふきんにあった。なかでも浅草あさくさ観音かんのん境内けいだい伝法でんぼういん付近ふきんのきならべたじゅうけん茶屋ちゃや有名ゆうめいであった。『江戸えど真砂まさごろくじゅうじょう広本ひろほん』には、「江戸えどまち々に水茶屋みずちゃやはじめむるごと浅草あさくさ観音かんのんしば神明しんめい外宮げくうてら々には古来こらいよりる。とおるじゅう八丑年嵯峨釈迦如来回向院にて開帳かいちょう両国橋りょうごくばし川端かわばたちゃ出来できもとぶんよんねん信州しんしゅう善光寺ぜんこうじ回向えこういんにて開帳かいちょう両国りょうこく五十嵐いがらしこう広小路ひろこうじ大和やまとちゃいちぷくいちぜに茶屋ちゃや出来でき同朋どうほうまちげんななといふしゃ大阪おおさかしゃにて仕出しだす、段々だんだんいままち々にる」とある。『まもりさだ漫稿』によれば、水茶屋みずちゃやでは、最初さいしょに、1きんあたい6もんめくらいのちゃちゃ濾のしょう笟にれ、うえからしたものをし、しばらくいると、べつ所望しょもうしなくてもしおづけさくら香煎こうせん白湯さゆれてし、きゃく茶代ちゃだいは、1人ひとりで100ぶんものもいるし、4、5にんで100ぶんあるいは200ぶんくこともあるが、1人ひとり場合ばあい標準ひょうじゅんは24ぶんから50ぶんあいだであるという。

評判ひょうばんたかかった給仕きゅうじ女性じょせいには、明和めいわ年間ねんかん谷中たになか笠森かさもり稲荷いなり境内けいだい鍵屋かぎやおせん寛政かんせい年間ねんかん浅草あさくさ随身ずいじん門前もんぜん難波なんばおきた両国りょうこく薬研堀やげんぼり高島屋たかしまやおひさなどのいわゆる『看板娘かんばんむすめ』がいた。彼女かのじょらは鈴木すずき春信はるのぶ喜多川きたがわ歌麿うたまろなどによっていちまいにまでえがかれた。いまでいう「ブロマイド」である。また看板娘かんばんむすめ名前なまえみせ雰囲気ふんいきえるためにみせにいるときの名前なまえ、つまり「芸名げいめい」であることがおおい。その風俗ふうぞくは、寛政かんせい年間ねんかんの『青楼せいろうとぼけかい』(せいろうほたてがい)に、「たけちょうかみあげして、はげて落るやうに口紅くちべにをこくつけ、黄楊つげみずぐしおちるやうによこツちよのかたへチヨイとさし、頭痛ずつうのろいとみえて、不審ふしんのやうにくひさきまるくして両方りょうほう小鬢こびんさきへり、あいりつしま青梅あおうめ着物きものに、しりほうまでまわ幅広はばひろいセイラツのかはりしま前垂まえだれ蛇口じゃぐちにした縮緬ちりめんひもをかけ」などとえる。