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河本緑石 - Wikipedia

河本かわもとみどりせき

日本にっぽん俳人はいじん詩人しじん

河本かわもと みどりせき(かわもと ろくせき、本名ほんみょう:河本かわもと義行よしゆき〈かわもと よしゆき〉、1897ねん明治めいじ30ねん3月21にち - 1933ねん昭和しょうわ8ねん7がつ18にち)は、日本にっぽん自由じゆうりつ俳句はいく俳人はいじん詩人しじん。『層雲そううん』の荻原井泉水おぎわらせいせんすい師事しじした。鳥取とっとりけん東伯とうはくぐんしゃむらげん倉吉くらよし出身しゅっしん

経歴けいれき

編集へんしゅう
 
盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん在学ざいがく同人どうじん『アザリア』のメンバーと(前列ぜんれつみぎ)。河本かわもとひだり小菅こすが健吉けんきち後列こうれつひだり保阪ほさかよしみないみぎ宮沢みやざわ賢治けんじ

鳥取とっとりけん東伯とうはくぐんやしろむらげん倉吉くらよし)にちち定吉さだきちははせい次男じなんとしてまれる[1]長男ちょうなん夭折ようせつしたため跡取あととりとしてそだてられる。幼少ようしょう従兄じゅうけい河本かわもと謹一きんいちろう感化かんかけて俳句はいくつくりはじめる[2]。このころ定型ていけいであったといわれているが現存げんそんしない。しゃ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん倉吉くらよし市立しりつしゃ小学校しょうがっこう卒業そつぎょう、1911ねん4がつ鳥取とっとり県立けんりつ倉吉くらよし中学校ちゅうがっこうげん鳥取とっとり県立けんりつ倉吉くらよしひがし高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがく同校どうこう在学ざいがくちゅう東郷とうごう横断おうだん競泳きょうえい記録きろくのこしている。1914ねんごろから荻原井泉水おぎわらせいせんすい師事しじして自由じゆうりつ俳句はいくまなはじめる。このとしはじめて投句とうくした俳句はいくが『層雲そううん誌上しじょう掲載けいさいされる。

1916ねん同校どうこう卒業そつぎょう盛岡もりおか高等こうとう農林のうりん学校がっこうげん岩手大学いわてだいがく)に入学にゅうがく宮沢みやざわ賢治けんじ保阪ほさかよしみない小菅こすが健吉けんきちらとともに文芸ぶんげい同人どうじん『アザリア』を創刊そうかん、12(13)にん同人どうじんなか上記じょうき3にんとともに中心ちゅうしんてき存在そんざいとなる。だいいちごうには自由じゆうりつ俳句はいく若葉わかばころ」12投稿とうこうした。同校どうこう卒業そつぎょうの1919ねん鳥取とっとり歩兵ほへいだい40連隊れんたい入営にゅうえい、1920ねん11月30にち現役げんえき満期まんきとなり歩兵ほへい軍曹ぐんそうにんじられる。1921ねん甲種こうしゅ勤務きんむ演習えんしゅうまつ試験しけん合格ごうかく召集しょうしゅう解除かいじょとなる。入営にゅうえいちゅう詩集ししゅう』、『なやめる』の2つの謄写とうしゃ詩集ししゅうをまとめる。

1922ねん長野ながのけん上伊那かみいなぐん北農ほくのうしょう学校がっこうげん長野ながのけん辰野たつの高等こうとう学校がっこう)につまれて赴任ふにん翌年よくねんはは病気びょうき理由りゆう同校どうこう退職たいしょくして郷里きょうりもどり、鳥取とっとりけん実業じつぎょう補習ほしゅう学校がっこうおとこ教員きょういん養成ようせいしょ教諭きょうゆ武道ぶどう教師きょうし嘱託しょくたくとして鳥取とっとり県立けんりつのう学校がっこうげん鳥取とっとり県立けんりつ倉吉くらよし農業のうぎょう高等こうとう学校がっこう)に赴任ふにんする。

1925ねん層雲そううんしゃより詩集ししゅうゆめ破片はへん』を上梓じょうしする。内島うちじまきたろう村野むらの四郎しろう[3]によるひょうが『層雲そううん』15かん4ごう[4]掲載けいさいされる。

1933ねん尾崎おざき放哉ほうさい伝記でんき大空おおぞら放哉ほうさいでん』をだつ稿こうし、出版しゅっぱんのため層雲そううんしゃおくる。7月、のう学校がっこうはちきょう海水浴かいすいよくじょうにおける水泳すいえい訓練くんれんちゅうおぼれた同僚どうりょう救助きゅうじょしたのち事故死じこし[5]享年きょうねん36。賢治けんじ先立さきだつこと2かげつでの死去しきょだった。

1935ねん4がつ、『大空おおぞら放哉ほうさいでん』がこうふうかくから刊行かんこうされ、10月に遺族いぞくによる編集へんしゅう句集くしゅう大山おおやま』が刊行かんこうされる。

代表だいひょう

編集へんしゅう

[6]

  • 荒海あらうみ屋根やね屋根やね
  • ふうとすものひろえふてゐる
  • むぎびるふうしろねこ
  • ふうはれるとする谷川たにがわ
  • ほし、みんなえてしまつた頂上ちょうじょうすわ
  • うみははるかなり砂丘さきゅうのふらここ
  • ぼたるひとふたつゐるやみうしなうてゐる
  • ふゆ夕燒ゆうやさびしいゆびえた
  • わたしむねくろ夜沼よぬまへび
  • んでおれみずなかにすんでるゆめだつた

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 波田野はたの二郎じろう河本かわもとみどりせきあゆんだみち河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかいへん『ふらここ だい3ごう河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかい、2012ねん、15ぺーじ
  2. ^ 鳥取とっとり県立けんりつ図書館としょかんへん郷土きょうど出身しゅっしん文学ぶんがくしゃシリーズ(4) 河本かわもとみどりせき鳥取とっとり県立けんりつ図書館としょかん、2015ねん、75ぺーじりゃく年譜ねんぷ
  3. ^ 波田野はたの二郎じろう河本かわもとみどりせきあゆんだみち河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかいへん『ふらここ だい3ごう河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかい、2012ねん、51ぺーじちゅう36
  4. ^ 河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかいへん『ふらここ叢書そうしょ 河本かわもとみどりせき作品さくひんしゅう4』河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかい、2010ねん、212~218ぺーじ
  5. ^ この死因しいんかんしては、賢治けんじ童話どうわ銀河ぎんが鉄道てつどうよる』のカムパネルラとの関連かんれん指摘してきされることもあるが、賢治けんじ評伝ひょうでん執筆しっぴつした堀尾ほりお青史せいしは「時期じきてきむずかしい」とべている(さかい忠一ただかず堀尾ほりお青史せいし堀尾ほりお青史せいしく」『國文學こくぶんがく』1978ねん2がつごうがくとうしゃ)。
  6. ^ 河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかいへん『ふらここ叢書そうしょ 河本かわもとみどりせき作品さくひんしゅう4』河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかい、2010ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鳥取とっとり県立けんりつ図書館としょかんへん)『郷土きょうど出身しゅっしん文学ぶんがくしゃシリーズ(4) 河本かわもとみどりせき鳥取とっとり県立けんりつ図書館としょかん、2015ねん
  • 河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかいへん)『ふらここ だい3ごう河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかい、2012ねん
  • 河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかいへん)『ふらここ叢書そうしょ 河本かわもとみどりせき作品さくひんしゅう4』河本かわもとみどりせき研究けんきゅうかい、2010ねん