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浅野小倉製鋼所 - Wikipedia

浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ

浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ(あさのこくらせいこうじょ)は浅野あさの財閥ざいばつ製鉄せいてつ会社かいしゃながあいだ経営けいえいなんくるしんだが、軍需ぐんじゅ景気けいき改善かいぜんした。戦後せんご住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた。

帽子をかぶり、右手に杖、左手に書類を持った浅野総一郎の銅像
浅野あさの財閥ざいばつ総帥そうすい 浅野あさの総一郎そういちろう銅像どうぞう

浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ設立せつりつ

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東京製綱とうきょうせいこう小倉こくら製鋼せいこうしょ

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だいいち世界せかい大戦たいせんによって鉄鋼てっこう輸入ゆにゅう困難こんなんになって、価格かかくすうばいからじゅうすうばい高騰こうとうした。そこで、ワイヤーロープ製造せいぞうしていた東京製綱とうきょうせいこうは、はらざい自給じきゅう鋼材こうざい市販しはんのために、1916ねん大正たいしょう5ねん)に東京製綱とうきょうせいこう小倉こくら製鋼せいこうしょ開設かいせつし、同年どうねん9がつだいいちごう平炉へいろ操業そうぎょうはじめた。翌年よくねんの6がつには棒鋼ぼうこう圧延あつえん開始かいしし、12月にだいごう平炉へいろ操業そうぎょうはじめた。さらに、1917ねん大正たいしょう6ねん)9がつ30にち資本しほんきん150まんえん日本にっぽん銑鉄せんてつ株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつし、翌年よくねん5がつだいいち高炉こうろ初出しょしゅつずくしたが、同年どうねん11がつ終戦しゅうせんになり、1919ねん大正たいしょう8ねん)2がつ11にち経営けいえいなん操業そうぎょう停止ていしにした。1917ねん大正たいしょう6ねん)10がつには、べつ設立せつりつした帝国ていこく特殊とくしゅ煉瓦れんが株式会社かぶしきがいしゃ操業そうぎょう開始かいしし、小倉おぐら製鋼せいこうしょ日本にっぽん銑鉄せんてつちくその耐火たいかレンガの自給じきゅう市販しはんおこなった[1]

東京製綱とうきょうせいこうから小倉おぐら製鋼せいこうしょ買収ばいしゅう

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だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうの1917ねん大正たいしょう6ねん)に米国べいこく鉄鋼てっこう輸出ゆしゅつ禁止きんしすると、浅野あさの造船ぞうせんしょもちいる鉄板てっぱん自給じきゅうするために、浅野あさの総一郎そういちろう浅野あさの製鉄せいてつしょ設立せつりつした。そして日本鋼管にほんこうかん富士ふじ製鋼せいこうからったはがねかたまりから鉄板てっぱんつくろうとした。だが、品質ひんしつ粗悪そあく使つかものにならなかったので、はがねかたまり自給じきゅうしようとかんがえた。あたらしい製鋼せいこう工場こうじょう建設けんせつには時間じかんがかかるが、小倉おぐら製鋼せいこうしょ日本にっぽん銑鉄せんてつ東京製綱とうきょうせいこうから買収ばいしゅうすれば、すぐにずくこう一貫いっかん作業さぎょう可能かのうになる。それで1918ねん大正たいしょう7ねん)10がつ23にちやく1200まんえん工場こうじょう930まんえん付属ふぞくぶつ物品ぶっぴん350まんえん)(金額きんがくわないが典拠てんきょのまましるす。)で小倉おぐら製鋼せいこうしょ買収ばいしゅうし、12月7にち資本しほんきん1500まんえん払込はらいこみ600まんえん)で株式会社かぶしきがいしゃ浅野あさの小倉こくら製鋼せいこうしょ設立せつりつし、浅野あさの総一郎そういちろう社長しゃちょうに、横山よこやま徳次郎とくじろう常務じょうむ就任しゅうにんした[2]。また、1921ねん大正たいしょう10ねん)2がつ帝国ていこく特殊とくしゅ煉瓦れんが買収ばいしゅうし、1925ねん大正たいしょう14ねん)3がつ日本にっぽん銑鉄せんてつ吸収きゅうしゅうした[1]

終戦しゅうせん鉄鋼てっこう暴落ぼうらく買収ばいしゅう支払しはらいが困難こんなん

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小倉おぐら製鋼せいこうしょ買収ばいしゅう費用ひよう1200まんえんは、いちねんもとれる計算けいさんで、最初さいしょに600まんえんはら半年はんとしのこりの600まんえんはら予定よていだった。だが、調印ちょういんいち週間しゅうかん戦争せんそうわると、米国べいこく鉄鋼てっこう輸出ゆしゅつ解禁かいきんし、鉄鋼てっこう価格かかく半額はんがく暴落ぼうらくして、買収ばいしゅう支払しはらいが困難こんなんになった。苦境くきょうにあえいだ浅野あさの総一郎そういちろうは、東京製綱とうきょうせいこう契約けいやく内容ないよう変更へんこうもとめたが拒否きょひされた。それで、渋沢しぶさわ栄一えいいち仲裁ちゅうさい依頼いらいした。1919ねん大正たいしょう8ねん)6がつ26にち渋沢しぶさわ両者りょうしゃ裁定さいていしょ交付こうふ受諾じゅだくさせた。その内容ないようは、支払しはらいの一部いちぶ100まんえん浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ株式かぶしき代用だいようする。未払金みはらいきんやく550まん8せんえん支払しはらいを延期えんきするかわりに利子りしはらう、1922ねん大正たいしょう11ねん)と翌年よくねんに200まんえんずつはらい、1924ねん大正たいしょう13ねん)にのこ全部ぜんぶはらうというものだった[2][3]。しかし、きょうつづいたのでこの裁定さいていそくした支払しはらいも困難こんなんになった。そこで浅野あさの総一郎そういちろうふたた渋沢しぶさわ栄一えいいち仲裁ちゅうさいたのみ、1923ねん大正たいしょう12ねん)10がつ27にちあらたな裁定さいてい契約けいやくなおした。930まんえんを11年間ねんかん分割払ぶんかつばらいするというものだった。ところが、景気けいきがどんどん悪化あっかしていくので支払しはら困難こんなんになり、毎月まいつきのように契約けいやく改定かいていして支払しはらい期限きげん延長えんちょうした。1934ねん昭和しょうわ9ねん)7がつに、ようやく支払しはらいを完了かんりょうした。会社かいしゃ設立せつりつ以来いらい16ねんもかかって、元利がんり合計ごうけいやく1500まんえん支払しはらった。戦時せんじちゅう会社かいしゃ設立せつりつした1918ねん大正たいしょう7ねん)10がつごろ相場そうばいちトンあたり、銑鉄せんてつ560えんはがねかたまり800えん鋼板こうはん1800えんだったが終戦しゅうせん半額はんがくになり、そのつづけて、銑鉄せんてつ22えんはがねかたまり40えん鋼板こうはん50えんたっした。浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ最悪さいあく時期じき設立せつりつされたのだった[4]。そのせいで、1920年代ねんだいには、業績ぎょうせき浅野あさの財閥ざいばつ主要しゅようきゅうしゃなか一番いちばんわるかった[3]

すえけんよう経営けいえい改善かいぜん

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浅野あさの総一郎そういちろう官営かんえい八幡やはた製鉄せいてつしょはたらいていたすえけんよう浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょいて、専務せんむあるいは常務じょうむえた。このすえけんよう職工しょっこうからのはたげで、じゅうねん以上いじょうてつたずさわって研究けんきゅうつづけ、実地じっち知識ちしきでは日本一にっぽんいちわれた人物じんぶつだった[5]すえけん事実じじつじょう浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ支配しはいしゃになると、原料げんりょうたたくだけたたいてやすい、販売はんばいでは老獪ろうかい問屋とんやかす手腕しゅわん発揮はっきしたが、なによりも技術ぎじゅつてき努力どりょく経営けいえい改善かいぜんした[6]。すなわち1925ねん大正たいしょう14ねん)に80kgの小型こがたこうかたまり生産せいさん成功せいこうした。これはぶんかたまり作業さぎょうくして材料ざいりょう大幅おおはばげる画期的かっきてき出来事できごとだった。1928ねん昭和しょうわ3ねん)にはぶんかたまり作業さぎょう完全かんぜん休止きゅうししたので、生産せいさん経営けいえい一大いちだい転機てんきとなり、生産せいさん飛躍ひやくてき増加ぞうかして営業えいぎょう成績せいせき好転こうてんした。そのほかにもまつけんしき電信でんしんせん鉄道てつどうしょう逓信ていしんしょう納入のうにゅうした[1]

小倉おぐら事業じぎょう

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浅野あさの総一郎そういちろうは1918ねん大正たいしょう7ねん)12月の会社かいしゃ設立せつりつ同時どうじに、浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ埋立うめたて事業じぎょうつくり、小倉こくら前面ぜんめんうみてて54まんつぼ模範もはんてき都市とし建設けんせつする計画けいかく県庁けんちょう出願しゅつがんしたが、規模きぼおおぎてなかなか許可きょかされなかった。1923ねん大正たいしょう12ねんまつに32まんつぼ縮小しゅくしょうされてようやく許可きょかされた。翌年よくねん埋立うめたて開始かいしいちまんトンのふねよんせき同時どうじ係留けいりゅう可能かのう桟橋さんばし堤防ていぼう運河うんが航路こうろふねまりつくはじめた。浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ経営けいえいなん一時いちじ中断ちゅうだんしたが経営けいえい改善かいぜんすると再開さいかいした[5]。1931ねん昭和しょうわ6ねん)7がつ埋立うめたて事業じぎょう設備せつび浅野あさの財閥ざいばつ新設しんせつした小倉おぐら築港ちっこう株式会社かぶしきがいしゃ小倉興産こくらこうさん)にわたした[1]

軍需ぐんじゅ景気けいき業績ぎょうせき好転こうてん

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昭和しょうわ恐慌きょうこう直中ただなか1930ねん昭和しょうわ5ねん)11月9にちに、浅野あさの総一郎そういちろうぼっした。その翌年よくねん1931ねん昭和しょうわ6ねん)9がつ満州まんしゅう事変じへんはじまると、軍需ぐんじゅ景気けいき鉄鋼てっこう業界ぎょうかいまれ活況かっきょうていしてきた。同年どうねん12がつ資本しほんきんを1500まんえんから750まんえん減資げんししたのだが、1932ねん昭和しょうわ7ねん)9がつよんごう平炉へいろ建設けんせつはじ翌年よくねんがつ操業そうぎょう開始かいしした。そのにガス発生はっせい増設ぞうせつづくりかたまり工場こうじょう拡充かくじゅうした。その結果けっか前年度ぜんねんどで133%きょう増産ぞうさんとなった。1933ねん昭和しょうわ8ねん上期かみきには前年ぜんねん前々まえまえねん平均へいきんよんばい利益りえきたが、これは平均へいきん払込はらいこみ資本しほんきんの106%という巨額きょがく利益りえきりつだった。それで、ながあいだ停止ていししていた配当はいとうとし6%で再開さいかいし、とし10%からとし15%をて1935ねん昭和しょうわ10ねん)からはとし12%を安定あんてい配当はいとうした。さらにせんざい工場こうじょう増築ぞうちくせんざい加熱かねつ増設ぞうせつで、1934-1935ねん昭和しょうわ9-10ねんには、1931ねん昭和しょうわ6ねんで250%きょう生産せいさん増強ぞうきょう達成たっせいした[1]。1934ねん昭和しょうわ9ねん)に浅野あさの同族どうぞく会社かいしゃ浅野あさの財閥ざいばつ本社ほんしゃ)は、安田やすだ銀行ぎんこう日本にっぽん昼夜ちゅうや銀行ぎんこう安田やすだ財閥ざいばつ)から319まんえん借入かりい浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ全額ぜんがく払込はらいこみにして工事こうじ資金しきんにし、さらに浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ株式かぶしきよんまんかぶ売却ばいきゃくして、売却ばいきゃくえきやく463まんえん借入かりいれ返済へんさいてた[3]同年どうねん日本にっぽん製鐵せいてつ設立せつりつされて官営かんえい八幡やはた製鉄せいてつしょ三井みつい財閥ざいばつ三菱みつびし財閥ざいばつ製鉄せいてつ会社かいしゃ参加さんかしたが、浅野あさの財閥ざいばつさんしゃである浅野あさの小倉おぐら製鋼せいこうしょ浅野あさの造船ぞうせんしょ製鉄せいてつ)・日本鋼管にほんこうかん経営けいえい改善かいぜんしていたので、政府せいふ方針ほうしんさからって参加さんか拒否きょひした[7]。1936ねん昭和しょうわ11ねん)になると屑鉄くずてつ払底ふっていして価格かかく暴騰ぼうとうし、原料げんりょうなん生産せいさん下降かこうした。それを打開だかいするためにずくこう一貫いっかん作業さぎょう体制たいせい確立かくりつしようと、日産にっさん350トンのブラウンしき高炉こうろ付帯ふたい設備せつび建設けんせつ開始かいしし、だい製鋼せいこう工場こうじょう建設けんせつ開始かいしした。同年どうねん12がつに、株式会社かぶしきがいしゃ浅野あさの小倉こくら製鋼せいこうしょから小倉おぐら製鋼せいこう株式会社かぶしきがいしゃ改称かいしょうした。1937ねん昭和しょうわ12ねん)4がつに、資本しほんきんを1600まんえん増資ぞうしして建設けんせつ工事こうじ資金しきんてた。同年どうねん7がつ盧溝橋ろこうきょう事件じけんこってにちちゅう戦争せんそうはじまると、戦時せんじ経済けいざい業績ぎょうせき目覚めざましくびたので、1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつ資本しほんきんばいの3200まんえん増資ぞうしした。1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつに、だいいちだか火入ひいれして念願ねんがんずくこう一貫いっかん作業さぎょう実現じつげんして、製鋼せいこう原料げんりょう自給じきゅうりつげていって、原料げんりょう不足ふそく問題もんだい解決かいけつした。1942ねん昭和しょうわ17ねん)3がつにはだいだか完成かんせいしたが、原料げんりょう事情じじょうなどのために火入ひいれできなかった。1944ねん昭和しょうわ19ねんはじめには原料げんりょう労働ろうどうりょく不足ふそくのせいで突然とつぜん生産せいさん減少げんしょうした。2月11にちには浅野あさの重工業じゅうこうぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺいして、資本しほんきん3580まんえんになり、小倉おぐら製鋼せいこう株式会社かぶしきがいしゃから浅野あさの重工業じゅうこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ改称かいしょうした。さいわい戦争せんそう直接的ちょくせつてき被害ひがいがないまま終戦しゅうせんむかえた。だいいち高炉こうろ終戦しゅうせん同時どうじ休止きゅうしした[1]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)に会社かいしゃめい浅野あさの重工業じゅうこうぎょうから小倉おぐら製鋼せいこうもどした[8]同年どうねん12がつ労働ろうどう組合くみあい結成けっせいされて、労働ろうどう争議そうぎ要求ようきゅう闘争とうそう生産せいさん低迷ていめいしたが、1948ねん昭和しょうわ23ねん)に労働ろうどう組合くみあい分裂ぶんれつして穏健おんけんすると、生産せいさん急上昇きゅうじょうしょうした。翌年よくねん資本しほんきんいちおくえんだったが、おくえんよんおくえんはちおくえん毎年まいとし倍増ばいぞうした。1948ねん昭和しょうわ23ねん)に財閥ざいばつ同族どうぞく支配しはいりょく排除はいじょほう浅野あさの財閥ざいばつ直系ちょっけい会社かいしゃ指定していされたが、浅野あさの関係かんけいしゃ全員ぜんいんまえもって辞任じにんしていた。1950ねん昭和しょうわ25ねん)6がつ朝鮮ちょうせん戦争せんそうはじまると鉄鋼てっこうぎょうこうきょうになったので、翌年よくねん1がつだいごう高炉こうろ火入ひいれしてずくこう一貫いっかん体制たいせいもどし、さらにあらたに工場こうじょうもうけた。ところがこうきょう長続ながつづきせず、業績ぎょうせき低迷ていめいしたので提携ていけいさきさがした。そのころ住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう原料げんりょう屑鉄くずてつ減少げんしょう不足ふそくしたので、高炉こうろ会社かいしゃとの提携ていけいもとめていた。両者りょうしゃ利害りがい一致いっちして、1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ資本しほん提携ていけいし、12月26にち小倉おぐら製鋼せいこう住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた。小倉こくら製鋼せいこう社長しゃちょう中村なかむらため住友金属工業すみともきんぞくこうぎょうふく社長しゃちょうになった[1]

住友金属工業すみともきんぞくこうぎょうのちしん日本にっぽん製鉄せいてつ合併がっぺいして新日鉄しんにってつ住金すみきんとなったが、その日本にっぽん製鉄せいてつ改称かいしょうした[9]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g 住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう(1957ねん)『住友金属工業すみともきんぞくこうぎょうろくじゅうねん小史しょうし住友金属工業すみともきんぞくこうぎょう、87ぺーじ、248-261ぺーじ
  2. ^ a b 渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん[デジタルばん渋沢しぶさわ栄一えいいち伝記でんき史料しりょう株式会社かぶしきがいしゃ浅野あさの小倉こくら製鋼せいこうしょたい東京製綱とうきょうせいこう株式会社かぶしきがいしゃ紛議ふんぎ仲裁ちゅうさい、1ぺーじ 2023ねん2がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c 斎藤さいとうけん(1998ねん)『かせぐにいつく貧乏びんぼうなし』東京とうきょう経済けいざい新報しんぽうしゃ、169-175ぺーじ、196ぺーじ、222-225ぺーじ ISBN 4-492-06106-1
  4. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん デジタルばん渋沢しぶさわ栄一えいいち伝記でんき史料しりょう株式会社かぶしきがいしゃ浅野あさの小倉こくら製鋼せいこうしょたい東京製綱とうきょうせいこう株式会社かぶしきがいしゃ紛議ふんぎ仲裁ちゅうさい 、2ぺーじ2023ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 帝国ていこく興信所こうしんじょ(1929ねん)『財閥ざいばつ研究けんきゅう だいいち輯』帝国ていこく興信所こうしんじょ、262-263ぺーじ、299ぺーじ、339ぺーじ
  6. ^ 中外ちゅうがい産業さんぎょう調査ちょうさかい(1937ねん)『中堅ちゅうけん財閥ざいばつしん研究けんきゅう 関東かんとうへん中外ちゅうがい産業さんぎょう調査ちょうさかい、191-194ぺーじ、231-232ぺーじ
  7. ^ 森川もりかわ英正ひでまさ(1986ねん)『日本にっぽん財閥ざいばつ教育きょういくしゃ、214ぺーじ ISBN 4-315-40248-6 
  8. ^ 渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん 渋沢しぶさわ栄一えいいち関連かんれん会社かいしゃめい団体だんたいめい変遷へんせん せいつなせいぎょう 2023ねん2がつ12にち閲覧えつらん
  9. ^ 日本にっぽん製鉄せいてつ 沿革えんかく2023ねん2がつ12にち閲覧えつらん