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無党派 - Wikipedia

無党派むとうは

どの政党せいとう支持しじしていないひと

無党派むとうは(むとうは)は、どの政党せいとうにもぞくしていないひとや、どの政党せいとう支持しじしていないひとのことである。公職こうしょく議員ぎいん首長しゅちょう党派とうはぞくしていない場合ばあいおも無所属むしょぞくという。

無党派むとうはそう

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有権者ゆうけんしゃのうち支持しじ政党せいとうたないそう無党派むとうはそうまたは政党せいとう支持しじなしそうという[1]

初期しょき投票とうひょう行動こうどう分析ぶんせきでは、無党派むとうはそう政治せいじてき関心かんしんうす有権者ゆうけんしゃそうとされ、政治せいじてきにもほとんど重視じゅうしされなかった[1]。しかし無党派むとうはそうにも政治せいじてき関心かんしんたか投票とうひょうおこなものおおいことがわかってきており、無党派むとうはそう投票とうひょう行方ゆくえ政治せいじおおきく左右さゆうすることもある[1]。そのため、選挙せんきょにおいて当選とうせんするには無党派むとうは支持しじ拡大かくだいすることが重要じゅうようといわれることもある。

日本にっぽん政治せいじ学者がくしゃである田中たなか愛治あいじは、投票とうひょう行動こうどう分析ぶんせきして無党派むとうはそうを、そもそも政治せいじてき関心かんしん投票とうひょうくこともすくない政治せいじてき関心かんしんそう政治せいじ関心かんしんはあるが支持しじ政党せいとうをもたない政党せいとう拒否きょひそう、かつて支持しじ政党せいとうをもっていただつ政党せいとうそうの3つに分類ぶんるいしている[2]

政党せいとうにとっては既存きそん支持しじそう利益りえき無党派むとうはそう期待きたい両方りょうほう相反あいはんする場合ばあいには政策せいさく判断はんだんなやましい問題もんだいとなる[2]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

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アメリカでは投票とうひょう行動こうどう分析ぶんせき研究けんきゅうとく発達はったつしてきた[3]

1950年代ねんだい世論せろん調査ちょうさをもとにしたミシガン大学だいがくでの研究けんきゅう投票とうひょうしゃ政党せいとう帰属きぞく意識いしき政党せいとう支持しじ態度たいど)の観点かんてんから分析ぶんせきおこなうもので「ミシガン・モデル」または「政党せいとう帰属きぞく意識いしきモデル」として投票とうひょう行動こうどう理論りろん古典こてんてき地位ちいめた[4]。ところが、1960年代ねんだい中盤ちゅうばん以降いこうになると政党せいとうばなれによる無党派むとうはそう増大ぞうだい争点そうてん志向しこう増大ぞうだいにより投票とうひょう行動こうどうモデルの修正しゅうせい必要ひつようとなった[5]

1960年代ねんだいにはベトナム戦争せんそう人種じんしゅ問題もんだいといったあらたな問題もんだい背景はいけいに、候補者こうほしゃ評価ひょうか基準きじゅん所属しょぞく政党せいとうではなく争点そうてんげる有権者ゆうけんしゃ増大ぞうだいした[5]。このような投票とうひょう行動こうどうをもとにした投票とうひょうモデルは争点そうてん投票とうひょうモデルとばれる[5]

1970年代ねんだいになりベトナム戦争せんそうなどが主要しゅよう政策せいさくじょう争点そうてんからはずれると争点そうてん投票とうひょうモデルの有効ゆうこうせい低下ていか[5]、かわって政権せいけん業績ぎょうせきたいするラフな評価ひょうか投票とうひょう行動こうどう影響えいきょうしているとみる業績ぎょうせき投票とうひょうモデルが登場とうじょうした[6]。この業績ぎょうせき評価ひょうかモデルは政党せいとう帰属きぞく意識いしきモデルと対立たいりつするものではなく、政党せいとう帰属きぞく意識いしきモデルに業績ぎょうせき評価ひょうか観点かんてんんだ投票とうひょう行動こうどうモデルである[6]

日本にっぽん

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無党派むとうはそう増大ぞうだい

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1976ねん12月のだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ公示こうじ1週間しゅうかんまえ評論ひょうろん活動かつどうをしていた元職げんしょく麻生あそうりょうかたは「無党派むとうは立候補りっこうほ宣言せんげん」をし、きゅう東京とうきょう1において無所属むしょぞくでトップ当選とうせんたした[7]おなじく無所属むしょぞく立候補りっこうほして当選とうせんした宇都宮うつのみや徳馬とくま鳩山はとやま邦夫くにお麻生あそうの3にんはそれぞれ思想しそうてき背景はいけいことなっていたが、だい80かい国会こっかい召集しょうしゅうされた同年どうねん12がつ30にち会派かいは無党派むとうはクラブ」を結成けっせいした[8]

日本にっぽんでは無党派むとうはそうは1960年代ねんだい後半こうはんまでは有権者ゆうけんしゃの1わり程度ていどであった[1]当時とうじ冷戦れいせん構造こうぞうであったのにくわえて、日本にっぽん社会しゃかいにおいても有産ゆうさん階級かいきゅう無産むさん階級かいきゅうかれていた時代じだい名残なごりがまだのこっており、有権者ゆうけんしゃ政党せいとう支持しじ傾向けいこうもそれを反映はんえいしていたといえる。その日本にっぽん高度こうど経済けいざい成長せいちょうともな中流ちゅうりゅうそう増大ぞうだいにより、1970年代ねんだいから1990年代ねんだいはじめにかけて無党派むとうはそう有権者ゆうけんしゃの2わりから3わり程度ていどとなったものの、政党せいとう支持しじそうくらべると少数しょうすうであった[1]。しかし、冷戦れいせん構造こうぞう崩壊ほうかいいちおくそう中流ちゅうりゅう社会しゃかいとなった1990年代ねんだい無党派むとうはそう急増きゅうぞうし、1990年代ねんだい中頃なかごろには無党派むとうはそう有権者ゆうけんしゃ半数はんすう前後ぜんこうめるようになった[1]

1991ねん山梨やまなし県知事けんちじ選挙せんきょ政党せいとう推薦すいせん支援しえんがない天野あまのけんよんだい政党せいとう支援しえんするもとふく知事ちじ候補こうほやぶって当選とうせんし、のちに「無党派むとうは知事ちじ」のさきがけばれた。また、1995ねん東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょ大阪おおさか府知事ふちじ選挙せんきょ無所属むしょぞく青島あおしま幸男ゆきお横山よこやまノック当選とうせんし、既成きせい政党せいとう候補こうほやぶれたとき無党派むとうは注目ちゅうもくされるようになった。同年どうねん、「無党派むとうは」は新語しんご流行りゅうこう大賞たいしょう年間ねんかん大賞たいしょうえらばれた。

1990年代ねんだい無党派むとうはそう増大ぞうだいは、国際こくさいてきには冷戦れいせん構造こうぞう終焉しゅうえん国内こくないてきには55ねん体制たいせい崩壊ほうかい政党せいとう分裂ぶんれつ新党しんとう結成けっせいなどによる有権者ゆうけんしゃ認知にんちてき協和きょうわ原因げんいんにあるとされている[9]。また、たびかさなる政治せいじ汚職おしょく政治せいじ不信ふしんなどが有権者ゆうけんしゃ政治せいじたいする関心かんしん増大ぞうだいさせつつあり、てい投票とうひょうりつ場合ばあい組織そしきひょうまさ政党せいとう勝利しょうりするケースがおおいため、選挙せんきょくこと自体じたい無意味むいみかんがえる人々ひとびとおおいこともげられている。個々人ここじん価値かちかん極度きょくど多様たようしていることも、特定とくてい政党せいとう支持しじしづらいことにつながっている。日本にっぽんにおいていちおくそう中流ちゅうりゅう社会しゃかい崩壊ほうかいした21世紀せいきはいってからも、その傾向けいこうはさらにつづいている。

1990年代ねんだい増大ぞうだいした無党派むとうはそうは、かならずしもすべてが政治せいじてき関心かんしんひくそうというわけではなく、政治せいじてき関心かんしんをもち投票とうひょう有権者ゆうけんしゃそうもあることから、無党派むとうはそう投票とうひょう行方ゆくえ政治せいじおおきく左右さゆうすることもある[1]2000ねん衆議院しゅうぎいん選挙せんきょ直前ちょくぜん無党派むとうはそう野党やとう民主党みんしゅとうおお投票とうひょうすると予想よそうされていたため、当時とうじ首相しゅしょうもり喜朗よしろうは「無党派むとうはそうていてくれれば」と発言はつげんして批判ひはんされた[10]

2005ねん衆議院しゅうぎいん選挙せんきょでの自民党じみんとう大勝たいしょうは、無党派むとうはそう投票とうひょう動向どうこう選挙せんきょ結果けっかおおきく影響えいきょうした事例じれいかんがえられている[11]

無党派むとうはそう選挙せんきょ活動かつどう

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無党派むとうはそう投票とうひょう行動こうどう分析ぶんせきする場合ばあい棄権きけん政党せいとう候補こうほへの投票とうひょう無所属むしょぞく候補こうほへの投票とうひょうかんがえられる[2]既存きそん政党せいとうにマイナスのイメージをっている有権者ゆうけんしゃたいしては無所属むしょぞく候補こうほ有利ゆうりとなり、政党せいとう支持しじけている候補者こうほしゃ政党せいとうしょくおさえた選挙せんきょ活動かつどうおこなうことがある。また、消極しょうきょくてき無党派むとうはそうむためのさくとして、タレント候補こうほてることがある。おおくは比例ひれい代表だいひょうせい拘束こうそく名簿めいぼしき候補者こうほしゃ名簿めいぼかれ、そのファンなどのひょう期待きたいするものである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g 堀江ほりえじん 2007, p. 142.
  2. ^ a b c 堀江ほりえじん 2007, p. 143.
  3. ^ 堀江ほりえじん 2007, p. 134.
  4. ^ 堀江ほりえじん 2007, pp. 135–136.
  5. ^ a b c d 堀江ほりえじん 2007, p. 136.
  6. ^ a b 堀江ほりえじん 2007, p. 137.
  7. ^ 麻生あそうりょうかた「〝ヒモ〟つき候補こうほ挑戦ちょうせんする」 『経済けいざい往来おうらい』1979ねん3がつごう経済けいざい往来おうらいしゃ、128-147ぺーじ
  8. ^ だい80かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん 議院ぎいん運営うんえい委員いいんかい だい1ごう 昭和しょうわ51ねん12月30にち”. 国会こっかい会議かいぎろく検索けんさくシステム. 2023ねん11月18にち閲覧えつらん
  9. ^ 堀江ほりえじん 2007, p. 138.
  10. ^ 首相しゅしょう無党派むとうはていてくれれば・その記者きしゃだん訂正ていせい2000ねん6がつ20にちNIKKEI NET選挙せんきょニュース、2015ねん12月31にち閲覧えつらん
  11. ^ 堀江ほりえじん 2007, pp. 142–143.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 橋本はしもとあきら民意みんい主役しゅやく 無党派むとうはそう研究けんきゅう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2004ねんISBN 9784120035333 
  • 堀江ほりえじん政治せいじがく行政ぎょうせいがく基礎きそ知識ちしきだい2はん)』一藝いちげいしゃ、2007ねんISBN 9784901253918 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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