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藤田謙一 - Wikipedia

藤田ふじた謙一けんいち

日本にっぽん実業じつぎょう

藤田ふじた 謙一けんいち(ふじた けんいち、1873ねん明治めいじ6ねん1がつ5にち - 1946ねん昭和しょうわ21ねん3月12にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう政治せいじ日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ初代しょだい会頭かいとう貴族きぞくいん議員ぎいん

藤田ふじた謙一けんいち
ふじた けんいち
生年月日せいねんがっぴ 1873ねん1がつ5にち
出生しゅっしょう 青森あおもりけん弘前ひろさき
ぼつ年月日ねんがっぴ (1946-03-12) 1946ねん3月12にち(73さいぼつ
出身しゅっしんこう 旧制きゅうせい明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう
げん明治大学めいじだいがく
ぜんしょく 日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ 初代しょだい会頭かいとう
東京とうきょう商業しょうぎょう会議かいぎしょ 会頭かいとう
帝国ていこく火災かさい保険ほけん 社長しゃちょう
日本にっぽん興亜こうあ損害そんがい保険ほけん[1]
日本にっぽん活動かつどう写真しゃしん 社長しゃちょう
箱根はこね土地とち 社長しゃちょう
げんプリンスホテル
台湾たいわんしおぎょう 専務せんむ取締役とりしまりやく
岩谷いわたに商会しょうかい 専務せんむ理事りじ
広島ひろしま瓦斯がすでんげん広島電鉄ひろしまでんてつおよび広島ひろしまガス社長しゃちょう
東京とうきょう毛織けおり 専務せんむ取締役とりしまりやく
鈴木すずき商店しょうてん 顧問こもん
親族しんぞく ちち明石あかし永吉えいきち
息子むすこ広瀬ひろせ謙次郎けんじろう

日本の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
選挙せんきょ みことのりせん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1928ねん4がつ4にち - 1935ねん10月4にち
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人物じんぶつ来歴らいれき

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青森あおもりけん[2]弘前ひろさきに、武将ぶしょう明石あかしぜんとう末裔まつえい津軽つがる藩士はんしだったちち明石あかし永吉えいきちははともの次男じなんとしてまれる[3]。5さいのときに、親戚しんせき藤田ふじた正三郎しょうざぶろう養子ようしとなり、藤田ふじたせい名乗なの[3]

ひがし奥義おうぎじゅく中退ちゅうたい、1891ねん明治めいじ24ねん)に上京じょうきょう[3]東京とうきょう神田駿河台かんだするがだい明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう現在げんざい明治大学めいじだいがく)に入学にゅうがくする[2][3]法学ほうがく博士はかせ熊野くまの敬三けいぞう書生しょせいになる[3]同学どうがく卒業そつぎょうし、大蔵省おおくらしょう現在げんざい財務省ざいむしょう)に入省にゅうしょうする[2]

1901ねん明治めいじ34ねん)に大蔵省おおくらしょうし、よく1902ねん明治めいじ35ねん)、「天狗てんぐ煙草たばこ」でられる岩谷いわたに松平まつへい岩谷いわたに商会しょうかい支配人しはいにんとなる[2]岩谷いわたに個人こじん商店しょうてんだった岩谷いわたに商会しょうかい会社かいしゃ組織そしきし、専務せんむ理事りじとなった。1904ねん明治めいじ37ねん)の専売せんばいせい実施じっしさい政府せいふによる同社どうしゃ買収ばいしゅう金額きんがく莫大ばくだいなものとした。

1909ねん明治めいじ42ねん)5がつ東洋とうよう製塩せいえん入社にゅうしゃ取締役とりしまりやくとなり再建さいけん尽力じんりょくよく1910ねん明治めいじ43ねん)には同社どうしゃ台湾たいわんしおぎょう改称かいしょうし、専務せんむ取締役とりしまりやく就任しゅうにん[2]鈴木すずき商店しょうてん顧問こもんとなった。1912ねん大正たいしょう元年がんねん)9がつ10日とおか映画えいが会社かいしゃ4しゃ統合とうごうによる日活にっかつ設立せつりつ音頭おんどをとり、のちに同社どうしゃ社長しゃちょうとなるほか[3]つつみ康次郎やすじろうまねかれ千ヶ滝せんがたきゆう園地えんち(1917ねん)、箱根はこね土地とち(1920ねんコクド現在げんざいプリンスホテル合併がっぺい)の社長しゃちょう就任しゅうにん東京とうきょう毛織けおり専務せんむ取締役とりしまりやく広島ひろしま瓦斯がすでん現在げんざい広島電鉄ひろしまでんてつ広島ひろしまガス社長しゃちょう、そのほか、おおくの会社かいしゃ代表だいひょう取締役とりしまりやく歴任れきにん育英いくえい事業じぎょうがけるべく、東京とうきょう藤田ふじた育英いくえいしゃ創立そうりつする[3]

1926ねん大正たいしょう15ねん)、53さいのとき、藤山ふじやま雷太らいた指田さしだ義雄よしおいで東京とうきょう商業しょうぎょう会議かいぎしょだい3だい会頭かいとうとなる[2]。1928ねん昭和しょうわ3ねん)、55さいのとき、日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ初代しょだい会頭かいとう就任しゅうにん[2]同年どうねん4がつ4にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんとなる。また、国際こくさい労働ろうどう会議かいぎ資本しほん代表だいひょうとして出席しゅっせきしている[2]同年どうねん八千代やちよ生命せいめい保険ほけん小原おはらいたるあきら帝国ていこく火災かさい保険ほけん社長しゃちょう退陣たいじん藤田ふじたがかわって社長しゃちょう就任しゅうにんしている[4]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)、上野公園うえのこうえん開催かいさいされた大礼たいれい記念きねん国産こくさん振興しんこう博覧はくらんかい会長かいちょうつとめる。同年どうねん3がつ24にち開会かいかいしきには、じん親王しんのうむかえた[5]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)11月6にちうれくん事件じけんしょうくんきょく総裁そうさいてんおかただしよしみくんさんとう受章じゅしょう見返みかえりに5,000えんおくったとして召喚しょうかん収容しゅうようされるが[6]即日そくじつ釈放しゃくほうされる。1935ねん昭和しょうわ10ねん)9がつ28にち大審院だいしんいん上告じょうこく棄却ききゃくされ、藤田ふじた懲役ちょうえき3がつ執行しっこう猶予ゆうよ3ねん)の判決はんけつ確定かくていする。これによりくんさんとうおよだいいちかい国勢調査こくせいちょうさ記念きねんあきら大礼たいれい記念きねんあきら昭和しょうわ紺綬こんじゅ褒章ほうしょう褫奪ちだつされ[6][7]同年どうねん10がつ4にち貴族きぞくいん除名じょめい[8]となり、政界せいかい引退いんたいする。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつ12にち死去しきょ[2]まん73さいぼつ

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽん興亜こうあ損保そんぽのご紹介しょうかい沿革えんかく 日本にっぽん興亜こうあ損害そんがい保険ほけん公式こうしきホームページ 2010ねん6がつ5にち閲覧えつらん[リンク]
  2. ^ a b c d e f g h i コトバンクサイトない記事きじ藤田ふじた謙一けんいち」の記述きじゅつ参照さんしょう
  3. ^ a b c d e f g 企業きぎょう人物じんぶつ辞典じてんサイトない記事きじ藤田ふじた謙一けんいち」のこう記述きじゅつ参照さんしょう
  4. ^ 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん掲載けいさいの1928ねん11月3にちづけ記事きじ帝国ていこく火災かさい紛糾ふんきゅうさんまんかぶ問題もんだい」(神戸大学こうべだいがく附属ふぞく図書館としょかん新聞しんぶん記事きじ文庫ぶんこ)の記述きじゅつ参照さんしょう
  5. ^ 黒山くろやま人垣ひとがき-初日しょにち会場かいじょういちじゅん東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ3ねん3がつ25にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい1かん 昭和しょうわ元年がんねん-昭和しょうわ3ねん本編ほんぺんp162 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  6. ^ a b 勲章くんしょうたかります」47さい借金しゃっきんしょくなしのおとこが“うれくん事件じけん”にめるまで
  7. ^ 官報かんぽう 1938ねん9がつ30にち きゅうはちぺーじ
  8. ^ 議員ぎいん除名じょめい」『官報かんぽう』1935ねん10がつ5にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタル資料しりょう

関連かんれん事項じこう

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先代せんだい
小原おはらいたるあきら
帝国ていこく火災かさい保険ほけん社長しゃちょう
だい3だい:1928ねん
次代じだい
川崎かわさきはじめ
先代せんだい
初代しょだい
日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとう
初代しょだい:1928ねん - 1930ねん
次代じだい
ごう誠之助せいのすけ