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衣笠映画聯盟 - Wikipedia

衣笠きぬがさ映画えいが聯盟れんめい(きぬがさえいがれんめい、しん字体じたい表記ひょうき衣笠きぬがさ映画えいが連盟れんめい)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん映画えいが制作せいさくプロダクションである。1926ねん大正たいしょう15ねん)にころもりゅう貞之助ていのすけ監督かんとく松竹しょうちく下加茂したかも撮影さつえいしょうち設立せつりつし、松竹しょうちくキネマ配給はいきゅう時代じだいげき映画えいが製作せいさくした。ここからはやしちょう二郎じろう長谷川はせがわ一夫かずお)が映画えいがデビューし、また円谷つぶらや英二えいじ在籍ざいせきしていた。1928ねん昭和しょうわ3ねん)に衣笠きぬがさわたりおうしたことで聯盟れんめい解消かいしょうした。

略歴りゃくれき

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1926ねん大正たいしょう15ねん)、ころもりゅう貞之助ていのすけ小説しょうせつ横光よこみつ利一としかず川端かわばた康成やすなりらとともにしん感覚かんかく映画えいが聯盟れんめい設立せつりつし、『きょうつたいちぺーじ』を製作せいさくすることになった。同年どうねん4がつ報知ほうち新聞しんぶんに「しん感覚かんかく映画えいが聯盟れんめいせいまる」の記事きじ掲載けいさいされたが、この記事きじ松竹しょうちくキネマ白井しらい信太郎しんたろうから犬塚いぬづかみのるつうじて、たまたまいていた下加茂したかも撮影さつえいしょ使つかってみないかとのもうがあり、衣笠きぬがさとスタッフはどう撮影さつえいしょで『きょうつたいちぺーじ』を撮影さつえいした[1][2]どうさくのスタッフには撮影さつえい技師ぎし杉山すぎやま公平こうへいかれ撮影さつえい助手じょしゅ円谷つぶらや英一ひでかず円谷つぶらや英二えいじ)、監督かんとく助手じょしゅ小石こいし栄一えいいちなどがいた。

同年どうねん6がつに『きょうつたいちぺーじ』が完成かんせいし、衣笠きぬがさ上京じょうきょうして上映じょうえいかん確保かくほのために奔走ほんそうしたが、なかなか上映じょうえいさきつけることはできなかった[3][4]。そのあいだスタッフは京都きょうと合宿がっしゅくいつなぎして、衣笠きぬがさからの吉報きっぽうつという状況じょうきょうつづき、無一文むいちもんではつぎ映画えいが製作せいさくにかかれない状況じょうきょうとなっていた[3]。そこへ松竹しょうちく大谷おおや竹次郎たけじろう社長しゃちょうから毎月まいつき2ほん時代じだい劇映画げきえいがつくるというはなしまれた[3]。このころ松竹しょうちく現代げんだいげき人気にんきがあったが、時代じだいげき一向いっこうにパッとせず、そこで時代じだいげき製作せいさく注力ちゅうりょくしようとしていた[5]衣笠きぬがさはスタッフをひきいて松竹しょうちく契約けいやくむすび、衣笠きぬがさ映画えいが聯盟れんめい発足ほっそくした[1]はじめは蒲田かまた撮影さつえいしょ製作せいさくするというはなしだったが、30すうにんのスタッフを京都きょうとからせなくてはならないため、下加茂したかも撮影さつえいしょ製作せいさくすることになった[3]

衣笠きぬがさ映画えいが聯盟れんめいだい1さくは『くもる』(1926ねん)で[6]いで『麒麟児きりんじ』(1926ねん)などを松竹しょうちくから受注じゅちゅう製作せいさくするが、観客かんきゃくべる時代じだいげきスターが不在ふざいのままだった。そこでよく1927ねん昭和しょうわ2ねん)に松竹しょうちく本社ほんしゃから新人しんじん俳優はいゆうはやしちょうまるあずかり、はやしちょう二郎じろう改名かいめいして『稚児ちご剣法けんぽう』でデビューした[6]松竹しょうちくだい規模きぼ宣伝せんでんもあり、はやし多数たすう女性じょせいファンを獲得かくとくするほどの人気にんきスターとなった。このころあらたにあし本部ほんぶ三村みつむら伸太郎しんたろう冬島ふゆしま泰三たいぞう監督かんとく小石こいし栄一えいいち山崎やまざき藤江ふじえ俳優はいゆう千早ちはや晶子あきこうら須磨子すまこくわわった[6]

しかし、衣笠きぬがさ映画えいが聯盟れんめい松竹しょうちくおおざっぱな契約けいやくむすんだこともあり、毎月まいつき赤字あかじつづき、製作せいさくはつねに予算よさんがくえてしまい、松竹しょうちくへの立替たてかえきんかさむばかりだった[3][4]。そこで意欲いよくてき時代じだいげきの『十字路じゅうじろ』(1928ねん)を製作せいさくした。1928ねん昭和しょうわ3ねん)6がつ衣笠きぬがさどうさくのフィルムをたずさえてわたりおうし、衣笠きぬがさ映画えいが聯盟れんめい解消かいしょうとなった[6]

フィルモグラフィ

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全作ぜんさく製作せいさく[7]特筆とくひつ以外いがい全作ぜんさく監督かんとくころもりゅう貞之助ていのすけ特筆とくひつ以外いがい配給はいきゅう松竹しょうちくキネマである[7]

1926ねん
1927ねん
1928ねん
  • フクロウをシンボルマークとし、だい小道具こどうぐかかりみな、フクロウをえがいた半纏はんてん銀紙ぎんがみった照明しょうめいばんうらにもフクロウのがついていた。このフクロウのは、しょう人数にんずうだった衣笠きぬがさ映画えいが聯盟れんめい夜間やかん撮影さつえい連続れんぞくだったことにちなんでいる[8]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 今村いまむら 1986, p. 98
  2. ^ 衣笠きぬがさ 1977, p. 67
  3. ^ a b c d e 衣笠きぬがさ 1977, pp. 84–85
  4. ^ a b 四方田よもだ 2016, p. 202
  5. ^ 『あゝ活動かつどうだい写真しゃしん グラフ日本にっぽん映画えいが 戦前せんぜんへん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1976ねん 
  6. ^ a b c d 田中たなか 1976, pp. 68–71
  7. ^ a b ころもりゅう貞之助ていのすけ日本にっぽん映画えいがデータベース、2010ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん
  8. ^ 舞台ぶたい銀幕ぎんまくろくじゅうねん』(長谷川はせがわ一夫かずお日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃかん昭和しょうわ48ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 今村いまむら昌平しょうへい へん無声むせい映画えいが完成かんせい――講座こうざ日本にっぽん映画えいが②』岩波書店いわなみしょてん、1986ねん1がつISBN 978-4000102520 
  • ころもりゅう貞之助ていのすけ『わが映画えいが青春せいしゅん――日本にっぽん映画えいがいち側面そくめん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ489〉、1977ねん12月。ISBN 978-4121004895 
  • 田中たなか純一郎じゅんいちろう日本にっぽん映画えいが発達はったつ2――無声むせいからトーキーへ中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1976ねん1がつISBN 978-4122002968 
  • 四方田よもだいぬ彦『署名しょめいはカリガリ――大正たいしょう時代じだい映画えいが前衛ぜんえい主義しゅぎ新潮社しんちょうしゃ、2016ねん11月。ISBN 978-4-10-367109-1 

外部がいぶリンク

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