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谷氏 - Wikipedia

たに(たにし、はざまし)は、日本にっぽん氏族しぞくである[1]宇多うたはじめ佐々木ささきりゅう高島たかしま高信たかのぶさん男谷おだにしげるなおとする系統けいとうと、丹波たんば山家やまがはん主家しゅか華族かぞく子爵ししゃくいえとなったたにまもるこのみとする系統けいとうなどがある。

佐々木ささきけいたいとする系統けいとう

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佐々木ささき信綱のぶつな三男さんなん佐々木ささきやすしつな長男ちょうなん佐々木ささきけいたいたにとする。1487ねん 近江おうみはじめ主流しゅりゅう 佐々木ささき近江八幡おうみはちまん金剛こんごう金剛こんごうじょう築城ちくじょうしたのちたに近江八幡おうみはちまん武佐むさ友定ともさだじょう(たに殿どの)を築城ちくじょうする。戦国せんごく時代じだいには子孫しそんたに重春しげはる佐々木ささき後裔こうえい六角ろっかく義賢よしかたぞくして、重春しげはる重則しげのり富田とみたちょうなんしょう吉郎よしろう(佐野さの信吉のぶよし)の家臣かしんとなった。主君しゅくんしょう吉郎よしろう下野げや佐野さの養子ようしとなって佐野さのしろはいったのにしたが重則しげのり関東かんとうくだった。慶長けいちょう19ねん1614ねん)に佐野さの改易かいえきとなり、重則しげのり鳥居とりい忠政ただまさつか奥州おうしゅう岩城いわきうつった。重則しげのり長女ちょうじょ高瀬たかせきょくひさあきらいん)は徳川とくがわ頼房よりふさ側室そくしつとなり松平まつだいらよりゆきじゅう徳川とくがわ光圀みつくに生母せいぼとなった。重則しげのり長男ちょうなんじゅうゆうはじ保科ほしな正之まさゆきつかえたのち徳川とくがわ頼房よりふさつかえ、頼房よりふさ松平まつだいらよりゆきじゅう高松たかまつにゅうふうしたがって高松たかまつうつった。そのたに大老たいろう家老がろうつとめた。

家系かけい

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太郎左衛門たろうざえもん

  • 六郎ろくろうみぎ衛門えもん
  • じゅうせん ななろうみぎ衛門えもん
  • こうおや
  • 重定しげさだ
  • こうまもる
  • こうおや
  • しんしん 五郎左衛門ごろうざえもん
  • おやおも
  • じゅうけん
  • 重宗しげむね
  • 重春しげはる重治しげはる) 太郎左衛門たろうざえもん
  • 重則しげのり ひだりすけ
  • じゅうゆう ひらみぎ衛門えもん
  • じゅう 将監しょうげん
  • 重良しげよし 式部しきぶ
  • ひだりじょ ひろしりん
  • ひろしぬし

たにまもるこのみとする系統けいとう

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たにまもるこのみちちである福田ふくだ正之まさゆき谷野たにの親衛しんえい次子じし)は美濃みの土豪どごうであり、まもるこのみ伯父おじつなまもる養子ようしとなって谷野たにのせいしょうした。斎藤さいとう道三どうさん織田おだ信長のぶながつかえ、晩年ばんねんせい谷野たにのからたにあらためた。まもるこのみ羽柴はしば秀吉ひでよししたがうも、三木みきしろめで戦死せんし

あといだまもるとも武勇ぶゆうひいでて秀吉ひでよしした各地かくち転戦てんせん加増かぞうけて最終さいしゅうてきには丹波たんばなに鹿しかぐん山家やまがで1まん6,000せきりょうした。秀吉ひでよしぼつこった関ヶ原せきがはらたたかでは西にしぐんくみして田辺たなべじょうたたか参加さんかしたが、やがてひがしぐん寝返ねがえったために所領しょりょう安堵あんどされ、江戸えど幕府ばくふまくはん体制たいせいでは外様とざま大名だいみょうとして丹波たんば山家やまがはんあるじつとめた。まもるとも死後しご子孫しそん所領しょりょう分割ぶんかつかえして最終さいしゅうてきには1まんせきとなった[2]

最後さいご藩主はんしゅまもるしげるは、明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ版籍はんせき奉還ほうかん山家やまがはん知事ちじにんじられ、明治めいじ4ねん(1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんまでどうはん知事ちじつとめた[3]

明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ17にち行政ぎょうせいかんたち公家くげ大名だいみょういえ統合とうごうされて華族かぞく制度せいど誕生たんじょうするとたに大名だいみょうとして華族かぞくれつした[4][5]明治めいじ17ねん(1884ねん)7がつ7にち華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると、同月どうげつ8にちきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 1]として子爵ししゃくれっせられた[7]

2だい子爵ししゃく閑衛だい昭和しょうわ前期ぜんきには閑衛が日本にっぽん製鉄せいてつ八幡やはた製鉄せいてつしょ勤務きんむしていたため、福岡ふくおかけん八幡やはた清田きよたまち在住ざいじゅうしていた[8]

太線ふとせん実子じっし細線さいせん養子ようし

 まもるこのみまもるとも
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 まもるなり 吉長よしなが まもるかち      まもるせい まもるちょう               まもるふゆ
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 まもる まもるこれ まもるきよし      まもる まもる     まもるのり まもるきち 高原たかはらなかよりゆき まもるしゅう
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    まもるさだ よりゆきまもる まもるひさし   まもるひろ 高城たかぎ貞胤さだたね    政勝まさかつ        まもるつね
    ┃  ┃  ┃    ┃         ┃         |
    まもるはれ まもるあきら 日根野ひねのだかゆたか まもる        まもるあきら        まもるただし
       ┃       ┃         ┃         ┣━━┓
       まもるたいら      まもる        まもるさだ        まもる まもるてん
       ┃       ┣━━┳━━┓   ┃            ┃
       まもることぶき      まもるしょう まもるしゅう 遠山とおやまけいひろし まもるあし           まもるあきら
       ┃          ┣━━┓                ┃
       まもるしん         まもるりょう まもるあつし               勝衛かつえい
                  ┣━━┓                ┃
                  まもるまん まもるわたる               まもるひろし
                     |
                     まもる
                     |
                     まもる
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                     まもるしげる(子爵ししゃく)
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                     閑衛(子爵ししゃく)

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ きゅう山家やまがはんげんこめ4389せき表高おもてだか1まん82せき)でげんこめ5まんせき未満みまんきゅうしょうはん該当がいとう[6]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ へん江戸えどさんひゃくはん藩主はんしゅ総覧そうらん : 歴代れきだい藩主はんしゅでたどる藩政はんせい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 24 ; だい22かん42ごう〉、1997ねん8がつISBN 4404025246 
  • 丹羽にわはじめ姓氏せいし : 姓氏せいし研究けんきゅう決定けっていばん樋口ひぐち清之きよゆき監修かんしゅう秋田あきた書店しょてん、1970ねん7がつISBN 4253002099 
  • 藩主はんしゅ人名じんめい事典じてん編纂へんさん委員いいんかい へんさん百藩藩主人名事典』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう] 
史料しりょう
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか
  • 水戸みと光圀みつくにのこ猷 (宮田みやた正彦まさひこ 1998 にしきせいしゃ
  • 高松たかまつはん松平まつだいらよりゆきじゅうつて松平まつだいら公益こうえきかい 1964)
  • 古代こだい氏族しぞく系譜けいふ集成しゅうせい
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか

関係かんけい項目こうもく

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