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近藤次繁 - Wikipedia

近藤こんどうしげる

日本にっぽん医学いがくしゃ

近藤こんどう しげる(こんどう つぎしげ[1]1866ねん1がつ17にち慶応けいおう元年がんねん12月1にち) - 1944ねん昭和しょうわ19ねん3月4にち)は、日本にっぽん明治めいじから昭和しょうわにおける外科医げかい医学いがくしゃ医学いがく博士はかせ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ教授きょうじゅ病院びょういんちょう日本にっぽん最初さいしょがん手術しゅじゅつ成功せいこうさせた外科げかである[2]

こんどう つぎしげ

近藤こんどう しげる
生誕せいたん 鶴見つるみしげる
(1866-01-17) 1866ねん1がつ17にち
信濃しなのこく松本まつもと
げん長野ながのけん松本まつもと
死没しぼつ (1944-03-04) 1944ねん3月4にち(78さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく
職業しょくぎょう 医師いし外科医げかい
著名ちょめい実績じっせき 日本にっぽんはつがん手術しゅじゅつ成功せいこう
子供こども 近藤こんどうけいいち近藤こんどう綸二近藤こんどう駿しゅん四郎しろう近藤こんどうたい五郎ごろう
おや 養父ようふ近藤こんどうひろしたいら
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経歴けいれき

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青年せいねん時代じだい

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養父ようふ近藤こんどうひろしたいら

慶応けいおう元年がんねん12がつ1にち(1866ねん1がつ17にち)、信濃しなのこく松本まつもとはんである鶴見つるみたかし次男じなんとして、松本まつもとじょうした下新したしんまちげん長野ながのけん松本まつもと北深志きたふかし1丁目ちょうめ周辺しゅうへん)にまれた。出生しゅっしょうめい鶴見つるみしげる

1891ねん明治めいじ24ねん)7がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医科いか大学だいがく卒業そつぎょう[3]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくユリウス・スクリバ教授きょうじゅ外科げかがく教室きょうしつ入局にゅうきょくした。同年どうねんには近藤こんどうひろしたいらむすめおきてと結婚けっこんし、近藤こんどう婿養子むこようしとなった。近藤こんどうひろしたいら愛知あいちけん碧海あおみぐんあさひむら洋々ようようどう洋々ようようかん)の院長いんちょうつとめていた医師いしである。

留学りゅうがく研究けんきゅう

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養父ようふ近藤こんどうひろしたいら支援しえんけてヨーロッパ留学りゅうがくした。ヨーロッパではドイツストラスブルク大学だいがく現在げんざいフランス)、ハイデルベルク大学だいがくベルリン大学だいがくオーストリアウィーン大学だいがくまなんだのち、フランスのパリ病院びょういん施設しせつ視察しさつし、1896ねん明治めいじ29ねん)に帰国きこくした[4]

帰国きこく直後ちょくごにはスクリバ教授きょうじゅ外科げかがく教室きょうしつはいり、よく1897ねん明治めいじ30ねん)に助教授じょきょうじゅ、1898ねん明治めいじ31ねん)に教授きょうじゅ昇格しょうかくし、だいいち外科げか講座こうざ担当たんとうした。1899ねん明治めいじ32ねん)には論文ろんぶん提出ていしゅつして医学いがく博士はかせ学位がくい授与じゅよされた。

学会がっかいなどへの参画さんかく

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1897ねん明治めいじ30ねん)11月、三輪みわいさおひろし木村きむらたかしわらび田代たしろただし医師いし送別そうべつうたげ上野うえの精養軒せいようけんおこなわれた[5]。このうたげでは日本にっぽん外科げか学会がっかい創立そうりつかんするはないがおこなわれ、田代たしろ義徳よしのり近藤こんどうしげる佐藤さとう恒久つねひさ規則きそく草案そうあん起草きそうした[5]。1898ねん明治めいじ31ねん)4がつ7にち神田かんだ青年せいねん会館かいかんおい発起人ほっきにんかいひらかれ、近藤こんどうしげる本会ほんかい設立せつりつ由来ゆらい説明せつめいし、翌年よくねん4がつだい1かい日本にっぽん外科げか学会がっかい東京とうきょう開催かいさいすることが決定けっていした[5]。また、だいいちかい役員やくいん選挙せんきょ結果けっか会長かいちょう佐藤さとう三吉さんきち幹事かんじ近藤こんどうしげる田代たしろ義徳よしのり佐藤さとう恒久つねひさえらばれた[5]

佐藤さとう三吉さんきち近藤こんどうしげる宇野うのあきら田中たなかなえ太郎たろう片山かたやまかおるりんかつらしげる鶴田つるたただし次郎じろう中山なかやまもり彦、まる茂文しげふみりょう寺田てらだはやし曄、佐藤さとう恒久つねひさ佐藤さとう達次郎たつじろう中原なかはら徳太郎とくたろうら、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ出身しゅっしん外科げか専門医せんもんいにより、ドイツ・ベルリンにある外科げか専門せんもん自由じゆう協会きょうかい(Freie Vereinigung der Chiurgen Berlins)の組織そしきにならい、東京とうきょうでも外科げか自由じゆう研究けんきゅう議論ぎろんとして「あつまりだんかい開催かいさい計画けいかくされた。毎月まいつきだいさん水曜日すいようびを「あつまりだんかい開催かいさいとして、1902ねん明治めいじ35ねん)5がつ21にち東京医科大学とうきょういかだいがく外科げか外来がいらい診療しんりょうしょだいいちかい会合かいごうおこなわれた[6][7]

1917ねん大正たいしょう6ねん)5がつ海軍かいぐん中将ちゅうじょう秋山あきやま真之まさゆきは、近藤こんどう病院びょういんちょうつとめる駿河台するがだい病院びょういん盲腸炎もうちょうえん入院にゅういんした。病院びょういん秋山あきやま盲腸炎もうちょうえん切開せっかい手術しゅじゅつもうれていたが、秋山あきやまがんとして謝絶しゃぜつし「かなら自己じこ心霊しんれいちからによってなおしてみせる」と頑張がんばり、一時いちじてきには回復かいふくした。しかし、翌年よくねん1がつ下旬げじゅんごろより病気びょうき再発さいはつし、1918ねん大正たいしょう7ねん)2がつ4にち死去しきょした。[よう出典しゅってん]

開業かいぎょう

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1921ねん大正たいしょう10ねん)には東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ附属ふぞく病院びょういんちょうにんじられた。1925ねん大正たいしょう14ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく退官たいかん[4]東京とうきょう神田かんだ駿河台するがだい病院びょういん設立せつりつして病院びょういんちょう就任しゅうにんした。8月には郷里きょうり松本まつもとから、翌年よくねん開業かいぎょう予定よてい松本まつもと市営しえい病院びょういんのち松本まつもと医学いがく専門せんもん学校がっこう附属ふぞく病院びょういん)の名誉めいよ医院いいんちょうけん顧問こもん委嘱いしょくされ、病院びょういん人事じんじ一切いっさいまかされた[8]。かねてより東京とうきょう市政しせい不明朗ふめいろうさをかんじていたことから、東京とうきょうかい議員ぎいん立候補りっこうほして当選とうせんした。

1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ4にち、79さい死去しきょした。墓所はかしょ多磨たま霊園れいえんひゃくかんたる同年どうねん6がつ11にち創立そうりつふか関与かんよした日本にっぽん外科げか学会がっかい日本にっぽん臨床りんしょう外科げか学会がっかい日本にっぽん医学いがく博士はかせかい日本にっぽん医療いりょう器械きかい学会がっかい松本まつもと関係かんけいしょ団体だんたいおよ長野ながの県人けんじんかいなどが合同ごうどうし、神田かんだ駿河台するがだい日本にっぽん医師いし会館かいかんで「近藤こんどう先生せんせい追悼ついとうかい」が開催かいさいされた[4]

栄典えいてん

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論文ろんぶん著作ちょさく

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  • すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽう(52) 1897ねん4がつ いちさん外科げか器械きかいの「デモンストヲチオン」 近藤こんどうしげる」(すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽうしゃ
  • すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽう(92) 1900ねん8がつ ちゅうさまたれえん療法りょうほうに就て 近藤こんどうしげる」(すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽうしゃ
  • すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽう(93) 1900ねん9がつ 接合せつごうじゅつくだりひしいぬ膓「デモンストラチオン」 近藤こんどうしげる」(すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽうしゃ
  • すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽう(127) 1903ねん7がつ 癌腫がんしゅ外科げか宿題しゅくだい近藤こんどうしげる」(すみせい学舎がくしゃ医事いじ新報しんぽうしゃ
  • 中外ちゅうがい医事いじ新報しんぽう(433) 1898ねん3がつ 外科げか手術しゅじゅつくさむらだん 近藤こんどうしげる」(日本にっぽん学会がっかい
  • 中外ちゅうがい医事いじ新報しんぽう(435) 1898ねん5がつ 外科げか手術しゅじゅつくさむらだん(承前しょうぜん) 近藤こんどうしげる」(日本にっぽん学会がっかい
  • 中外ちゅうがい医事いじ新報しんぽう(862) 1916ねん2がつ 顏面がんめん「フルンケル」ノ療法りょうほう 近藤こんどうしげる」(日本にっぽん学会がっかい
  • 中外ちゅうがい医事いじ新報しんぽう(935) 1919ねん3がつ だいひゃく八十二囘外科集談會 近藤こんどうしげる」(日本にっぽん学会がっかい
  • 産科さんか婦人ふじん科学かがく雑誌ざっし2(6) 1900ねん2がつ 腹膜ふくまく脂肪しぼうしゅノデモンストラチオン 近藤こんどうしげる」(産科さんか婦人ふじん学会がっかい
  • 日本にっぽん外科げか学会がっかい(1) 1900ねん4がつ 外科げか手術しゅじゅつニ就テノ實驗じっけん 近藤こんどうしげる」(南江堂なんこうどう
  • 日本にっぽん外科げか学会がっかい(2) 1901ねん3がつ 宿題しゅくだい(内臟ないぞう外科げか) 佐藤さとう三吉さんきち本多ほんだ忠夫ただお大森おおもりおさむゆたかまる茂文しげふみりょう近藤こんどうしげる佐藤さとう三吉さんきち宇野うのあきら」(南江堂なんこうどう
  • 日本にっぽん外科げか学会がっかい(3) 1902ねん4がつ 宿題しゅくだい めくら膓炎及蟲じょう突起とっきわざわい療法りょうほう 鈴木すずき孝之助こうのすけ三浦みうら謹之すけはやし曄・入澤いりさわ達吉たつきち瀨尾せお原始げんし近藤こんどうしげる北川きたがわおつ治郞じろう」(南江堂なんこうどう
  • 日本にっぽん外科げか学会がっかい(5) 1904ねん4がつ ひざひかがみ動脈どうみゃくこぶニ就テ 討論とうろん 近藤こんどうしげる佐藤さとう恒久つねひさ漿液しょうえきせい脾臓ひぞう嚢腫ノいちれい 討論とうろん 近藤こんどうつぎしげほか子宮しきゅうがい妊娠にんしん外科げかてき治療ちりょう實驗じっけんいちれい 討論とうろん 近藤こんどうしげる」(南江堂なんこうどう
  • 外科げか臨床りんしょう講義こうぎろく(2) 1908ねん6がつ 膀胱ぼうこう結石けっせき 近藤こんどうしげる」(山村やまむら正雄まさお
  • 大東だいとう医事いじ新報しんぽう(12) 1911ねん7がつ 陰莖いんけいがん 近藤こんどうしげる」(大東だいとう医事いじ新報しんぽうしゃ
  • 日新にっしん醫學いがく だい1ねん(1) 1911ねん9がつ 外科げかがく 胃腸いちょう外科げかノ梗槪 近藤こんどうしげる」(日新にっしん醫學いがく雜誌ざっししゃ
  • 日本にっぽん医界いかい(66) 1913ねん7がつ ヂスクツシオンに就て 近藤こんどうしげる」(日本にっぽん医界いかいしゃ
  • じゅん天堂てんどう医事いじ研究けんきゅうかい雑誌ざっし(538) 1917ねん10がつ 頸肋こついんスル疾患しっかんいちれい 近藤こんどうしげる」(じゅん天堂てんどう医事いじ研究けんきゅうかい
  • 臨床りんしょう月報げっぽう(176) 1925ねん2がつ しんあさ痹劑ツトカインに就て 近藤こんどうしげる」(臨床りんしょう月報げっぽうしゃ
  • 臨床りんしょうゆび注射ちゅうしゃ方法ほうほうなみ技術ぎじゅつ 醫學いがく博士はかせ近藤こんどうしげる」(藤井ふじい尚久なおひさへん 武田たけだ孝三郎こうざぶろう 1929ねん
  • どうじん医学いがく4(1) 1931ねん1がつ 狹心症きょうしんしょう療法りょうほう 近藤こんどうしげる」(同仁会どうじんかい
  • 栄養えいよう日本にっぽん12(5) 1943ねん7がつ 玄米げんまい國民こくみんみなしょくに就て 近藤こんどうしげる」(栄養えいよう日本にっぽんしゃ
  • 鬱血うっけつ療法りょうほう」(近藤こんどうしげる 医学書院いがくしょいん 1907ねん
  • 外科げか診断しんだんがく各論かくろん 上巻じょうかん 下巻げかん」(近藤こんどうしげる 南江堂なんこうどう 1909ねん
  • 山村さんそん外科げか診断しんだんがく各論かくろん 上巻じょうかん 下巻げかん」(近藤こんどうしげる 南江堂なんこうどう 1909ねん・1914ねん
  • 近世きんせい外科げか総論そうろん 上巻じょうかん 下巻げかん」(近藤こんどうしげる 南江堂なんこうどう 1911ねん
  • 医学いがく常識じょうしき だい1かん-だい10かん」(近藤こんどうしげる 東西とうざい医学いがくしゃへん 東西とうざい医学いがくしゃ 1931ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 近藤こんどうしげる コトバンク、2020ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ 梶谷かじたにがんの外科げかわたしじん』がん研究けんきゅう振興しんこう財団ざいだん、17ごう
  3. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん 1912ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1912ねん
  4. ^ a b c 富田とみたひとし編集へんしゅう)『うみえた日本人にっぽんじんめい事典じてん日外にちがいアソシエーツ、 1985ねん
  5. ^ a b c d 日本にっぽん外科げか学会がっかい足跡あしあと日本にっぽん外科げか学会がっかい
  6. ^ 中外ちゅうがい医事いじ新報しんぽう日本にっぽん学会がっかい、533ごう、1902ねん6がつ
  7. ^ 日本にっぽん外科げかしゅうだんかい歴史れきし 外科げかしゅうだんかい
  8. ^ 脚光きゃっこう 36 近藤こんどうしげる」『市民しみんタイムス』
  9. ^ 官報かんぽうだい1624ごう叙任じょにん及辞れい」1917ねん12月29にち
  10. ^ 官報かんぽうだい3158ごう叙任じょにん及辞れい」1923ねん2がつ12にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東京とうきょう市政しせい革新かくしん同盟どうめい活動かつどう経過けいか概要がいよう 昭和しょうわ14年度ねんど 近藤こんどうしげる市立しりつ光明こうみょう學校がっこう擴充かくじゅう市長しちょう力說りきせつす」(東京とうきょう市政しせい革新かくしん同盟どうめいへん へん東京とうきょう市政しせい革新かくしん同盟どうめい 1939ねん
  • 日本にっぽん臨床りんしょう外科医げかい学会がっかい雑誌ざっし29(1) 1968ねん1がつ 近藤こんどうしげる先生せんせい生誕せいたんひゃくねんむかえて」(日本にっぽん臨床りんしょう外科医げかい学会がっかい
  • 診断しんだん治療ちりょう57(3) 1969ねん3がつ 日本にっぽん医学いがく薬学やくがくかいにおける先覚せんかくしゃ(だい8かい国際こくさい治療ちりょう談話だんわかい総会そうかい) 外科げか佐藤さとう三吉さんきち近藤こんどうしげる塩田しおだ広重ひろしげ青山あおやまとおるぞう先生せんせい)」(診断しんだん治療ちりょうしゃ
  • 醫科いか器械きかいがく雜誌ざっし 1924ねん5がつ20日はつか 開會かいかい閉會へいかい日本にっぽん醫科いか器械きかい學會がっかいだいいちかい總會そうかい近藤こんどうしげる」(日本にっぽん医療いりょう機器ききがく