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野間恒 - Wikipedia

野間のまひさし

実業じつぎょう剣道けんどう(1909 - 1938)

野間のま ひさし(のま ひさし、1909ねん明治めいじ42ねん4がつ24にち - 1938ねん昭和しょうわ13ねん11月7にち)は、昭和しょうわ時代じだい前期ぜんき実業じつぎょう剣道けんどういえだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃだい2だい社長しゃちょうつとめた。

野間のまひさし

来歴らいれき

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だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ創始そうししゃ野間のま清治きよじ長男ちょうなんとして東京とうきょう神田かんだ台所だいどころまちまれる。千駄木せんだぎ尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうしたのちちち意向いこう上級じょうきゅう学校がっこう進学しんがくせず、一種いっしゅ帝王ていおうがくともいえる独自どくじ教育きょういくけてそだった。

1935ねん昭和しょうわ10ねん)にはだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ出社しゅっしゃはじめ、同社どうしゃ跡取あととりとして将来しょうらい嘱望しょくぼうされた。

1938ねん昭和しょうわ13ねん)は激動げきどうとしとなった。つねは2がつ町尻まちじりりょうもと長女ちょうじょ登喜子ときこ結婚けっこんする。登喜子ときこ実家じっかきゅう堂上どうじょう公家くげ子爵ししゃく)で、ちち侍従じじゅう武官ぶかん陸軍りくぐん軍務ぐんむ局長きょくちょうぐん司令しれいかんなどを歴任れきにんした陸軍りくぐん中将ちゅうじょうはは由紀子ゆきこ賀陽かようみやくにけんおうだいいち王女おうじょというもと皇族こうぞくで、このうえもない縁組えんぐみだったが、このころ大腸だいちょうがん発病はつびょうし、病状びょうじょう進行しんこうしていった。10月16にちちち清治きよじまん59さい急死きゅうしすると、つね同日どうじつちゅう講談社こうだんしゃだい2だい社長しゃちょう就任しゅうにんするが、このときすでに病床びょうしょうからがれないほどまでに衰弱すいじゃくしきっていた。つね講談社こうだんしゃ完全かんぜん株式会社かぶしきがいしゃ移行いこうしたことを見届みとどけると、ちちのちうように11月7にちに29さい死去しきょした。その社長しゃちょう在任ざいにん期間きかんは22にちだった。墓所はかしょ護国寺ごこくじにあり、ちちはかとなりほうむられている。

つね死後しごははひだりまもるだい3だい社長しゃちょういた。またつま登喜子ときこ野間のままり、ひだりまもるめいおっとでのちに講談社こうだんしゃ取締役とりしまりやくとなった高木たかぎ三吉さんきちおとうと省一しょういち再婚さいこん、これを野間のま婿養子むこようしとしてだい4だい社長しゃちょうけ、そのあいだにのちにだい6だい社長しゃちょうとなる野間のま佐和子さわこんでいる。

人物じんぶつ剣道けんどうとして

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1934ねん開催かいさい皇太子こうたいし殿下でんか誕生たんじょう奉祝ほうしゅく天覧てんらん武道ぶどう大会たいかいでの優勝ゆうしょうしゃたち。みぎからじゅん野間のまひさし剣道けんどう)、山本やまもと忠次郎ちゅうじろう剣道けんどう)、平田ひらた良吉りょうきち柔道じゅうどう)、大谷おおやあきら柔道じゅうどう)。

幕末ばくまつ北辰ほくしん一刀いっとうりゅう玄武げんぶかん四天王してんのう一人ひとりもり要蔵ようぞう門弟もんてい野間のま好雄よしお祖父そふに、もり要蔵ようぞうむすめ祖母そぼにもつちち清治きよじは、剣道けんどうこそ人格じんかく確立かくりつ修養しゅうよう最善さいぜんみちしんじ、野間のま道場どうじょう設立せつりつした。その関係かんけいからつね幼少ようしょうよりけんみちたたまれた。清治きよじおいもり寅雄とらおって養育よういくしていたが、かれもまたながじて有名ゆうめい剣道けんどうとなる。

つねおさなころはひよわでおどおどした性格せいかくだったが、努力どりょくで、毎朝まいあさゆうに1あいだ稽古けいこし、成長せいちょうするにしたがって休日きゅうじつ千葉ちば伊香保いかほ伊東いとう道場どうじょうで5〜6あいだ稽古けいこついやした。また時間じかんくと高野たかのたすく三郎さぶろう修道しゅうどう学院がくいんとおった。このころには相手あいてばしてガラスることもあるほどつよくなっていた。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)、だい日本にっぽん武徳ぶとくかいから剣道けんどう精錬せいれんしょう授与じゅよされる。

1933ねん昭和しょうわ8ねん)の陸軍りくぐん武道ぶどう大会たいかい優勝ゆうしょうよく1934ねん昭和しょうわ9ねん)には皇太子こうたいし殿下でんか誕生たんじょう奉祝ほうしゅく天覧てんらん武道ぶどう大会たいかい府県ふけんせん優勝ゆうしょうして「昭和しょうわだい剣士けんし」とうたわれた。この東京とうきょう予選よせん決勝けっしょう相手あいてしくも従弟じゅうていもり寅雄とらおだった。

病院びょういんきらいだったらしく、死因しいんとなった大腸だいちょうがんについても、1937ねん昭和しょうわ12ねんごろからすで胃腸いちょうをおかしくしていたにもかかわらず、「ぎゃく療法りょうほう」としょうしてビールやステーキを大量たいりょう摂取せっしゅするといった行動こうどうかえしていたという。同年どうねん10がつ胃潰瘍いかいよううたがいで入院にゅういん手術しゅじゅつけるが、退院たいいん肉類にくるいつづけるなど胃腸いちょう負担ふたんをかける生活せいかつつづけていた[1]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)7がつ、すでにやまいあつつねだい日本にっぽん武徳ぶとくかいから剣道けんどうきょうごう授与じゅよされている。

著作ちょさく

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  • 剣道けんどう読本とくほんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1939ねん3がつNCID BN12004820全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:46051642 
  • ふう余録よろくだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1939ねん11月。 NCID BA4531197X全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:46071561 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 魚住うおずみあきら出版しゅっぱん権力けんりょく 講談社こうだんしゃ野間のまいちいちねん講談社こうだんしゃ、2021ねん2がつISBN 9784065129388 

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 講談社こうだんしゃはちじゅうねん編集へんしゅう委員いいんかいへん講談社こうだんしゃの80ねん: 1909 1989』 講談社こうだんしゃ、1990ねん
先代せんだい
野間のま清治きよじ
講談社こうだんしゃ社長しゃちょう
だい2だい1938ねん
次代じだい
野間のまひだりまもる