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長谷川繁雄 - Wikipedia

長谷川はせがわ 繁雄しげお(はせがわ しげお、1932ねん10月2にち -1966ねん6月24にち)は、1950年代ねんだいなかばから1960年代ねんだい前半ぜんはんにかけて活躍かつやくしたプロ野球やきゅう選手せんしゅ一塁いちるいしゅ外野がいやしゅ)である。広島ひろしまけん竹原たけはら出身しゅっしん

長谷川はせがわ 繁雄しげお
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 広島ひろしまけん竹原たけはら
生年月日せいねんがっぴ 1932ねん10月2にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1966-06-24) 1966ねん6月24にち(33さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
172 cm
83 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき ひだりとうひだり
ポジション 一塁いちるいしゅ外野がいやしゅ
プロ 1956ねん
はつ出場しゅつじょう 1956ねん
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1963ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

経歴けいれき

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竹原たけはら高校こうこう卒業そつぎょう法政大学ほうせいだいがく進学しんがく東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅうリーグでは中心ちゅうしん打者だしゃとして活躍かつやくしたが、優勝ゆうしょうにはとどかず、1954ねん秋季しゅうきリーグの2最高さいこう成績せいせきであった。大学だいがく同期どうき中野なかの健一けんいち、1ねん斎田さいだ忠利ただとし古川ふるかわ啓三けいぞうがいる。

1956ねん南海なんかいホークス入団にゅうだん同年どうねん開幕かいまく直後ちょくごから一塁いちるいしゅばん打者だしゃ抜擢ばってきされ、寺田てらだ陽介ようすけとレギュラーをあらそう。よんばん打者だしゃとしても11試合しあい出場しゅつじょうした。1957ねんのシーズン後半こうはんから中堅ちゅうけんしゅまわる。1958ねんには122試合しあい出場しゅつじょう規定きてい打席だせきにも到達とうたつ打率だりつ.276(リーグ9)、16本塁打ほんるいだ好成績こうせいせきのこした。よく1959ねん400フィート打線だせんばん打者だしゃとして打率だりつ.302をマークする活躍かつやくで、4ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけん読売よみうりジャイアンツとの日本にっぽんシリーズでもだい2せんで2てん適時てきじはなち、シリーズ優勝ゆうしょう美酒びしゅあじわった。1961ねんまでレギュラーのまもるが、1962ねん寺田てらだ陽介ようすけカールトン半田はんだ半田はんだ春夫はるお)とともに、井上いのうえのぼるとの交換こうかんトレードで中日ちゅうにちドラゴンズ移籍いせき同年どうねんはシーズン序盤じょばんさんばん打者だしゃとして起用きようされるが、後半こうはんには出場しゅつじょう機会きかい減少げんしょうよく1963ねんには近鉄きんてつバファローズうつり、同年どうねんオフに引退いんたいした。

引退いんたいは、大阪おおさかみなみげん中央ちゅうおう瓦屋かわらやまちでレストランを経営けいえいしていた。1966ねん6がつ24にち午前ごぜん140ふんごろ白浜しらはま温泉おんせんかう途中とちゅう和歌山わかやま田野でんや県道けんどう乗用車じょうようしゃ運転うんてんちゅうにハンドル操作そうさあやまり、くるまごと海岸かいがん転落てんらくして死亡しぼうした。以下いか理由りゆうにより、とうけん過失かしつによる事故死じこしとして処理しょりされた。

  • 現場げんばにブレーキこんはなく、ブレーキが故障こしょうした形跡けいせきもないことから、乗用車じょうようしゃはかなりのスピードをしていた
  • 停車ていしゃちゅうくるまとしたとしても、転落てんらく現場げんばから岩場いわばまではなれすぎている
  • 現場げんばおなじような事故じこ多発たはつしていた
  • 外傷がいしょうもなく、遺書いしょもなかった

しかし、1969ねんくろきり事件じけんあかるみになると、1970ねん3がつ17にちのプロ野球やきゅう健全けんぜん公聴こうちょうかいよく18にち衆議院しゅうぎいん法務ほうむ委員いいんかいで、和歌山わかやまけん選挙せんきょとする中谷なかたに鉄也てつやから以下いかのような事件じけんせいうたがわせる内容ないよう指摘してきされ、長谷川はせがわくろきり事件じけんへの関与かんよから謀殺ぼうさつされた疑惑ぎわく浮上ふじょうした[1]

  • 長谷川はせがわ事故じこ当時とうじ運転うんてんしていたくるまもと大相撲おおずもう関取せきとりAの所有しょゆうで、Aもそのまま現在げんざいまで行方ゆくえ不明ふめい
  • 長谷川はせがわ生前せいぜん球団きゅうだん関係かんけいしゃなどに多額たがく借金しゃっきんもうんでいた

その警察けいさつによる事故じこ現場げんばさい調査ちょうさおこなわれ、当時とうじ記録きろくもと検討けんとうかいひらかれたが、謀殺ぼうさつ裏付うらづけるような事実じじつ発見はっけんされず、事故死じこしとしてさい認識にんしきされた。

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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打力だりょくはあったが、本来ほんらい一塁いちるいしゅであったため外野がいやまもりに難点なんてんがあり、ひだり投手とうしゅ先発せんぱつには、同期どうき大沢おおさわ啓二けいじらにてい位置いちゆず場面ばめんおおかった。カーブちを苦手にがてとし、「長谷川はせがわとかけて、みなとまち交差点こうさてんく。そのしんは、カーブによわい」(大阪おおさか球場きゅうじょうちかくの大阪おおさか市電しでん湊町みなとまち駅近えきちかきゅうカーブがあり、車輪しゃりんがキーキーっていた)とヤジられたことがある[2]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1956 南海なんかい 125 321 284 33 80 16 2 4 112 37 7 5 1 0 31 0 5 36 2 .282 .363 .394 .757
1957 99 243 224 28 57 15 5 3 91 28 3 0 0 1 17 0 1 36 2 .254 .310 .406 .716
1958 122 447 387 72 107 22 4 16 185 60 9 7 0 4 55 4 1 63 1 .276 .368 .478 .846
1959 115 385 341 52 103 22 5 8 159 43 5 2 1 2 39 1 2 51 6 .302 .377 .466 .843
1960 110 336 303 41 83 9 1 8 118 25 9 2 0 2 30 2 1 51 3 .274 .341 .389 .731
1961 118 269 229 49 60 6 0 7 87 22 11 5 2 1 36 2 1 49 3 .262 .365 .380 .745
1962 中日ちゅうにち 79 165 144 18 33 3 2 6 58 15 0 0 0 0 21 1 0 38 0 .229 .327 .403 .730
1963 近鉄きんてつ 69 95 82 11 14 3 0 2 23 10 3 1 0 2 10 0 1 18 3 .171 .269 .280 .549
通算つうさん:8ねん 837 2261 1994 304 537 96 19 54 833 240 47 22 4 12 239 10 12 342 20 .269 .351 .418 .769

背番号せばんごう

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  • 26 (1956ねん - 1962ねん
  • 27 (1963ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 国会こっかい会議かいぎろく検索けんさくシステム”. kokkai.ndl.go.jp. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ 神様かみさま仏様ほとけさま稲尾いなおさまわたし履歴りれきしょ』257ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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神様かみさま仏様ほとけさま稲尾いなおさまわたし履歴りれきしょ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ、2002ねん

関連かんれん項目こうもく

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