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間部詮言 - Wikipedia

間部まべ かいげん(まなべ あきとき)は、越後えちご村上むらかみはんだい2だい藩主はんしゅ、のち越前えちぜん鯖江さばえはん初代しょだい藩主はんしゅあいだ2だい

 
間部まべ かいげん
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 元禄げんろく3ねん5月2にち1690ねん6月8にち
死没しぼつ とおる9ねん8がつ18にち1724ねん10月4にち
別名べつめい おも通称つうしょう
諡号しごう みずあきらいん
墓所はかしょ 東京とうきょう台東たいとう花川戸はなかわど 九品寺くほんじ多磨たま霊園れいえん改葬かいそう
官位かんい したがえ下総しもうさもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 越後えちご村上むらかみはんおも越前えちぜん鯖江さばえはんあるじ
氏族しぞく 間部まべ
父母ちちはは ちち西田にしだきよしさだはは小川おがわひかり寿ことぶきいん
養父ようふ間部まべ詮房あきふさ
兄弟きょうだい 詮房あきふさかいさだかいかいかいげん
つま たかられんいんたき阿部あべただしたかし養女ようじょ
間部まべ詮方せんかた正室せいしつ
養子ようし詮方せんかた
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

西田にしだきよしさだおとことしてまれる。宝永ほうえい5ねん1708ねん)4がつ15にち長兄ちょうけい間部まべ詮房あきふさ養嗣子ようししとなる。同年どうねん5がつ1にち将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし目見まみする。同年どうねん12がつ18にちしたがえ下総しもうさまもる叙任じょにんする。とおる5ねん1720ねん)9がつ12にち詮房あきふさ死去しきょにより家督かとくぐが、もなく越後えちごむらじょうから越前えちぜん鯖江さばえうつりふうされた。これは、将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶ家継いえつぐ時代じだい権勢けんせいるっていた間部まべ城主じょうしゅ大名だいみょうからしろ大名だいみょう降格こうかくさせたうえ実質じっしつてき収入しゅうにゅうらすという、いわゆる左遷させんであった。

このため、かいごと鯖江さばえにおいて、いちから藩政はんせい確立かくりつまねばならなくなった。家臣かしんだん編成へんせいまち建設けんせつなどである。このようななかで、かいごと失意しついのうちに35さい江戸えどしば三田みたていにて死去しきょしたという。男児だんじが1にんいたが、早世そうせいしていたため、おいあにかいさだ)の詮方せんかた養嗣子ようししとしてあとがせた。

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

養子ようし

村上むらかみはんからてんふうされ鯖江さばえはん成立せいりつしたことがえんで、新潟にいがたけん村上むらかみ福井ふくいけん鯖江さばえは1981ねん姉妹しまい都市としになっている。