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霜山精一 - Wikipedia

霜山しもやま 精一せいいち(しもやま せいいち、1884ねん明治めいじ17ねん10月15にち - 1975ねん昭和しょうわ50ねん3月12にち)は、日本にっぽん司法しほう官僚かんりょう弁護士べんごし大審院だいしんいんちょう最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ貴族きぞくいん議員ぎいんしたがえ勲一等くんいっとう

霜山しもやま精一せいいち
生年月日せいねんがっぴ (1884-10-15) 1884ねん10月15にち
出生しゅっしょう 日本にっぽん岡山おかやまけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1975-03-12) 1975ねん3月12にち(90さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
ぜんしょく 弁護士べんごし
称号しょうごう したがえ勲一等くんいっとう

在任ざいにん期間きかん 1944ねん9月15にち - 1946ねん2がつ8にち
元首げんしゅ 昭和しょうわ天皇てんのう

在任ざいにん期間きかん 1946ねん3月22にち - 1947ねん5月2にち

内閣ないかく 片山かたやま内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1947ねん8がつ4にち - 1954ねん10月14にち
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概要がいよう

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1910ねん明治めいじ43ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう[1]1912ねん大正たいしょう元年がんねん)12月に判事はんじ任官にんかん[1]司法省しほうしょう参事官さんじかんつとめ、1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ大審院だいしんいん判事はんじ1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつ札幌さっぽろ控訴こうそいん院長いんちょうになったときは51さい全国ぜんこく控訴こうそ院長いんちょうのうち最年少さいねんしょうであった[1]。こののち広島ひろしま控訴こうそ院長いんちょうて、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に東京とうきょう控訴こうそ院長いんちょう昇進しょうしん。1942ねん昭和しょうわ17ねん)に控訴こうそいん判事はんじ人事じんじ部長ぶちょう会議かいぎ分科ぶんかかい)の合議ごうぎめることになっていたが、霜山しもやま院長いんちょう独断どくだん代理だいり部長ぶちょう人事じんじめたさいに、法律ほうりつ違反いはんだとして若手わかて判事はんじらが徒党ととうんで抗議こうぎして撤回てっかいせまられるという控訴こうそいん分科ぶんかかい事件じけん発生はっせいした[2]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)に大審院だいしんいんちょうとなった[1]大審院だいしんいんちょう時代じだいの1945ねん昭和しょうわ20ねん)に鹿児島かごしま2選挙せんきょ無効むこう事件じけんでは鹿児島かごしまだい1鹿児島かごしまだい3では棄却ききゃくとする方針ほうしんだったのにたいして鹿児島かごしま2無効むこうみとめると、けん地元じもと警察けいさつおなじように関与かんよしているのにまったちが判決はんけつとなる不自然ふしぜん判決はんけつとなることから、民事みんじ部長ぶちょうから霜山しもやま院長いんちょう報告ほうこくされたさいに、大審院だいしんいんとして統一とういつするのではなくて判事はんじそれぞれの判断はんだんまかせるというかたちで「みなおもうようにやられたらよかろう」とべて裁判官さいばんかん独立どくりつまもり、鹿児島かごしま2選挙せんきょ無効むこう判決はんけつ後押あとおしとなった[3][4]戦争せんそう末期まっきの1945ねん昭和しょうわ20ねん)に裁判さいばん資料しりょう戦災せんさいってはいけないとかんがえ、裁判さいばん記録きろく長野ながのけん裁判所さいばんしょうつして保管ほかんするようめいじた[5]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)に退官たいかんしたのち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんとなり、しん憲法けんぽう制定せいていにもたずさわっている[6]

裁判官さいばんかん任命にんめい諮問しもん委員いいんかいによる諮問しもん結果けっか、1947ねん8がつ初代しょだい最高裁さいこうさい判事はんじ就任しゅうにんした。初代しょだい最高裁さいこうさい長官ちょうかん有力ゆうりょく候補こうほともなった(実際じっさい初代しょだい最高裁さいこうさい長官ちょうかんになったのはさんふち忠彦ただひこ[6]1949ねん昭和しょうわ24ねん)7がつ最高さいこう裁判所さいばんしょ誤判ごはん事件じけんこし、1950ねん昭和しょうわ25ねん)6がつに1まんえん過料かりょう処分しょぶんとなる。

1954ねん昭和しょうわ29ねん)10がつ定年ていねん退官たいかん。1975ねん昭和しょうわ50ねん)3がつ12にち東京とうきょう渋谷しぶや広尾ひろお自宅じたく老衰ろうすいで90さい死去しきょした[7]

略歴りゃくれき

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栄典えいてん

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家族かぞく親族しんぞく

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どうつま操子みさこもと経団連けいだんれん会長かいちょう石坂いしざか泰三たいぞう次女じじょ
  • 長女ちょうじょ浜子はまご弁護士べんごし近藤こんどう英夫ひでおつま
  • 霜山しもやま
        かつら太郎たろう━━さんろう
              ┃
              ┣━━━━光貞みつさだ
              ┃    ┃
        井上いのうえかおる━━千代子ちよこ   ┃
                   ┃
       伊達だて宗徳むねのり━━あら芳徳よしのり  ┃   
               ┃  ┏明子あきこ
               ┣━━┫
               ┃  ┗治子はるこ
   北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう━━━拡子    ┃
                    ┃
                  ┏いち
                  ┃
                  ┣泰介たいすけ
                  ┃   
             石坂いしざか泰三たいぞう ┣泰夫やすお
               ┃  ┃
               ┣━━╋泰彦やすひこ
               ┃  ┃
         織田おだいち━━雪子ゆきこ  ┣信雄のぶお
                  ┃
                  ┣智子さとこ
                  ┃
                  ┗操子みさこ
                   ┃
           ┏霜山しもやま精一せいいち━━━とくなんじ
           ┃
           ┗秀野ひでの   ┏正俊まさとし
             ┃   ┃
             ┣━━━╋吾妻あづま光俊みつとし
             ┃   ┃
          ┏━秀雄ひでお   ┗雄俊たけとし
          ┃
     横田よこた数馬かずま━╋和田わだすぐる
          ┃
          ┗小松こまつ謙次郎けんじろう

 

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 野村のむら二郎じろう 1986, p. 21.
  2. ^ かんこうとめろう 2021, p. 473.
  3. ^ かんこうとめろう 2021, p. 461.
  4. ^ 清永きよながさとし 2006, p. 151-152.
  5. ^ 清永きよながさとし 2006, p. 187.
  6. ^ a b かんこうとめろう 2021, p. 462.
  7. ^ 野村のむら二郎じろう 1986, p. 23.
  8. ^ 大衆たいしゅう人事じんじろく』より
  9. ^ 官報かんぽうだい5757ごう昭和しょうわ21ねん3がつ26にち
  10. ^ 官報かんぽうだい5733ごう叙任じょにん及辞れい」1946ねん2がつ25にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 野村のむら二郎じろう最高裁さいこうさいぜん裁判官さいばんかんひと判決はんけつ三省堂さんせいどう、1986ねんISBN 9784385320403 
  • 野村のむら二郎じろう日本にっぽん裁判さいばん事典じてん自由じゆう国民こくみんしゃ、2004ねんISBN 9784426221126 
  • 清永きよながさとし気骨きこつ判決はんけつ東條とうじょう英機ひできたたかった裁判官さいばんかん新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう新書しんしょ)、2006ねんISBN 9784106102752 
  • かんこうとめろう冤罪えんざい人類じんるい: 道徳どうとく感情かんじょうはなぜひとあやまらせるのか』ハヤカワ文庫ぶんこNF、2021ねんISBN 9784150505745 
  • 猪野いいの三郎さぶろう監修かんしゅうだいじゅうはん 大衆たいしゅう人事じんじろく』(昭和しょうわ9ねん)シなないちぺーじ
  • 早川はやかわたかし日本にっぽん上流じょうりゅう社会しゃかいねやばつ』(角川書店かどかわしょてん、1983ねん)89-93ぺーじ

外部がいぶリンク

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先代せんだい
長島ながしまあつし
大審院だいしんいんなが
だい19だい:1944ねん - 1946ねん
次代じだい
細野ほその長良ながら