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広橋ひろはしけんかち」のはんあいだ差分さぶん

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== 経歴けいれき ==
== 経歴けいれき ==
えいろく5ねん([[1562ねん]])[[12月6にち (旧暦きゅうれき)|12月6にち]]の[[したがえ|したがえ]]の叙位じょいはじまり、えいろく8ねん([[1565ねん]])[[1がつ6にち (旧暦きゅうれき)|1がつ6にち]][[せい|せい]]、えいろく12ねん([[1569ねん]])[[1がつ10日とおか (旧暦きゅうれき)|1がつ10日とおか]]に[[べんかん|みぎしょうべん]]、[[天正てんしょう]]2ねん([[1574ねん]])[[3がつ28にち (旧暦きゅうれき)|3月28にち]]にひだりしょうわきまえ天正てんしょう4ねん([[1576ねん]])[[12月18にち (旧暦きゅうれき)|12月18にち]]にせいじょうまですすみ、天正てんしょう5ねん([[1577ねん]])には[[1がつ18にち (旧暦きゅうれき)|1がつ18にち]]にみぎちゅうわきまえ、[[1がつ28にち (旧暦きゅうれき)|28にち]]に[[したがえよん|したがえよん]]、[[2がつ8にち (旧暦きゅうれき)|2がつ8にち]]にしたがえよんじょうになり[[蔵人くろうどあたま]]に任命にんめい、[[11がつ20日はつか (旧暦きゅうれき)|11月20にち]]に[[せいよん|せいよん]]となった。天正てんしょう6ねん([[1578ねん]])[[1がつ6にち (旧暦きゅうれき)|1がつ6にち]]にせいよんじょう天正てんしょう8ねん([[1580ねん]])[[1がつ5にち (旧暦きゅうれき)|1がつ5にち]]に[[参議さんぎ]]けんひだりだいべん、[[1がつ20日はつか (旧暦きゅうれき)|1がつ20日はつか]]には[[したがえさん]]にのぼった{{sfn|野島のじま寿ことぶき三郎さぶろう|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうちまこと|深井ふかいまさうみ|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもとせいせん|2010|p=434}}。
えいろく5ねん([[1562ねん]])[[12月6にち (旧暦きゅうれき)|12月6にち]]の[[したがえ|したがえ]]の叙位じょいはじまり、えいろく8ねん([[1565ねん]])[[1がつ6にち (旧暦きゅうれき)|1がつ6にち]][[せい|せい]]、えいろく12ねん([[1569ねん]])[[1がつ10日とおか (旧暦きゅうれき)|1がつ10日とおか]]に[[べんかん|みぎしょうべん]]、[[天正てんしょう]]2ねん([[1574ねん]])[[3がつ28にち (旧暦きゅうれき)|3月28にち]]にひだりしょうわきまえ天正てんしょう4ねん([[1576ねん]])[[12月18にち (旧暦きゅうれき)|12月18にち]]にせいじょうまですすみ、天正てんしょう5ねん([[1577ねん]])には[[1がつ18にち (旧暦きゅうれき)|1がつ18にち]]にみぎちゅうわきまえ、[[1がつ28にち (旧暦きゅうれき)|28にち]]に[[したがえよん|したがえよん]]、[[2がつ8にち (旧暦きゅうれき)|2がつ8にち]]にしたがえよんじょうになり[[蔵人くろうどあたま]]に任命にんめい、[[11がつ20日はつか (旧暦きゅうれき)|11月20にち]]に[[せいよん|せいよん]]となった。天正てんしょう6ねん([[1578ねん]])[[1がつ6にち (旧暦きゅうれき)|1がつ6にち]]にせいよんじょう天正てんしょう8ねん([[1580ねん]])[[1がつ5にち (旧暦きゅうれき)|1がつ5にち]]に[[参議さんぎ]]けんひだりだいべん、[[1がつ20日はつか (旧暦きゅうれき)|1がつ20日はつか]]には[[したがえさん]]にのぼった{{sfn|野島のじま|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうち|深井ふかい|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもと|2010|p=434}}。


天正てんしょう10ねん([[1582ねん]])[[1がつ19にち (旧暦きゅうれき)|1がつ19にち]]に[[中納言ちゅうなごん|けん中納言ちゅうなごん]]、天正てんしょう11ねん([[1583ねん]])1がつ5にちに[[せいさん]]、天正てんしょう14ねん([[1586ねん]])1がつ5にちに[[したがえ]]、[[慶長けいちょう]]2ねん([[1597ねん]])[[1がつ11にち (旧暦きゅうれき)|1がつ11にち]]に[[大納言だいなごん|けん大納言だいなごん]]となり、よく慶長けいちょう3ねん([[1598ねん]])[[10がつ13にち (旧暦きゅうれき)|10月13にち]]に[[せい]]となった{{sfn|野島のじま寿ことぶき三郎さぶろう|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうちまこと|深井ふかいまさうみ|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもとせいせん|2010|p=434}}。
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慶長けいちょう8ねん([[1603ねん]])、[[徳川とくがわ家康いえやす]]に[[征夷大将軍せいいたいしょうぐん]]の内示ないじあたえた。同年どうねん[[2がつ12にち (旧暦きゅうれき)|2がつ12にち]]からぼっするまで[[武家ぶけ伝奏てんそう]]ににんじられ、公家くげなかでももっと武家ぶけりの行動こうどうをとり、[[朝廷ちょうてい (日本にっぽん)|朝廷ちょうてい]]と幕府ばくふ融和ゆうわつとめた。[[大坂おおさかじん#大坂おおさかふゆじん|大坂おおさかふゆじん]]でも家康いえやすと[[豊臣とよとみ秀頼ひでより]]の和睦わぼく尽力じんりょくする{{sfn|野島のじま寿ことぶき三郎さぶろう|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうちまこと|深井ふかいまさうみ|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもとせいせん|2010|p=434}}。しかし慶長けいちょう14ねん([[1609ねん]])には、[[猪熊いのくま事件じけん]]に関与かんよしたむすめ広橋ひろはしきょく伊豆いず[[新島にいじま]]に配流はいるけんかち事件じけん発覚はっかくした[[7がつ4にち (旧暦きゅうれき)|7がつ4にち]]以後いご謹慎きんしんしていたが、むすめ処分しょぶん確定かくていした10がつ以後いご復帰ふっきしている{{sfn|久保くぼ貴子たかこ|2008|p=14-17}}。慶長けいちょう8ねん家康いえやす参内さんだい以来いらい武家ぶけ昵近しゅとして将軍しょうぐんとのしょれい出仕しゅっし朝廷ちょうていない政務せいむ儀式ぎしきつうじた実務じつむ官僚かんりょう1人ひとりとして、朝廷ちょうてい家康いえやすむすパイプ役ぱいぷやくとしての役割やくわりたした。昵近しゅにはあにてるおいの[[日野ひのしょう]]、息子むすこの[[広橋ひろはしそうこう]]なども選出せんしゅつされている{{sfn|渡邊わたなべ大門だいもん|2022|p=111-113}}。
慶長けいちょう8ねん([[1603ねん]])、[[徳川とくがわ家康いえやす]]に[[征夷大将軍せいいたいしょうぐん]]の内示ないじあたえた。同年どうねん[[2がつ12にち (旧暦きゅうれき)|2がつ12にち]]からぼっするまで[[武家ぶけ伝奏てんそう]]ににんじられ、公家くげなかでももっと武家ぶけりの行動こうどうをとり、[[朝廷ちょうてい (日本にっぽん)|朝廷ちょうてい]]と幕府ばくふ融和ゆうわつとめた。[[大坂おおさかじん#大坂おおさかふゆじん|大坂おおさかふゆじん]]でも家康いえやすと[[豊臣とよとみ秀頼ひでより]]の和睦わぼく尽力じんりょくする{{sfn|野島のじま|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうち|深井ふかい|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもと|2010|p=434}}。しかし慶長けいちょう14ねん([[1609ねん]])には、[[猪熊いのくま事件じけん]]に関与かんよしたむすめ広橋ひろはしきょく伊豆いず[[新島にいじま]]に配流はいるけんかち事件じけん発覚はっかくした[[7がつ4にち (旧暦きゅうれき)|7がつ4にち]]以後いご謹慎きんしんしていたが、むすめ処分しょぶん確定かくていした10がつ以後いご復帰ふっきしている{{sfn|久保くぼ|2008|p=14-17}}。慶長けいちょう8ねん家康いえやす参内さんだい以来いらい武家ぶけ昵近しゅとして将軍しょうぐんとのしょれい出仕しゅっし朝廷ちょうていない政務せいむ儀式ぎしきつうじた実務じつむ官僚かんりょう1人ひとりとして、朝廷ちょうてい家康いえやすむすパイプ役ぱいぷやくとしての役割やくわりたした。昵近しゅにはあにてるおいの[[日野ひのしょう]]、息子むすこの[[広橋ひろはしそうこう]]なども選出せんしゅつされている{{sfn|渡邊わたなべ|2022|p=111-113}}。


慶長けいちょう15ねん([[1610ねん]])に[[陽成ようぜい天皇てんのう]]の譲位じょうい話題わだいになると、おなじく武家ぶけ伝奏てんそうの[[勧修寺かんしゅうじこうゆたか]]とともに[[京都きょうと所司代しょしだい]][[板倉いたくら勝重かつしげ]]と[[駿府すんぷ]]下向げこうについて相談そうだんしたり、駿府すんぷ家康いえやすから天皇てんのうもうれた譲位じょういかんする書状しょじょうり、京都きょうともどると書状しょじょう天皇てんのう披露ひろうした{{sfn|久保くぼ貴子たかこ|2008|p=19-21}}。慶長けいちょう18ねん([[1613ねん]])[[4がつ9にち (旧暦きゅうれき)|4がつ9にち]]に勝重かつしげとも駿府すんぷさい下向げこうして[[公家くげしゅ法度はっと]]の作成さくせいかかわり、[[6がつ16にち (旧暦きゅうれき)|6月16にち]]に制定せいていされた公家くげしゅ法度はっと家康いえやすからわたされると、帰京ききょうして[[7がつ12にち (旧暦きゅうれき)|7がつ12にち]]に法度はっと公家くげしゅ披露ひろうした{{sfn|久保くぼ貴子たかこ|2008|p=36,39}}{{sfn|黒田くろだ日出男ひでお|2015|p=170-172}}。慶長けいちょう19ねん([[1614ねん]])3がつと4がつ勅使ちょくしとして家康いえやすおよびの2だい将軍しょうぐん[[徳川とくがわ秀忠ひでただ]]の官位かんい昇進しょうしん秀忠ひでただむすめ[[徳川とくがわ和子かずこ|和子かずこ]](東福門院とうふくもんいん)の入内じゅだい宣旨せんじつたえたり、元和がんわ元年がんねん([[1615ねん]])[[7がつ17にち (旧暦きゅうれき)|7がつ17にち]]に[[禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと]]を公家くげしゅまえげる役目やくめたした。よく元和がんわ2ねん([[1616ねん]])に危篤きとくとなった家康いえやすの[[太政大臣だじょうだいじん]]任官にんかん朝廷ちょうていつたえるため、駿府すんぷ京都きょうと往復おうふくしたこともあった{{sfn|久保くぼ貴子たかこ|2008|p=39-42,46-47}}。
慶長けいちょう15ねん([[1610ねん]])に[[陽成ようぜい天皇てんのう]]の譲位じょうい話題わだいになると、おなじく武家ぶけ伝奏てんそうの[[勧修寺かんしゅうじこうゆたか]]とともに[[京都きょうと所司代しょしだい]][[板倉いたくら勝重かつしげ]]と[[駿府すんぷ]]下向げこうについて相談そうだんしたり、駿府すんぷ家康いえやすから天皇てんのうもうれた譲位じょういかんする書状しょじょうり、京都きょうともどると書状しょじょう天皇てんのう披露ひろうした{{sfn|久保くぼ|2008|p=19-21}}。慶長けいちょう18ねん([[1613ねん]])[[4がつ9にち (旧暦きゅうれき)|4がつ9にち]]に勝重かつしげとも駿府すんぷさい下向げこうして[[公家くげしゅ法度はっと]]の作成さくせいかかわり、[[6がつ16にち (旧暦きゅうれき)|6月16にち]]に制定せいていされた公家くげしゅ法度はっと家康いえやすからわたされると、帰京ききょうして[[7がつ12にち (旧暦きゅうれき)|7がつ12にち]]に法度はっと公家くげしゅ披露ひろうした{{sfn|久保くぼ|2008|p=36,39}}{{sfn|黒田くろだ|2015|p=170-172}}。慶長けいちょう19ねん([[1614ねん]])3がつと4がつ勅使ちょくしとして家康いえやすおよびの2だい将軍しょうぐん[[徳川とくがわ秀忠ひでただ]]の官位かんい昇進しょうしん秀忠ひでただむすめ[[徳川とくがわ和子かずこ|和子かずこ]](東福門院とうふくもんいん)の入内じゅだい宣旨せんじつたえたり、元和がんわ元年がんねん([[1615ねん]])[[7がつ17にち (旧暦きゅうれき)|7がつ17にち]]に[[禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと]]を公家くげしゅまえげる役目やくめたした。よく元和がんわ2ねん([[1616ねん]])に危篤きとくとなった家康いえやすの[[太政大臣だじょうだいじん]]任官にんかん朝廷ちょうていつたえるため、駿府すんぷ京都きょうと往復おうふくしたこともあった{{sfn|久保くぼ|2008|p=39-42,46-47}}。


元和がんわ4ねん([[1618ねん]])[[11月14にち (旧暦きゅうれき)|11月14にち]]に内大臣ないだいじんとなるがよく元和がんわ5ねん([[1619ねん]])[[2がつ17にち (旧暦きゅうれき)|2がつ17にち]]に辞職じしょく元和がんわ6ねん([[1620ねん]])[[閏月じゅんげつ|うるう]][[12月11にち (旧暦きゅうれき)|12月11にち]]にしたがえいちじょせられた。元和がんわ8ねん12月18にち(1623ねん1がつ18にち)に[[崩御ほうぎょ#薨去こうきょ|薨去こうきょ]]、[[享年きょうねん]]65(満年齢まんねんれい64){{sfn|野島のじま寿ことぶき三郎さぶろう|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうちまこと|深井ふかいまさうみ|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもとせいせん|2010|p=434}}。
元和がんわ4ねん([[1618ねん]])[[11月14にち (旧暦きゅうれき)|11月14にち]]に内大臣ないだいじんとなるがよく元和がんわ5ねん([[1619ねん]])[[2がつ17にち (旧暦きゅうれき)|2がつ17にち]]に辞職じしょく元和がんわ6ねん([[1620ねん]])[[閏月じゅんげつ|うるう]][[12月11にち (旧暦きゅうれき)|12月11にち]]にしたがえいちじょせられた。元和がんわ8ねん12月18にち(1623ねん1がつ18にち)に[[崩御ほうぎょ#薨去こうきょ|薨去こうきょ]]、[[享年きょうねん]]65(満年齢まんねんれい64){{sfn|野島のじま|1994|p=685}}{{sfn|竹内たけうち|深井ふかい|2005|p=849}}{{sfn|橋本はしもと|2010|p=434}}。


死去しきょさいして『春日かすが社司しゃしちゅうしんゆうはん』には「叡慮えいりょ悉皆しっかい執権しっけん出頭しゅっとう無双むそう伝奏てんそう也」とあり、その権勢けんせい絶大ぜつだいだった。一方いっぽうもと5ねん9がつ秀忠ひでただいのちによる公家くげの[[万里ばんり小路しょうじたかしぼう]]、[[四辻よつつじつぎ]]・[[やぶ嗣良|高倉たかくら嗣良]]兄弟きょうだい流罪るざい、[[中御門なかみかどせん衡]]、[[堀河ほりかわやすしたね]]、[[土御門つちみかどひさおさむ]]の出仕しゅっし停止ていし処罰しょばつ([[およつ御寮人ごりょうにん事件じけん]])で、武家ぶけ朝廷ちょうていへの圧力あつりょく反発はんぱつする[[後水尾天皇ごみずのおてんのう]]の側近そっきん公家くげしゅより「広橋ひろはしないさん百年以来之奸佞之残賊臣也、於唐[[ちょうだか]]・[[斯|)斯]]、於本朝ほんちょうしゃ[[蘇我入鹿そがのいるか|イルカ(にゅう鹿しか)]]・[[物部守屋もののべのもりや|守屋もりや]]しんばいセルしゃ也」(『[[土御門つちみかどやすししげる|たいじゅう]]きょう』)ときびしくひょうされた{{sfn|竹内たけうちまこと|深井ふかいまさうみ|2005|p=849}}{{sfn|久保くぼ貴子たかこ|2008|p=51}}。
死去しきょさいして『春日かすが社司しゃしちゅうしんゆうはん』には「叡慮えいりょ悉皆しっかい執権しっけん出頭しゅっとう無双むそう伝奏てんそう也」とあり、その権勢けんせい絶大ぜつだいだった。一方いっぽうもと5ねん9がつ秀忠ひでただいのちによる公家くげの[[万里ばんり小路しょうじたかしぼう]]、[[四辻よつつじつぎ]]・[[やぶ嗣良|高倉たかくら嗣良]]兄弟きょうだい流罪るざい、[[中御門なかみかどせん衡]]、[[堀河ほりかわやすしたね]]、[[土御門つちみかどひさおさむ]]の出仕しゅっし停止ていし処罰しょばつ([[およつ御寮人ごりょうにん事件じけん]])で、武家ぶけ朝廷ちょうていへの圧力あつりょく反発はんぱつする[[後水尾天皇ごみずのおてんのう]]の側近そっきん公家くげしゅより「広橋ひろはしないさん百年以来之奸佞之残賊臣也、於唐[[ちょうだか]]・[[斯|)斯]]、於本朝ほんちょうしゃ[[蘇我入鹿そがのいるか|イルカ(にゅう鹿しか)]]・[[物部守屋もののべのもりや|守屋もりや]]しんばいセルしゃ也」(『[[土御門つちみかどやすししげる|たいじゅう]]きょう』)ときびしくひょうされた{{sfn|竹内たけうち|深井ふかい|2005|p=849}}{{sfn|久保くぼ|2008|p=51}}。


[[岩佐いわさ又兵衛またべえ]]さく『[[洛中らくちゅう洛外らくがい]]屏風びょうぶ』(ふね木本もくほん)にえがかれていることが歴史れきし学者がくしゃ[[黒田くろだ日出男ひでお]]によりあきらかにされ、ひだりせきの[[二条城にじょうじょう]]の大手おおてもんくぐろうとしている公家くげけんしょう特定とくていされた。慶長けいちょう18ねん[[7がつ3にち (旧暦きゅうれき)|7がつ3にち]]、けんしょうとも公家くげしゅ法度はっと作成さくせい尽力じんりょくした勝重かつしげから振舞ふるまいにまねかれたところえがかれたのだと推測すいそくされている{{sfn|黒田くろだ日出男ひでお|2015|p=167-174}}。また、勝重かつしげ二条城にじょうじょう訴訟そしょう主宰しゅさいし、おんなうったえをいている場面ばめんえがかれ、勝重かつしげ次男じなん[[板倉いたくら重昌しげまさ]]もひだりせき中心ちゅうしんじくじょうえがかれている印象いんしょうてき武家ぶけ行列ぎょうれつしゅとしてえがかれている{{sfn|黒田くろだ日出男ひでお|2015|p=174-176,187-195}}。
[[岩佐いわさ又兵衛またべえ]]さく『[[洛中らくちゅう洛外らくがい]]屏風びょうぶ』(ふね木本もくほん)にえがかれていることが歴史れきし学者がくしゃ[[黒田くろだ日出男ひでお]]によりあきらかにされ、ひだりせきの[[二条城にじょうじょう]]の大手おおてもんくぐろうとしている公家くげけんしょう特定とくていされた。慶長けいちょう18ねん[[7がつ3にち (旧暦きゅうれき)|7がつ3にち]]、けんしょうとも公家くげしゅ法度はっと作成さくせい尽力じんりょくした勝重かつしげから振舞ふるまいにまねかれたところえがかれたのだと推測すいそくされている{{sfn|黒田くろだ|2015|p=167-174}}。また、勝重かつしげ二条城にじょうじょう訴訟そしょう主宰しゅさいし、おんなうったえをいている場面ばめんえがかれ、勝重かつしげ次男じなん[[板倉いたくら重昌しげまさ]]もひだりせき中心ちゅうしんじくじょうえがかれている印象いんしょうてき武家ぶけ行列ぎょうれつしゅとしてえがかれている{{sfn|黒田くろだ|2015|p=174-176,187-195}}。


== 人物じんぶつ ==
== 人物じんぶつ ==
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== 脚注きゃくちゅう ==
== 脚注きゃくちゅう ==
{{脚注きゃくちゅうヘルプ}}
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== 参考さんこう文献ぶんけん ==
== 参考さんこう文献ぶんけん ==
* [[野島のじま寿三郎じゅさぶろう]]へん公卿くぎょう人名じんめいだい事典じてん[[日外にちがいアソシエーツ]]1994とし
* {{Citation|和書わしょ|editor-last=野島のじま|editor-first=寿ことぶき三郎さぶろう|editor-link=野島のじま寿三郎じゅさぶろう|title=公卿くぎょう人名じんめいだい事典じてん|publisher=[[日外にちがいアソシエーツ]]|year=1994}}
* [[竹内たけうちまこと (歴史れきし学者がくしゃ)|竹内たけうちまこと]]・[[深井ふかいみやびうみ]]へん日本にっぽん近世きんせい人名じんめい辞典じてん[[吉川弘文館よしかわこうぶんかん]]2005とし
* {{Citation|和書わしょ|editor1-last=竹内たけうち|editor1-first=まこと|editor1-link=竹内たけうちまこと (歴史れきし学者がくしゃ)|editor2-last=深井ふかい|editor2-first=まさうみ|editor2-link=深井ふかいみやびうみ|title=日本にっぽん近世きんせい人名じんめい辞典じてん|publisher=[[吉川弘文館よしかわこうぶんかん]]|year=2005}}
* [[久保くぼ貴子たかこ]]『後水尾天皇ごみずのおてんのう <small>せんねんさかみわけて</small>』[[ミネルみねるァ書房ぁしょぼう]][[ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん]])、2008とし
* {{Citation|和書わしょ|last=久保くぼ|first=貴子たかこ|authorlink=久保くぼ貴子たかこ|title=後水尾天皇ごみずのおてんのう せんねんさかみわけて|publisher=[[ミネルみねるァ書房ぁしょぼう]]|series=[[ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん]]|year=2008}}
* [[橋本はしもとまさしせん]]へん公家くげ事典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん2010とし
* {{Citation|和書わしょ|editor-last=橋本はしもと|editor-first=せいせん|editor-link=橋本はしもとまさしせん|title=公家くげ事典じてん|publisher=吉川弘文館よしかわこうぶんかん|year=2010}}
* [[黒田くろだ日出男ひでお]]『洛中らくちゅう洛外らくがい舟木ふなきほん[[角川書店かどかわしょてん]][[角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん|角川かどかわ選書せんしょ]])、2015とし
* {{Citation|和書わしょ|last=黒田くろだ|first=日出男ひでお|authorlink=黒田くろだ日出男ひでお|title=洛中らくちゅう洛外らくがい舟木ふなきほん|publisher=[[KADOKAWA|角川書店かどかわしょてん]]|series=[[角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん|角川かどかわ選書せんしょ]]|year=2015}}
* [[渡邊わたなべ大門だいもん]]へん江戸えど幕府ばくふ誕生たんじょう <small>関ヶ原せきがはら合戦かっせん国家こっか戦略せんりゃく</small>』[[文学ぶんがく通信つうしん]]2022とし
* {{Citation|和書わしょ|editor-last=渡邊わたなべ|editor-first=大門だいもん|editor-link=渡邊わたなべ大門おおもん|title=江戸えど幕府ばくふ誕生たんじょう 関ヶ原せきがはら合戦かっせん国家こっか戦略せんりゃく|publisher=[[文学ぶんがく通信つうしん]]|year=2022}}


== 関連かんれん項目こうもく ==
== 関連かんれん項目こうもく ==

2024ねん6がつ26にち (水)すい 00:25時点じてんにおける最新さいしんばん

 
広橋ひろはし けんかち
広橋ひろはしけんかち
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん えいろく元年がんねん10月23にち1558ねん12月2にち
死没しぼつ 元和がんわ8ねん12月18にち1623ねん1がつ18にち
諡号しごう こうしょういん
官位かんい したがえいち内大臣ないだいじん
主君しゅくん 正親町おおぎまち天皇てんのうこう陽成ようぜい天皇てんのう後水尾天皇ごみずのおてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた日野ひのりゅう広橋ひろはし
父母ちちはは ちち広橋ひろはし国光くにみつはは高倉たかくらひさしむすめ
兄弟きょうだい 日野ひのあきらけんかちにちただし
つま 烏丸からすま光康みつやすむすめ
そうひかり油小路あぶらのこうじりゅうはじめ鷲尾わしおたかしりょうしんあまね
かんすけ広橋ひろはしきょく樋口ひぐち信孝のぶたかしつ
中御門なかみかどそうたもつしつうらつじぶくしつ
テンプレートを表示ひょうじ

広橋ひろはし けんかち(ひろはし かねかつ)は、安土あづち桃山ももやま時代じだい江戸えど時代じだい初期しょき公家くげ歌人かじん藤原ふじわらきた日野ひのりゅうちち広橋ひろはし国光くにみつはは高倉たかくらひさしむすめあに日野ひのあきらほん家筋いえすじ日野ひのいだことでけんしょう広橋ひろはし嫡子ちゃくしあと)となった。ごうこうしょういんいちめいみつぎ法名ほうみょうかいさび官位かんいしたがえいち内大臣ないだいじん勧修寺かんしゅうじこうゆたかとともに江戸えど幕府ばくふ初代しょだい武家ぶけ伝奏てんそう慶長けいちょう8ねん1603ねん) - 元和げんな5ねん1619ねん))。

経歴けいれき

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えいろく5ねん1562ねん12月6にちしたがえ叙位じょいはじまり、えいろく8ねん1565ねん1がつ6にちせいえいろく12ねん1569ねん1がつ10日とおかみぎしょうべん天正てんしょう2ねん1574ねん3月28にちひだりしょうわきまえ天正てんしょう4ねん1576ねん12月18にちせいじょうまですすみ、天正てんしょう5ねん1577ねん)には1がつ18にちみぎちゅうわきまえ28にちしたがえよん2がつ8にちしたがえよんじょうになり蔵人くろうどあたま任命にんめい11月20にちせいよんとなった。天正てんしょう6ねん1578ねん1がつ6にちせいよんじょう天正てんしょう8ねん1580ねん1がつ5にち参議さんぎけんひだりだいべん1がつ20日はつかにはしたがえさんのぼった[1][2][3]

天正てんしょう10ねん1582ねん1がつ19にちけん中納言ちゅうなごん天正てんしょう11ねん1583ねん)1がつ5にちせいさん天正てんしょう14ねん1586ねん)1がつ5にちしたがえ慶長けいちょう2ねん1597ねん1がつ11にちけん大納言だいなごんとなり、よく慶長けいちょう3ねん1598ねん10月13にちせいとなった[1][2][3]

慶長けいちょう8ねん1603ねん)、徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐん内示ないじあたえた。同年どうねん2がつ12にちからぼっするまで武家ぶけ伝奏てんそうにんじられ、公家くげなかでももっと武家ぶけりの行動こうどうをとり、朝廷ちょうてい幕府ばくふ融和ゆうわつとめた。大坂おおさかふゆじんでも家康いえやす豊臣とよとみ秀頼ひでより和睦わぼく尽力じんりょくする[1][2][3]。しかし慶長けいちょう14ねん1609ねん)には、猪熊いのくま事件じけん関与かんよしたむすめ広橋ひろはしきょく伊豆いず新島にいじま配流はいるけんかち事件じけん発覚はっかくした7がつ4にち以後いご謹慎きんしんしていたが、むすめ処分しょぶん確定かくていした10がつ以後いご復帰ふっきしている[4]慶長けいちょう8ねん家康いえやす参内さんだい以来いらい武家ぶけ昵近しゅとして将軍しょうぐんとのしょれい出仕しゅっし朝廷ちょうていない政務せいむ儀式ぎしきつうじた実務じつむ官僚かんりょう1人ひとりとして、朝廷ちょうてい家康いえやすむすパイプ役ぱいぷやくとしての役割やくわりたした。昵近しゅにはあにてるおい日野ひのしょう息子むすこ広橋ひろはしそうこうなども選出せんしゅつされている[5]

慶長けいちょう15ねん1610ねん)にこう陽成ようぜい天皇てんのう譲位じょうい話題わだいになると、おなじく武家ぶけ伝奏てんそう勧修寺かんしゅうじこうゆたかとも京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら勝重かつしげ駿府すんぷ下向げこうについて相談そうだんしたり、駿府すんぷ家康いえやすから天皇てんのうもうれた譲位じょういかんする書状しょじょうり、京都きょうともどると書状しょじょう天皇てんのう披露ひろうした[6]慶長けいちょう18ねん1613ねん4がつ9にち勝重かつしげとも駿府すんぷさい下向げこうして公家くげしゅ法度はっと作成さくせいかかわり、6月16にち制定せいていされた公家くげしゅ法度はっと家康いえやすからわたされると、帰京ききょうして7がつ12にち法度はっと公家くげしゅ披露ひろうした[7][8]慶長けいちょう19ねん1614ねん)3がつと4がつ勅使ちょくしとして家康いえやすおよびの2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ官位かんい昇進しょうしん秀忠ひでただむすめ和子かずこ東福門院とうふくもんいん)の入内じゅだい宣旨せんじつたえたり、元和がんわ元年がんねん1615ねん7がつ17にち禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと公家くげしゅまえげる役目やくめたした。よく元和がんわ2ねん1616ねん)に危篤きとくとなった家康いえやす太政大臣だじょうだいじん任官にんかん朝廷ちょうていつたえるため、駿府すんぷ京都きょうと往復おうふくしたこともあった[9]

元和がんわ4ねん1618ねん11月14にち内大臣ないだいじんとなるがよく元和がんわ5ねん1619ねん2がつ17にち辞職じしょく元和がんわ6ねん1620ねんうるう12月11にちしたがえいちじょせられた。元和がんわ8ねん12月18にち(1623ねん1がつ18にち)に薨去こうきょ享年きょうねん65(満年齢まんねんれい64)[1][2][3]

死去しきょさいして『春日かすが社司しゃしちゅうしんゆうはん』には「叡慮えいりょ悉皆しっかい執権しっけん出頭しゅっとう無双むそう伝奏てんそう也」とあり、その権勢けんせい絶大ぜつだいだった。一方いっぽうもと5ねん9がつ秀忠ひでただいのちによる公家くげ万里まり小路しょうじたかしぼう四辻よつつじままし高倉たかくら嗣良兄弟きょうだい流罪るざい中御門なかみかどせん堀河ほりかわやすしたね土御門つちみかどひさおさむ出仕しゅっし停止ていし処罰しょばつおよつ御寮人ごりょうにん事件じけん)で、武家ぶけ朝廷ちょうていへの圧力あつりょく反発はんぱつする後水尾天皇ごみずのおてんのう側近そっきん公家くげしゅより「広橋ひろはしないさん百年以来之奸佞之残賊臣也、於唐ちょうだか)斯、於本朝ほんちょうしゃイルカ(にゅう鹿しか守屋もりやこれしんばいセルしゃ也」(『たいじゅうきょう』)ときびしくひょうされた[2][10]

岩佐いわさ又兵衛またべえさく洛中らくちゅう洛外らくがい屏風びょうぶ』(ふね木本もくほん)にえがかれていることが歴史れきし学者がくしゃ黒田くろだ日出男ひでおによりあきらかにされ、ひだりせき二条城にじょうじょう大手おおてもんくぐろうとしている公家くげけんしょう特定とくていされた。慶長けいちょう18ねん7がつ3にちけんしょうとも公家くげしゅ法度はっと作成さくせい尽力じんりょくした勝重かつしげから振舞ふるまいにまねかれたところえがかれたのだと推測すいそくされている[11]。また、勝重かつしげ二条城にじょうじょう訴訟そしょう主宰しゅさいし、おんなうったえをいている場面ばめんえがかれ、勝重かつしげ次男じなん板倉いたくら重昌しげまさひだりせき中心ちゅうしんじくじょうえがかれている印象いんしょうてき武家ぶけ行列ぎょうれつしゅとしてえがかれている[12]

人物じんぶつ

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ちゃ古田ふるた織部おりべまなんでいる(『茶人ちゃじん系譜けいふ』)。

系譜けいふ

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登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 野島のじま 1994, p. 685.
  2. ^ a b c d e 竹内たけうち & 深井ふかい 2005, p. 849.
  3. ^ a b c d 橋本はしもと 2010, p. 434.
  4. ^ 久保くぼ 2008, p. 14-17.
  5. ^ 渡邊わたなべ 2022, p. 111-113.
  6. ^ 久保くぼ 2008, p. 19-21.
  7. ^ 久保くぼ 2008, p. 36,39.
  8. ^ 黒田くろだ 2015, p. 170-172.
  9. ^ 久保くぼ 2008, p. 39-42,46-47.
  10. ^ 久保くぼ 2008, p. 51.
  11. ^ 黒田くろだ 2015, p. 167-174.
  12. ^ 黒田くろだ 2015, p. 174-176,187-195.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
広橋ひろはし国光くにみつ
広橋ひろはし当主とうしゅ
だい14だい
次代じだい
広橋ひろはしそうこう