(Translated by https://www.hiragana.jp/)
「金子健二」の版間の差分 - Wikipedia コンテンツにスキップ

金子かねこ健二けんじ」のはんあいだ差分さぶん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除さくじょされた内容ないよう 追加ついかされた内容ないよう
More used with only one reference definition: 1 new reference and 2 new reference calls.
編集へんしゅう要約ようやくなし
1ぎょう: 1ぎょう:
{{出典しゅってん明記めいき|date=2020-03}}
{{出典しゅってん明記めいき|date=2020-03}}
'''金子かねこ 健二けんじ'''(かねこ けんじ、[[1880ねん]]1がつ13にち - [[1962ねん]][[1がつ3にち]])は、日本にっぽん英文えいぶん学者がくしゃ翻訳ほんやくしゃ
'''金子かねこ 健二けんじ'''(かねこ けんじ、[[1880ねん]][[1がつ13にち]] - [[1962ねん]][[1がつ3にち]])は、日本にっぽん[[イギリス文学ぶんがくしゃ|英文えいぶん学者がくしゃ]][[翻訳ほんやく|翻訳ほんやくしゃ]]


==経歴けいれき==
==経歴けいれき==
1880ねん明治めいじ13ねん)、[[新潟にいがたけん]]ちゅう頸城ぐん新井あらいまちまれる。[[新潟にいがた県立けんりつ高田高等学校たかだこうとうがっこう|高田たかだ中学校ちゅうがっこう]]から東京とうきょうの[[いくぶんかん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう|いくぶんかん中学校ちゅうがっこう]]、[[だいよん高等こうとう学校がっこう (旧制きゅうせい)|だいよん高等こうとう学校がっこう]]をて1905ねんに[[東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかいけい研究けんきゅう文学部ぶんがくぶ|東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん]]を卒業そつぎょうした。<ref name="#1">「金子かねこ学長がくちょう逝去せいきょ 年譜ねんぷ業績ぎょうせき著書ちょしょ論文ろんぶんその」『学苑がくえん(269)』(昭和女子大学しょうわじょしだいがく近代きんだい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1962ねん5がつ)</ref>
1880ねん明治めいじ13ねん)、[[新潟にいがたけん]][[ちゅう頸城ぐん]][[新井あらいまち (新潟にいがたけん)|新井あらいまち]]まれる。[[新潟にいがた県立けんりつ高田高等学校たかだこうとうがっこう|高田たかだ中学校ちゅうがっこう]]から東京とうきょうの[[いくぶんかん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう|いくぶんかん中学校ちゅうがっこう]]、[[だいよん高等こうとう学校がっこう (旧制きゅうせい)|だいよん高等こうとう学校がっこう]]をて1905ねんに[[東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかいけい研究けんきゅう文学部ぶんがくぶ|東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん]]を卒業そつぎょうした。<ref name="#1">「金子かねこ学長がくちょう逝去せいきょ 年譜ねんぷ業績ぎょうせき著書ちょしょ論文ろんぶんその」『学苑がくえん(269)』(昭和女子大学しょうわじょしだいがく近代きんだい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1962ねん5がつ)</ref>


みかどだい在学ざいがくちゅういちねん前半ぜんはんは[[小泉こいずみ八雲やくも]]、八雲やくも退任たいにんさん年間ねんかんは[[夏目なつめ漱石そうせき]]の講義こうぎ出席しゅっせきして、その様子ようすくわしく日記にっきしるしている。日記にっき内容ないよう著書ちょしょ人間にんげん漱石そうせき』(いちろしゃ、1948。増補ぞうほばん協同きょうどう出版しゅっぱん、1956)や、まご金子かねこ三郎さぶろう編纂へんさんした『かわわたもちやいもちやい――金子かねこ健二けんじ日記にっきしょう』(上中かみなか下巻げかん私家版しかばん、1998)、『記録きろく 東京帝大とうきょうていだいいち学生がくせい聴講ちょうこうノート』(リーブ企画きかく、2002)とう紹介しょうかいされており、漱石そうせき研究けんきゅうしゃにとって非常ひじょう貴重きちょう資料しりょうとなっている。
みかどだい在学ざいがくちゅういちねん前半ぜんはんは[[小泉こいずみ八雲やくも]]、八雲やくも退任たいにんさん年間ねんかんは[[夏目なつめ漱石そうせき]]の講義こうぎ出席しゅっせきして、その様子ようすくわしく日記にっきしるしている。日記にっき内容ないよう著書ちょしょ人間にんげん漱石そうせき』(いちろしゃ、1948。増補ぞうほばん協同きょうどう出版しゅっぱん、1956)や、まご金子かねこ三郎さぶろう編纂へんさんした『かわわたもちやいもちやい――金子かねこ健二けんじ日記にっきしょう』(上中かみなか下巻げかん私家版しかばん、1998)、『記録きろく 東京帝大とうきょうていだいいち学生がくせい聴講ちょうこうノート』(リーブ企画きかく、2002)とう紹介しょうかいされており、漱石そうせき研究けんきゅうしゃにとって非常ひじょう貴重きちょう資料しりょうとなっている。
11ぎょう: 11ぎょう:
八雲やくも学生がくせいあいだ絶大ぜつだい人気にんきていたにもかかわらず解任かいにんされたことが、後任こうにん漱石そうせきたいする学生がくせい反感はんかんにつながることとなる。当初とうしょ漱石そうせき講義こうぎ学生がくせいにリーディングとわけをさせるもので、これも学生がくせいには不評ふひょうであった。金子かねこも「リーディングはかたっぱしからなおされるので、たったもの衆人しゅうじん環視かんしなかおおきな恥辱ちじょくあたえられることになった。わたしたち大学生だいがくせいから逆転ぎゃくてんしてふたた中学生ちゅうがくせいもどされたやうな屈辱くつじょくかんじた」<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)54ぺーじ</ref>とう随所ずいしょ不満ふまんしるしている。だが、つぎ学年がくねんから漱石そうせきが[[シェークスピア]]の講義こうぎおこなうようになると評判ひょうばん好転こうてんし、金子かねこ日記にっきにも「夏目なつめ先生せんせい訳解やっかい正確せいかく適切てきせつにしていちてんのあいまいなところなし。(中略ちゅうりゃく)先生せんせい英文えいぶん解釈かいしゃくカは文法ぶんぽうてきてすばらしいものがある」<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)73ぺーじ</ref>とう賞賛しょうさん言葉ことば目立めだつようになる。さらに、「文学ぶんがく鑑賞かんしょうへの 科学かがくてき基礎きそ観念かんねんわたしわか学徒がくととしての胸裏きょうりうえけられたこといまでも感謝かんしゃしてゐる」<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)65ぺーじ</ref>とう学問がくもんてき師弟してい関係かんけいにあることを自認じにんしている。
八雲やくも学生がくせいあいだ絶大ぜつだい人気にんきていたにもかかわらず解任かいにんされたことが、後任こうにん漱石そうせきたいする学生がくせい反感はんかんにつながることとなる。当初とうしょ漱石そうせき講義こうぎ学生がくせいにリーディングとわけをさせるもので、これも学生がくせいには不評ふひょうであった。金子かねこも「リーディングはかたっぱしからなおされるので、たったもの衆人しゅうじん環視かんしなかおおきな恥辱ちじょくあたえられることになった。わたしたち大学生だいがくせいから逆転ぎゃくてんしてふたた中学生ちゅうがくせいもどされたやうな屈辱くつじょくかんじた」<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)54ぺーじ</ref>とう随所ずいしょ不満ふまんしるしている。だが、つぎ学年がくねんから漱石そうせきが[[シェークスピア]]の講義こうぎおこなうようになると評判ひょうばん好転こうてんし、金子かねこ日記にっきにも「夏目なつめ先生せんせい訳解やっかい正確せいかく適切てきせつにしていちてんのあいまいなところなし。(中略ちゅうりゃく)先生せんせい英文えいぶん解釈かいしゃくカは文法ぶんぽうてきてすばらしいものがある」<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)73ぺーじ</ref>とう賞賛しょうさん言葉ことば目立めだつようになる。さらに、「文学ぶんがく鑑賞かんしょうへの 科学かがくてき基礎きそ観念かんねんわたしわか学徒がくととしての胸裏きょうりうえけられたこといまでも感謝かんしゃしてゐる」<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)65ぺーじ</ref>とう学問がくもんてき師弟してい関係かんけいにあることを自認じにんしている。


大学だいがく卒業そつぎょう長野ながのけん飯田いいだ中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆとなるが、1907ねん明治めいじ40ねん)、同校どうこうして米国べいこく留学りゅうがくし、[[カリフォルニア大学だいがくバークレーこう]]大学院だいがくいんでで、古代こだい中世ちゅうせい英語えいご研究けんきゅうする。1909ねん明治めいじ42ねん帰国きこくし、[[広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう]]教授きょうじゅとなる<ref name="#1"/>。金子かねこ当初とうしょ経済けいざいてき余裕よゆうがないのに大学院だいがくいん進学しんがくして、文壇ぶんだんふでろうという野心やしんっていたが、漱石そうせきからまず田舎いなか中学ちゅうがく教員きょういんとなって勉強べんきょうし、外国がいこくくための資金しきんめたほうがいいと忠告ちゅうこくされたので、その言葉ことばしたがったという<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)297ー298ぺーじ</ref>。
大学だいがく卒業そつぎょう[[長野ながのけん飯田いいだ高等こうとう学校がっこう|長野ながのけん飯田いいだ中学校ちゅうがっこう]]教諭きょうゆとなるが、1907ねん明治めいじ40ねん)、同校どうこうして米国べいこく留学りゅうがくし、[[カリフォルニア大学だいがくバークレーこう]]大学院だいがくいんでで、古代こだい中世ちゅうせい英語えいご研究けんきゅうする。1909ねん明治めいじ42ねん帰国きこくし、[[広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう]]教授きょうじゅとなる<ref name="#1"/>。金子かねこ当初とうしょ経済けいざいてき余裕よゆうがないのに大学院だいがくいん進学しんがくして、文壇ぶんだんふでろうという野心やしんっていたが、漱石そうせきからまず田舎いなか中学ちゅうがく教員きょういんとなって勉強べんきょうし、外国がいこくくための資金しきんめたほうがいいと忠告ちゅうこくされたので、その言葉ことばしたがったという<ref>金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)297ー298ぺーじ</ref>。


1924ねん大正たいしょう13ねん)に在外ざいがい研究けんきゅういんとしてわたりおうし、欧米おうべい各国かっこく調査ちょうさ研究けんきゅうして翌年よくねん帰国きこくさらに1926ねん大正たいしょう15ねん)に[[文部省もんぶしょう]][[視学しがく制度せいど|とくがくかん]]となり、普通ふつう教育きょういく視察しさつ団長だんちょうとして満州まんしゅう中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん視察しさつする。1933ねん昭和しょうわ8ねん)に[[静岡高等学校しずおかこうとうがっこう (旧制きゅうせい)|静岡高等学校しずおかこうとうがっこう]]校長こうちょう就任しゅうにん、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に[[姫路ひめじ高等こうとう学校がっこう (旧制きゅうせい)|姫路ひめじ高等こうとう学校がっこう]]校長こうちょうてんじる。1941ねん昭和しょうわ16ねん)、日本にっぽん女子じょし高等こうとう学院がくいん(1946ねんよりこうめい変更へんこう日本にっぽん女子じょし専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅとなり、1946ねん昭和しょうわ21ねん)には学校がっこう法人ほうじん東邦とうほう学園がくえん理事りじねる。1949ねん昭和しょうわ24ねん)、日本にっぽん女子じょし専門せんもん学校がっこう改称かいしょうした[[昭和女子大学しょうわじょしだいがく]]の初代しょだい学長がくちょう就任しゅうにんするとともに理事りじつとめた。そのあいだ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に[[くんさんとう]]を受章じゅしょうし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)には[[したがえさん]]にじょされる。<ref name="#1"/>
1924ねん大正たいしょう13ねん)に在外ざいがい研究けんきゅういんとしてわたりおうし、欧米おうべい各国かっこく調査ちょうさ研究けんきゅうして翌年よくねん帰国きこくさらに1926ねん大正たいしょう15ねん)に[[文部省もんぶしょう]][[視学しがく制度せいど|とくがくかん]]となり、普通ふつう教育きょういく視察しさつ団長だんちょうとして満州まんしゅう中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん視察しさつする。1933ねん昭和しょうわ8ねん)に[[静岡高等学校しずおかこうとうがっこう (旧制きゅうせい)|静岡高等学校しずおかこうとうがっこう]]校長こうちょう就任しゅうにん、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に[[姫路ひめじ高等こうとう学校がっこう (旧制きゅうせい)|姫路ひめじ高等こうとう学校がっこう]]校長こうちょうてんじる。1941ねん昭和しょうわ16ねん)、日本にっぽん女子じょし高等こうとう学院がくいん(1946ねんよりこうめい変更へんこう日本にっぽん女子じょし専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅとなり、1946ねん昭和しょうわ21ねん)には学校がっこう法人ほうじん東邦とうほう学園がくえん理事りじねる。1949ねん昭和しょうわ24ねん)、日本にっぽん女子じょし専門せんもん学校がっこう改称かいしょうした[[昭和女子大学しょうわじょしだいがく]]の初代しょだい学長がくちょう就任しゅうにんするとともに理事りじつとめた。そのあいだ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に[[くんさんとう]]を受章じゅしょうし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)には[[したがえさん]]にじょされる。<ref name="#1"/>
64ぎょう: 64ぎょう:
{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かねこ けんし}}
{{DEFAULTSORT:かねこ けんし}}
[[Category:日本にっぽん文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ]]
[[Category:日本にっぽん英語えいご文学ぶんがく研究けんきゅうしゃ]]
[[Category:イギリス文学ぶんがくしゃ]]
[[Category:イギリス文学ぶんがくしゃ]]
[[Category:日本にっぽん大学だいがく学長がくちょう]]
[[Category:昭和女子大学しょうわじょしだいがく教員きょういん]]
[[Category:昭和女子大学しょうわじょしだいがく教員きょういん]]
[[Category:神戸大学こうべだいがく学長がくちょう]]
[[Category:神戸大学こうべだいがく教員きょういん]]
[[Category:神戸大学こうべだいがく教員きょういん]]
[[Category:静岡大学しずおかだいがく教員きょういん]]
[[Category:静岡大学しずおかだいがく教員きょういん]]
[[Category:広島大学ひろしまだいがく教員きょういん]]
[[Category:広島大学ひろしまだいがく教員きょういん]]
[[Category:東京大学とうきょうだいがく出身しゅっしん人物じんぶつ]]
[[Category:東京大学とうきょうだいがく出身しゅっしん人物じんぶつ]]
[[Category:神戸こうべ大学だいがく学長がくちょう]]
[[Category:新潟にいがたけん出身しゅっしん人物じんぶつ]]
[[Category:新潟にいがたけん出身しゅっしん人物じんぶつ]]
[[Category:したがえさん受位しゃ]]
[[Category:1880年生ねんせい]]
[[Category:1880年生ねんせい]]
[[Category:1962ねんぼつ]]
[[Category:1962ねんぼつ]]

2023ねん2がつ21にち (火) 12:35時点じてんにおけるはん

金子かねこ 健二けんじ(かねこ けんじ、1880ねん1がつ13にち - 1962ねん1がつ3にち)は、日本にっぽん英文えいぶん学者がくしゃ翻訳ほんやくしゃ

経歴けいれき

1880ねん明治めいじ13ねん)、新潟にいがたけんちゅう頸城ぐん新井あらいまちまれる。高田たかだ中学校ちゅうがっこうから東京とうきょういくぶんかん中学校ちゅうがっこうだいよん高等こうとう学校がっこうて1905ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく英文えいぶん卒業そつぎょうした。[1]

みかどだい在学ざいがくちゅういちねん前半ぜんはん小泉こいずみ八雲やくも八雲やくも退任たいにんさん年間ねんかん夏目なつめ漱石そうせき講義こうぎ出席しゅっせきして、その様子ようすくわしく日記にっきしるしている。日記にっき内容ないよう著書ちょしょ人間にんげん漱石そうせき』(いちろしゃ、1948。増補ぞうほばん協同きょうどう出版しゅっぱん、1956)や、まご金子かねこ三郎さぶろう編纂へんさんした『かわわたもちやいもちやい――金子かねこ健二けんじ日記にっきしょう』(上中かみなか下巻げかん私家版しかばん、1998)、『記録きろく 東京帝大とうきょうていだいいち学生がくせい聴講ちょうこうノート』(リーブ企画きかく、2002)とう紹介しょうかいされており、漱石そうせき研究けんきゅうしゃにとって非常ひじょう貴重きちょう資料しりょうとなっている。

八雲やくも講義こうぎは19世紀せいきえい文学ぶんがくてき鑑賞かんしょうするもので、金子かねこは「先生せんせいのお言葉ことばそのものの調子ちょうしすで詩人しじん感情かんじょうあきらかに表現ひょうげんしてゐた(中略ちゅうりゃく)諄乎たる芸術げいじゅつ愛好あいこうへの手引てびきとなって、そのよこにひろがった多方面たほうめん趣味しゅみすくなくともわたしたちいち生涯しょうがいにとりて非常ひじょうおおきな幸福こうふくったことをわたしいまでも感謝かんしゃしてゐる」[2]絶賛ぜっさんしており、のち大谷おおや繞石ぎょうせきら、きゅうにん八雲やくもおしとともに『小泉こいずみ八雲やくも全集ぜんしゅう』(だいいち書房しょぼう)の翻訳ほんやく担当たんとうした。

八雲やくも学生がくせいあいだ絶大ぜつだい人気にんきていたにもかかわらず解任かいにんされたことが、後任こうにん漱石そうせきたいする学生がくせい反感はんかんにつながることとなる。当初とうしょ漱石そうせき講義こうぎ学生がくせいにリーディングとわけをさせるもので、これも学生がくせいには不評ふひょうであった。金子かねこも「リーディングはかたっぱしからなおされるので、たったもの衆人しゅうじん環視かんしなかおおきな恥辱ちじょくあたえられることになった。わたしたち大学生だいがくせいから逆転ぎゃくてんしてふたた中学生ちゅうがくせいもどされたやうな屈辱くつじょくかんじた」[3]ひとし随所ずいしょ不満ふまんしるしている。だが、つぎ学年がくねんから漱石そうせきシェークスピア講義こうぎおこなうようになると評判ひょうばん好転こうてんし、金子かねこ日記にっきにも「夏目なつめ先生せんせい訳解やっかい正確せいかく適切てきせつにしていちてんのあいまいなところなし。(中略ちゅうりゃく)先生せんせい英文えいぶん解釈かいしゃくカは文法ぶんぽうてきてすばらしいものがある」[4]ひとし賞賛しょうさん言葉ことば目立めだつようになる。さらに、「文学ぶんがく鑑賞かんしょうへの 科学かがくてき基礎きそ観念かんねんわたしわか学徒がくととしての胸裏きょうりうえけられたこといまでも感謝かんしゃしてゐる」[5]ひとし学問がくもんてき師弟してい関係かんけいにあることを自認じにんしている。

大学だいがく卒業そつぎょう長野ながのけん飯田いいだ中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆとなるが、1907ねん明治めいじ40ねん)、同校どうこうして米国べいこく留学りゅうがくし、カリフォルニア大学だいがくバークレーこう大学院だいがくいんでで、古代こだい中世ちゅうせい英語えいご研究けんきゅうする。1909ねん明治めいじ42ねん帰国きこくし、広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう教授きょうじゅとなる[1]金子かねこ当初とうしょ経済けいざいてき余裕よゆうがないのに大学院だいがくいん進学しんがくして、文壇ぶんだんふでろうという野心やしんっていたが、漱石そうせきからまず田舎いなか中学ちゅうがく教員きょういんとなって勉強べんきょうし、外国がいこくくための資金しきんめたほうがいいと忠告ちゅうこくされたので、その言葉ことばしたがったという[6]

1924ねん大正たいしょう13ねん)に在外ざいがい研究けんきゅういんとしてわたりおうし、欧米おうべい各国かっこく調査ちょうさ研究けんきゅうして翌年よくねん帰国きこくさらに1926ねん大正たいしょう15ねん)に文部省もんぶしょうとくがくかんとなり、普通ふつう教育きょういく視察しさつ団長だんちょうとして満州まんしゅう中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん視察しさつする。1933ねん昭和しょうわ8ねん)に静岡高等学校しずおかこうとうがっこう校長こうちょう就任しゅうにん、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に姫路ひめじ高等こうとう学校がっこう校長こうちょうてんじる。1941ねん昭和しょうわ16ねん)、日本にっぽん女子じょし高等こうとう学院がくいん(1946ねんよりこうめい変更へんこう日本にっぽん女子じょし専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅとなり、1946ねん昭和しょうわ21ねん)には学校がっこう法人ほうじん東邦とうほう学園がくえん理事りじねる。1949ねん昭和しょうわ24ねん)、日本にっぽん女子じょし専門せんもん学校がっこう改称かいしょうした昭和女子大学しょうわじょしだいがく初代しょだい学長がくちょう就任しゅうにんするとともに理事りじつとめた。そのあいだ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)にくんさんとう受章じゅしょうし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはしたがえさんじょされる。[1]

著書ちょしょ

  • 言葉ことば研究けんきゅう言葉ことば教授きょうじゅ東京とうきょうたからぶんかん、1923ねん
  • 英国えいこく世相せそう東京とうきょうたからぶんかん、1923ねん
  • うまのくしやみ』積善せきぜんかん、1926ねん
  • 言語げんご哲学てつがく言語げんご共和きょうわこく目黒めぐろ書店しょてん、1927ねん
  • 北欧ほくおう海賊かいぞく英国えいこく文明ぶんめい研究けんきゅうしゃ、1927ねん
  • 英国えいこく自然しぜん美文びぶんがく研究けんきゅう泰文やすふみどう書店しょてん、1928ねん
  • 『ガンヂーさんの糸車いとぐるま尚文なおふみどう、1931ねん
  • 英語えいご発達はったつ健文たけふみしゃ、1932ねん
  • 印度いんど湯川ゆかわ弘文社こうぶんしゃ、1942ねん
  • 巡歴じゅんれき詩人しじん湯川ゆかわ弘文社こうぶんしゃ、1942ねん
  • 東洋とうよう文化ぶんか西漸せいぜん冨山とやまぼう、1943ねん
  • 俳人はいじん遺墨いぼく湯川ゆかわ弘文社こうぶんしゃ、1943ねん
  • 『アメリカ文化ぶんか弘文社こうぶんしゃ、1947ねん
  • 人間にんげん漱石そうせき』いちろしゃ、1948ねん

翻訳ほんやく

  • マンダヴイル『東洋とうよう旅行りょこうだいあぶみかく、1919ねん
  • チヨーサア『カンタベリ物語ものがたり国際こくさい文献ぶんけん刊行かんこうかい<世界せかい奇書きしょ異聞いぶん類聚るいじゅう>、1926ねん のち角川かどかわ文庫ぶんこ 
  • 『ジエスタ・ローマノーラム』たからぶんかん、1928ねん
  • えい吉利よしとしちゅう世紀せいき物語ものがたり詩集ししゅう健文たけふみしゃ、1930ねん
  • えい吉利よしとし中世ちゅうせいローマななけん物語ものがたり健文たけふみしゃ、1930ねん 
  • 小泉こいずみ八雲やくも全集ぜんしゅう だい11かん 書簡しょかんしゅうだいいち書房しょぼう、1931ねん

脚注きゃくちゅう

  1. ^ a b c 金子かねこ学長がくちょう逝去せいきょ 年譜ねんぷ業績ぎょうせき著書ちょしょ論文ろんぶんその」『学苑がくえん(269)』(昭和女子大学しょうわじょしだいがく近代きんだい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1962ねん5がつ
  2. ^ 金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)37ー43ぺーじ
  3. ^ 金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)54ぺーじ
  4. ^ 金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)73ぺーじ
  5. ^ 金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)65ぺーじ
  6. ^ 金子かねこ健二けんじ人間にんげん漱石そうせき』(共同きょうどう出版しゅっぱんしゃ、1956ねん)297ー298ぺーじ

 

外部がいぶリンク

公職こうしょく
先代せんだい
ほりしげるさと
日本の旗 静岡高等学校しずおかこうとうがっこうちょう
1933ねん - 1939ねん
次代じだい
三谷みたにたかし
がくしょく
先代せんだい
新設しんせつ
昭和女子大学しょうわじょしだいがくなが
1949ねん - 1962ねん
次代じだい
玉井たまいみゆきすけ