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白井 亨(しらい とおる, 1783年(天明3年) - 1843年12月5日(天保14年11月14日)は、、江戸時代後期の剣客。天真一刀流二代目、天真兵法の開祖(天真白井流)。名は義謙。号を鳩洲。中西派一刀流の中西道場にて、寺田五郎衛門、高柳又四郎と並んで「中西道場三羽烏」と呼ばれる。
生涯
江戸の町人・大野家にて天明3年(1783年)に生まれ、後に母方の祖父である信州中野の郷士・白井彦兵衛の養子となる。亨が八歳のとき彦兵衛が没し、遺言にて母は亨を機迅流の依田秀復の元へ入門させる。母の熱心な励ましもあって亨は毎日重い木刀や竹刀を振って稽古に励んだという。しかし亨は元来の体格に恵まれないのと、師である依田との折り合いが悪い事もあって免許が得られず、道場を出る。
その後、当時江戸で名高い中西派一刀流の中西忠太子啓の元へ入門する。同門には、寺田五郎衛門、高柳又四郎、浅利又七郎、千葉周作などがおり、その中で亨も腕を磨いた。
文化2年(1805年)、師の忠太子啓が没したことを機に亨は武者修行の旅に出る。岡田十松の神道無念流道場や馬庭念流の道場などで数々の試合をして高い評価を得て、岡山藩にて優遇されて亨は道場を開く。(白井亨が岡山藩士と多くでは表記されるのはこれが所以であるが、実際には籍を置いていないと言われる)
文化8年(1811年)、母の病の知らせもあって亨は江戸に戻る。その時にかつての中西道場の同門達を尋ねて回るが、その剣の衰えように亨は落胆し、老いることへの疑問を持ち、それをかつての兄弟子である寺田五郎衛門へ打ち明けて立ち会うことになる。六十歳を越えた寺田五郎衛門の気迫に負け圧巻した亨は寺田五郎衛門の元へ改めて入門する。
後に寺田の天真一刀流を継いで二代目となるが、亨は自流の研究のため天真一刀流を他の高弟に託して、自身は天真兵法を創始する。
天保3年(1832年)、大石進が江戸の各道場にて試合を挑み、江戸の道場でただ一人これを破って面目を保ったのは白井亨のみであったと言われる。
白井亨は心法によっての剣術を理想として、練丹と言われる内丹術を行っていたが、当時の剣術思想に合わずにその流派は衰退したと言われる。しかし、その稽古の積みようには千葉周作も驚嘆して後の書に残しており、かの勝海舟も白井亨と会った印象を「真に不思議なものであったよ」と言って神通力を備えていると述べ、「日本剣道史」において山田次朗吉は「実に二百年来の名人として推賛の辞を惜しまぬ」と述べている。
後年の白井亨の剣名は高く、数々の召し抱えの話もあったようだが、剣への研究のためかこれをすべて断って生涯仕官しなかった。これも白井亨が同時代の他の剣客に比べて現代であまり知られていない理由であると思われる。