(Translated by https://www.hiragana.jp/)
白井亨 - Wikipedia コンテンツにスキップ

白井しらいとおる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去かこはんです。61.87.47.233 (会話かいわ) による 2006ねん4がつ21にち (金)きん 03:10個人こじん設定せってい設定せっていならUTC時点じてんはんであり、現在げんざいはんとはおおきくことなる場合ばあいがあります。

白井しらい とおる(しらい とおる, 1783ねん天明てんめい3ねん) - 1843ねん12月5にち天保てんぽう14ねん11月14にち)は、、江戸えど時代じだい後期こうき剣客けんかく天真てんしん一刀いっとうりゅう代目だいめ天真てんしん兵法ひょうほう開祖かいそ天真てんしん白井しろいりゅう)。けんごうばとしゅう中西なかにし一刀いっとうりゅう中西なかにし道場どうじょうにて、寺田てらだ五郎ごろう衛門えもん高柳たかやなぎ又四郎またしろうならんで「中西なかにし道場どうじょう三羽烏さんばがらす」とばれる。

生涯しょうがい

江戸えど町人ちょうにん大野おおのにて天明てんめい3ねん1783ねん)にまれ、のち母方ははかた祖父そふである信州中野しんしゅうなかの郷士ごうし白井しらい彦兵衛ひこべえ養子ようしとなる。とおるはちさいのとき彦兵衛ひこべえぼっし、遺言ゆいごんにてははとおる迅流依田よだしげるふくもと入門にゅうもんさせる。はは熱心ねっしんはげましもあってとおる毎日まいにちおも木刀ぼくとう竹刀しないって稽古けいこはげんだという。しかしとおる元来がんらい体格たいかくめぐまれないのと、である依田よだとのいがわることもあって免許めんきょられず、道場どうじょうる。

その当時とうじ江戸えど名高なだか中西なかにし一刀いっとうりゅう中西なかにしただし太子たいしけいもと入門にゅうもんする。同門どうもんには、寺田てらだ五郎ごろう衛門えもん高柳たかやなぎ又四郎またしろう浅利あさり又七またしちろう千葉ちば周作しゅうさくなどがおり、そのなかとおるうでみがいた。

文化ぶんか2ねん1805ねん)、ちゅう太子たいしけいぼっしたことをとおる武者むしゃ修行しゅぎょうたびる。岡田おかだじゅうまつ神道しんとう無念むねんりゅう道場どうじょう馬庭まにわねんりゅう道場どうじょうなどで数々かずかず試合しあいをしてたか評価ひょうかて、岡山おかやまはんにて優遇ゆうぐうされてとおる道場どうじょうひらく。(白井しらいとおる岡山おかやま藩士はんしおおくでは表記ひょうきされるのはこれが所以ゆえんであるが、実際じっさいにはせきいていないとわれる)

文化ぶんか8ねん1811ねん)、ははやまいらせもあってとおる江戸えどもどる。そのときにかつての中西なかにし道場どうじょう同門どうもんたちたずねてまわるが、そのけんおとろえようにとおる落胆らくたんし、いることへの疑問ぎもんち、それをかつての兄弟子あにでしである寺田てらだ五郎ごろう衛門えもんけてうことになる。ろくじゅうさいえた寺田てらだ五郎ごろう衛門えもん気迫きはく圧巻あっかんしたとおる寺田てらだ五郎ごろう衛門えもんもとあらためて入門にゅうもんする。

のち寺田てらだ天真てんしん一刀いっとうりゅういで代目だいめとなるが、とおる自流じりゅう研究けんきゅうのため天真てんしん一刀いっとうりゅう高弟こうていたくして、自身じしん天真てんしん兵法ひょうほう創始そうしする。

天保てんぽう3ねん1832ねん)、大石おおいしすすむ江戸えどかく道場どうじょうにて試合しあいいどみ、江戸えど道場どうじょうでただ一人ひとりこれをやぶって面目めんぼくたもったのは白井しらいとおるのみであったとわれる。

白井しらいとおるしんほうによっての剣術けんじゅつ理想りそうとして、ねりわれるうちじゅつおこなっていたが、当時とうじ剣術けんじゅつ思想しそうわずにその流派りゅうは衰退すいたいしたとわれる。しかし、その稽古けいこみようには千葉ちば周作しゅうさく驚嘆きょうたんしてしょのこしており、かのかつ海舟かいしゅう白井しらいとおるった印象いんしょうを「しん不思議ふしぎなものであったよ」とって神通力じんずうりきそなえているとべ、「日本にっぽん剣道けんどう」において山田やまだろうきちは「じつひゃく年来ねんらい名人めいじんとして推賛のしまぬ」とべている。

後年こうねん白井しらいとおるけんめいたかく、数々かずかずかかえのはなしもあったようだが、けんへの研究けんきゅうのためかこれをすべてことわって生涯しょうがい仕官しかんしなかった。これも白井しらいとおるどう時代じだいほか剣客けんかくくらべて現代げんだいであまりられていない理由りゆうであるとおもわれる。