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こうとうげこう古墳こふん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
こうとうげこう古墳こふん
所在地しょざいち 岐阜ぎふけん高山市たかやまし国府こくふまち広瀬ひろせまち
位置いち 北緯ほくい3612ふん24.5びょう 東経とうけい13713ふん34.3びょう / 北緯ほくい36.206806 東経とうけい137.226194 / 36.206806; 137.226194座標ざひょう: 北緯ほくい3612ふん24.5びょう 東経とうけい13713ふん34.3びょう / 北緯ほくい36.206806 東経とうけい137.226194 / 36.206806; 137.226194
形状けいじょう 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
規模きぼ 全長ぜんちょう72.7m
こうえんたかさ6.7m
出土しゅつどひん 須恵すえへん
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいき後期こうき
被葬ひそうしゃ 不明ふめい
史跡しせき 1956ねん昭和しょうわ31ねんけん指定してい史跡しせき
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こうとうげこう古墳こふん(こうとうげぐちこふん)は、岐阜ぎふけん高山市たかやましにある前方後円墳ぜんぽうこうえんふん築造ちくぞう推定すいてい6世紀せいき後期こうきで、全長ぜんちょう72.7メートルは飛騨ひだ地方ちほう最大さいだい石室いしむろおおきさは県下けんか最大さいだいきゅう古墳こふん1956ねん昭和しょうわ31ねん)9がつ7にち岐阜ぎふけん史跡しせき指定していされている[1]

概要がいよう

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ほん古墳こふんは、おおとりみや遺跡いせき遺跡いせき広瀬ひろせ石橋いしばし遺跡いせき広瀬ひろせ十王堂じゅうおうどう遺跡いせきさくりょう遺跡いせきやく1キロメートルのあいだつらなり、「広瀬ひろせ古墳こふん」「さくりょう古墳こふん」「石橋いしばし廃寺はいじあと」などの古代こだい遺跡いせき目白押めじろおしの地区ちくにある。古墳こふん周囲しゅうい現在げんざいにいたるまで史跡しせき保護ほごのための整備せいびがなされておらず、周囲しゅうい農地のうち道路どうろ古墳こふん本体ほんたい侵食しんしょくしているかのごとく限界げんかいまでせまる。とくまえふんこうふんとがつながるくびれ部分ぶぶんつちられぼそつぶれているため、以前いぜんには2つの独立どくりつしたえんふんつらなっているのではないかとのせつもあったが、2004ねん平成へいせい16ねん)に地下ちか探査たんさおこない、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん可能かのうせいたかいことが判明はんめいした。古墳こふん内部ないぶ巨石きょせきつくられたりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろで、その石室いしむろ全長ぜんちょうは14.8メートル、玄室げんしつたかさ3.1メートルと県下けんか最大さいだい横穴よこあなしき石室いしむろとなる。江戸えど時代じだい盗掘とうくつされており、副葬品ふくそうひんについては須恵すえかた2てん以外いがい不明ふめい。しかし玄室げんしつないにはまだ石棺せっかんとみられる一部いちぶ残存ざんそんしており、調査ちょうさをすれば遺物いぶつ出土しゅつどする可能かのうせいたかい。

地図
地図ちず
  • ふんがた前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
  • 規模きぼ
    • 外部がいぶ
      • 全長ぜんちょう やく72.7メートル
      • こうえんみち 30メートル、こうえんたかさ 6.7メートル
      • 前方ぜんぽうはば 28メートル、前方ぜんぽうたかさ 3メートル
    • 石室いしむろ
      • 内部ないぶ全長ぜんちょう やく14.8メートル
      • 玄室げんしつ全長ぜんちょう 7メートル、玄室げんしつたかさ 3.1メートル、玄室げんしつ最大さいだいはば 2.7メートル
      • 羨道せんどう全長ぜんちょう 7.8メートル、羨道せんどうたかさ 1.8メートル

所在地しょざいち

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  • 岐阜ぎふけん高山たかやま国府こくふまち広瀬ひろせまちこうとうげこうない

交通こうつうアクセス

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ こうとうげこう古墳こふん”. 岐阜ぎふけん. 2015ねん12月9にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 国府こくふまち考古こうこ指定してい文化財ぶんかざいへん
  • 飛騨ひだ国府こくふ歴史れきしへん国府こくふまち教育きょういく委員いいんかい発行はっこう

外部がいぶリンク

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