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アウグスト・セサル・サンディーノ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アウグスト・セサル・サンディーノ
1928ねん撮影さつえい
通称つうしょう 自由じゆう人々ひとびと将軍しょうぐん(General de hombres libres)
生年せいねん 1895ねん5月18にち
生地きじ ニカラグアの旗ニカラグアニキノオモ
没年ぼつねん 1934ねん2がつ21にち
ぼつ ニカラグアの旗 ニカラグア
活動かつどう サンディーノ戦争せんそうバナナ戦争せんそう
所属しょぞく ニカラグア国民こくみん主権しゅけん防衛ぼうえいぐん
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サイン

アウグスト・セサル・サンディーノ(Augusto César Sandino、1895ねん5月18にち - 1934ねん2がつ21にち)は、ニカラグア革命かくめいで、1927ねんから1933ねんにかけてのちゅうニカラグアアメリカ海兵かいへいたいたいする抵抗ていこう運動うんどう指導しどうしゃ政治せいじてき理由りゆうによりアメリカ政府せいふからは盗賊とうぞくなされたが、その功績こうせきかれラテンアメリカナショナリズム(アメリカ主義しゅぎ)の英雄えいゆうとした。自由じゆう人々ひとびと将軍しょうぐん(General de hombres libres)ともばれた。

かれキューバホセ・マルティウルグアイホセ・エンリケ・ロドーみとめて以来いらいいぶっていた、アングロ・アメリカとはことなるラテン・アメリカの精神せいしんてき価値かち体現たいげんする存在そんざいとして、ラテンアメリカにおけるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく支配しはいたいする抵抗ていこう運動うんどうのシンボルとなった。サンディーノはニカラグア民族みんぞく主権しゅけん防衛ぼうえいぐん組織そしきし、アメリカぐん不正規ふせいきせんゲリラせんきずりみ、その捕縛ほばくからうまくげおおせ、最終さいしゅうてきにはアメリカぐん撤退てったいいてニカラグア政府せいふからもいちじるしい譲歩じょうほた。しかしながらかれ1934ねんにニカラグア国家こっか警備けいびたい司令しれいかんアナスタシオ・ソモサ・ガルシア将軍しょうぐんによって殺害さつがいされる。しかし、かれ遺志いしサンディニスタ民族みんぞく解放かいほう戦線せんせんがれ、1979ねんにニカラグアを親子おやこさんだいわたって支配しはいしていたソモサ独裁どくさい政権せいけん革命かくめいにより打倒だとうされた。

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サンディーノはアウグスト・ニコラス・カルデロン・サンディーノ(Augusto Nicolás Calderón Sandino)として、太平洋たいへいようがわマサヤけん寒村かんそんニキノオモ白人はくじん中規模ちゅうきぼコーヒー地主じぬしのドン・グレゴリオ・サンディーノと、その農場のうじょうはたらいていたインディオ女中じょちゅう、マルガリータ・カルデロンのあいだ私生児しせいじとしてまれた。のちにグレゴリオが結婚けっこんするとアウグストを正式せいしき自分じぶん息子むすこだと認知にんちし、サンディーノは9さいまで母親ははおやともらしたのち父親ちちおや家族かぞくいえうつんだ。

当時とうじのニカラグアではウォーカー戦争せんそう以前いぜんから対立たいりつし、時折ときおり内戦ないせんこしていた自由党じゆうとう保守党ほしゅとう都市としごとにかれてはげしく対立たいりつしていたが、ドン・グレゴリオは熱心ねっしん自由党じゆうとうであり、サンディーノも父親ちちおや影響えいきょうけてみずからも自由じゆう党派とうは名乗なのり、のち護憲ごけん戦争せんそうはじまったとき自由党じゆうとうぐん将軍しょうぐんとして参戦さんせんする。

サンディーノは私生児しせいじだったが、グレゴリオから長男ちょうなんとしてのあつかいをけ、当時とうじそれなりの知識ちしきじんであった父親ちちおや書斎しょさいにあったほんをよくみ、まなんだ。マ帝国まていこくほんんで、自分じぶん名前なまえのCはカルデロンではなくセサル(ガイウス・ユリウス・カエサルのスペインみ)だったということにしたのもこのころである。[よう出典しゅってん]

ニカラグアの工業こうぎょう学校がっこうとおったのちコスタリカ技能ぎのうこうとしてはたらいていたが、1921ねんにニカラグアにもどってきたときに、かれ酒場さかばさけんでいたときったいきおいで刃物はものし、著名ちょめい保守ほしゅ党派とうは息子むすこタゴベルト・リバスの暗殺あんさつこころみてしまった。当然とうぜんニカラグアにいられなくなったサンディーノは、そのホンジュラスグアテマラ逃亡とうぼうし、結局けっきょくメキシコのがれる。そしてメキシコでかれタンピコみなとちかくにあるスタンダード・オイル精製せいせいしょはたらくことになった。

メキシコ時代じだい

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タンピコでは模範もはんてき労働ろうどうしゃとしてはたらき、妻子さいしやしなえるほどの収入しゅうにゅうていた。このとき労働ろうどう争議そうぎおこなうメキシコじん労働ろうどうしゃ態度たいどや、政府せいふ主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎなどのさまざまな思想しそう影響えいきょうけてサンディーノの人格じんかく形成けいせいおおきな影響えいきょうあたえた。また、サンディーノが後年こうねん西部せいぶげきガンマンのような服装ふくそうをしていたのは、このとき油田ゆでん出入でいりしていたテキサスじん上司じょうし服装ふくそう真似まねしたためといわれている。ここでのサンディーノの生活せいかつ順調じゅんちょうなものだったが、メキシコじん労働ろうどうしゃにニカラグアじんであることをなじられたことはおおきな屈辱くつじょくであり、これも後世こうせい愛国あいこくしゃとしての意識いしき芽生めばえるきっかけになったようである。

ゲリラ指導しどうしゃとして

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ガンマンふう服装ふくそうけたサンディーノ(1932ねん撮影さつえい

父親ちちおやのドン・グレゴリオから自由党じゆうとうフアン・マリア・モンカーダ将軍しょうぐん保守党ほしゅとうのディアス政権せいけんたい蜂起ほうきし、護憲ごけん戦争せんそうはじまったことをつたえる手紙てがみると、サンディーノはいそいでニカラグアに帰国きこくした。

海外かいがいとの連帯れんたい

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抵抗ていこう戦争せんそう成功せいこうともない、コミンテルンはサンディーノにたいする支援しえん開始かいしした。コミンテルン南米なんべい支部しぶ監督かんとくにあったパン・アメリカはん帝国ていこく主義しゅぎしゃ同盟どうめいかれ支持しじする声明せいめいなん発表はっぴょうし、この組織そしきアメリカ共産党きょうさんとう合衆国がっしゅうこく介入かいにゅうたいする反対はんたい集会しゅうかい組織そしきした。サンディーノの腹違はらちがいのおとうとニューヨークんでいたソクラテスがこれらの集会しゅうかい演説えんぜつしている。

中華民国ちゅうかみんこくではきたおこななかでアメリカ海兵かいへいたい衝突しょうとつしていた国民党こくみんとうが、海兵かいへいたいたたかうサンディーノのかんしたサンディーノ旅団りょだんという部隊ぶたい編成へんせいしている。

サンディーノ戦争せんそう終結しゅうけつ

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暗殺あんさつ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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