アスタイ

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アスタイモンゴル: Асутай, Asudai、中国ちゅうごく: おもねはやだい、? - 1282ねん以降いこう)は、モンゴル帝国ていこくだい4だい皇帝こうていモンケ・カアン庶子しょし。『もと』などの漢文かんぶん史料しりょうではおもねはや歹、『しゅう』などのペルシア史料しりょうではآسوتای (Āsūtāī) としるされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

アスタイはモンケの側室そくしつであるコンギラトエルジギンのクイテニ・ハトゥンよりまれ、異母いぼけいにはバルトゥウルン・タシュシリギらがいた[1]

1256ねんみなみそう攻略こうりゃく司令しれいかん起用きようしたおとうとクビライ方針ほうしん不満ふまんいたモンケ・カアンは、クビライを一旦いったん更迭こうてつし、みずかぐんひきいてみなみそう侵攻しんこうすることを決定けっていした。この遠征えんせいさいして、バルトゥ、ウルン・タシュ、シリギら兄弟きょうだい叔父おじアリクブケしたがってカラコルム残留ざんりゅう部隊ぶたいはいったのにたいし、アスタイのみはちちのモンケのひきいる遠征えんせいぐんくわわった[2]

1258ねん8がつ、アスタイが狩猟しゅりょうちゅう農民のうみん耕作こうさくらすことがあった。モンケはこれにいかり、アスタイに近侍きんじする人々ひとびと鞭打むちうち、士卒しそつ収穫しゅうかくらすものがいたならばけいにしてせしめとしたため、あきにはそのようなものまったくいなくなったという[3]どう時期じきテムゲ・オッチギンいえタガチャルらも同様どうよう理由りゆうつみわれており、このようなモンケの態度たいどみなみそう攻略こうりゃく不可欠ふかけつ華北かほく漢人かんど軍閥ぐんばついむただしずみら)に配慮はいりょしたためであると推測すいそくされている[4]

1259ねん、モンケが遠征えんせい途上とじょうくなると、唯一ゆいいつ息子むすこ従軍じゅうぐんしていたアスタイがその亡骸なきがらほうじてモンゴリア帰還きかんした。モンケのによってクビライとアリクブケとのあいだ帝位ていい継承けいしょう戦争せんそうこると、アスタイらモンケの諸子しょしはモンケ政権せいけんかたちとなったアリクブケがわって参戦さんせんした。しかし東方とうほうさん王家おうけ投下とうか味方みかたにつけたクビライ勢力せいりょくにアリクブケ勢力せいりょくされ、シムルトゥ・ノールのたたかでの敗戦はいせん決定けっていとなって、アリクブケはなかみつる5ねん1264ねん)にウルン・タシュ、シリギ、アスタイらモンケの諸子しょしとともにクビライに降伏ごうぶくした[5]

モンケの子供こどもなかではバルトゥ、ウルン・タシュが嫡出ちゃくしゅつであり、かつバルトゥはちちのモンケに先立さきだってくなっていたため、クビライのした投降とうこうしたモンケの諸子しょしたちのなかでは当初とうしょウルン・タシュが当主とうしゅされていた。そのウルン・タシュも1267ねんころくなると、今度こんどは庶弟のシリギがモンケ・ウルス当主とうしゅられるようになった。

いたりもと8ねん1271ねん)にはカイドゥらん対処たいしょするために北平きたひらおうノムガンだい規模きぼ遠征えんせいぐん編制へんせいし、シリギ、サルバンらモンケおおくがその右翼うよくぐんぞくした。しかし、アスタイのみは遠征えんせいぐん参加さんかすることなくとどまっていたようで、同年どうねんにモンケ所領しょりょうまもるてるダルガチのタプミシュがやまいになったとき、クビライはアスタイに医者いしゃともうえにやってくるようめいじている。これ以降いこうアスタイにかんする記述きじゅつはなくなるため、まもなくくなったものとられる[6]

同年どうねん、ノムガンととも出征しゅっせいしたシリギ・サルバンらはきゅうアリクブケ皇族こうぞく協力きょうりょくして叛乱はんらんこし、ノムガンをらえてクビライと敵対てきたいした。のち叛乱はんらんこしたものたちのおおくは元朝がんちょう投降とうこうしたものの、シリギの息子むすこのウルス・ブカののちにモンケ・ウルス当主とうしゅとなったのはアスタイの息子むすこオルジェイであった。このため、『もとしょく貨志にはアスタイ名義めいぎでモンケ・ウルスの権益けんえきしるしている[7]

子孫しそん[編集へんしゅう]

もとまき107宗室そうしつけいひょうではアスタイの息子むすこ存在そんざいしるされていないが、『あつまり』ではاولجایŪljāī、هولاچوHūlāchū、هنتومHantūm、اولجایŪljāī būqāという息子むすこがいたことがしるされている。このうちオルジェイ(Ūljāī)は『もと』ではウルン・タシュの息子むすことしてしるされるまもるおうかんさわ一致いっちするが、『もと宗室そうしつけいひょうあやまりがおおいことで有名ゆうめいなこと、『もとしょく貨志でオルジェイ時代じだい下賜かしがアスタイ名義めいぎでなされていることなどから、『あつまり』にしたがってアスタイの息子むすことするのがただしいとされる[8]

また、フラチュ(هولاچوHūlāchū)は『もと』に散見さんけんするゆるがせ剌出とられ、おもなりむねテムルの治世ちせい活動かつどうしている[9]。『あつまり』にしるされるのこりのアスタイの息子むすこ、ハントムとオルジェイ・ブカについてはどのような人物じんぶつであったか記録きろくのこされていない。

モンケ系図けいず[編集へんしゅう]

  • モンケ・カアン…トルイの長男ちょうなんで、モンケ・ウルスの創始そうししゃ
    • バルトゥ(Baltu,はん禿かぶろ/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子ちょうし
      • トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…バルトゥの息子むすこ
    • ウルン・タシュ(Ürüng-daš,たまりゅうこたえしつ/اورنگتاشŪrung tāsh)…モンケの次男じなんで、だい2だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
      • サルバン(Sarban,撒里蛮/ساربانSārbān)…ウルン・タシュの息子むすこ
    • シリギ(Sirigi,むかし里吉さとよしشیرکیShīrkī)…モンケの庶子しょしで、だい3だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
      • ウルス・ブカ(Ulus-buqa,兀魯おもえ花王かおう/اولوس بوقاŪlūs būqā)…シリギの息子むすこで、だい4だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
        • コンコ・テムル(Qongqo-temür,并王あきらじょう/قونان تیمورQūnān tīmūr)…ウルス・ブカの息子むすこ
          • チェリク・テムル(Čerik-temür,とおるさとじょう)…コンコ・テムルの息子むすこで、だい7だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
        • テグス・ブカ(Tegüs-buqa,武平ぶへいおうじょうおもえはな)…ウルス・ブカの息子むすこ、コンコ・テムルのおとうとで、だい2だい武平ぶへいおう
      • トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…シリギの息子むすこ
      • トゥメン・テムル(Tümen-temür,武平ぶへいおう禿かぶろまんじょう/تومان تیمورTūmān tīmūr)…シリギの息子むすこで、初代しょだい武平ぶへいおう
    • アスタイ(Asudai,おもねはや歹/آسوتایĀsūtāī)…モンケの庶子しょし
      • オルジェイ(Ölǰei,まもるおうかんさわ/اولجایŪljāī)…アスタイの息子むすこで、だい5だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
        • チェチェクトゥ(Čečektu,郯王てってっ禿かぶろ)…オルジェイの息子むすこで、だい6だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
      • フラチュ(Hulaču,ゆるがせ剌出/هولاچوHūlāchū)…アスタイの息子むすこ
      • ハントム(Hantom,هنتوم/Hantūm)…アスタイの息子むすこ
      • オルジェイ・ブカ(Ölǰei buqa,اولجای بوقا/Ūljāī būqā)…アスタイの息子むすこ

[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 村岡むらおか2013,93ぺーじ
  2. ^ 杉山すぎやま2004,64-75ぺーじ
  3. ^ もとまき3,「はちねんがつ皇子おうじおもねはやたいいんりょうどくきずみん稼、みかどゆずるとげ近侍きんじすうにん士卒しそつゆう抜民ねぎしゃそく以徇。よし秋毫しゅうごう莫敢はん
  4. ^ 杉山すぎやま2004,79-81ぺーじ
  5. ^ もとまき5,「[いたりもと元年がんねんあきなながつ]……かのえおもねさと哥自むかしはいふくのうぐんいたりあずか諸王しょおうだまりゅうこたえしつおもねはやたいむかし里吉さとよし、其所はかりごとしん魯花・ゆるがせ察・禿かぶろみつるおもねさと察・せつゆるがせおもえとうらいみことのり諸王しょおうみなふとし裔、なみしゃく不問ふもん、其謀しん魯花とうみなふく誅」
  6. ^ 村岡むらおか2013,99ぺーじ
  7. ^ 村岡むらおか2013,100ぺーじ
  8. ^ a b 村岡むらおか2013,117ぺーじ
  9. ^ 村岡むらおか2013,105ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]