シリギ

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シリギ中国ちゅうごく: むかし里吉さとよし / しつれつきち / 習列きち, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Širigiなま没年ぼつねんしょう)は、モンゴル帝国ていこく皇族こうぞく。『しゅう』などのペルシア史料しりょうではシリキペルシア: شيركى, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Shīrikī)としるされる。

ソゲドゥいえトク・テムルアリクブケいえメリク・テムルらととも元朝がんちょうたいしてシリギのらんこしたことでられる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

だい4だいカアンモンケよんなんで、はははモンケの側室そくしつ一人ひとりバヤウジン。モンケのおとうとクビライ側室そくしつにもバヤウジンというがおり、レビラトこんめとられたどう一人物いちじんぶつではないかと推測すいそくされている[1]

なかみつる元年がんねん1260ねん)にモンケが死去しきょすると、兄弟きょうだいともモンゴル高原こうげんにあったモンケの所領しょりょう領民りょうみんウルス)を相続そうぞくした。モンケの本拠地ほんきょちカラコルム中心ちゅうしんとする高原こうげん中央ちゅうおう西部せいぶしょ勢力せいりょくは、モンケの末弟ばってい末子まっし相続そうぞくせいによりそのちちトルイ莫大ばくだい遺産いさんだい部分ぶぶん継承けいしょうしているアリクブケ後継こうけいのカアンにし、シリギらモンケの遺児いじもこれを支持しじしたが、モンケのおとうとクビライがアリクブケを屈服くっぷくさせると、シリギも降伏ごうぶくしてクビライに従属じゅうぞくした。アリクブケぼついたりもと5ねん1268ねん)にはかわたいらおう中国語ちゅうごくごばんふうじられ、モンゴル高原こうげんしょ部族ぶぞく盟主めいしゅとしてクビライから派遣はけんされたクビライのよんなん北平きたひらおうノムガン旗下きかぞくした。

いたりもと12ねん1275ねん)、ノムガンにクビライ配下はいか有力ゆうりょく貴族きぞくであるみぎ丞相じょうしょうアントン、ノムガンの異母弟いぼていココチュ(クビライのきゅうなん)が付属ふぞくされ、チャガタイ内紛ないふん混乱こんらんする中央ちゅうおうアジアへと派兵はへいされると、シリギもこれに従軍じゅうぐんした。いたりもと13ねん1276ねん)にノムガンのぐんはチャガタイりょう中心ちゅうしんであるアルマリク進駐しんちゅうし、中央ちゅうおうアジアで勢力せいりょくるっていたオゴデイカイドゥ圧迫あっぱくするにいたった。しかし同年どうねんなつ、シリギやアリクブケの遺児いじヨブクル、メリク・テムル兄弟きょうだいらクビライ支配しはい不満ふまんっていた高原こうげん西部せいぶきゅうアリクブケしょ王族おうぞくぐんちゅう反乱はんらんこし、ノムガンとココチュの兄弟きょうだい、アントンらを捕縛ほばくしてモンゴル高原こうげんもどった[2]

従兄弟いとこのトク・テムルらから盟主めいしゅ推戴すいたいされ、高原こうげん旧都きゅうとのカラコルムにはいったシリギは、叔父おじのクビライに対抗たいこうするためノムガンとココチュの身柄みがらジョチ・ウルスモンケ・テムル、アントンの身柄みがらをカイドゥにそれぞれわたし、かれらの後援こうえんようとした。しかし、モンケ・テムルはうごかず、カイドゥもノムガンぐん圧力あつりょくえて権力けんりょく空白くうはく地帯ちたいとなった中央ちゅうおうアジアの状況じょうきょう収拾しゅうしゅう優先ゆうせんしたため、独力どくりょくもと大軍たいぐんたたか羽目はめおちいった。シリギはみなみそう平定へいていしたばかりのひだり丞相じょうしょうバヤンひきいるもときたぐんにカラコルム近郊きんこうたたかいで散々さんざんやぶられ、高原こうげん中央ちゅうおううしなった。さらにシリギにくみしたしょ王族おうぞくなかには頭抜ずぬけたちからものがいなかったために、内紛ないふんつづいたシリギぐん自壊じかいし、逃亡とうぼうしたシリギはいたりもと19ねん1282ねん)にバヤンにった。

虜囚りょしゅうとしてかんおくられたシリギは南方なんぽう海島うみしまながされ、そのぼっした[3]

子孫しそん[編集へんしゅう]

もと宗室そうしつけいひょうでは名前なまえとしてウルス・ブカ(兀魯おもえはな)と并王コンコ・テムルあきらじょう)を、『あつまり』「モンケ・カアン本文ほんぶんではユルース・ブカ(ペルシア: اولوس بوقا, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Ūlūs būqā)をそれぞれしるしている。しかし、『あつまり』の図表ずひょうや『ふんえだ』『高貴こうき系譜けいふ』などではシリギのとしてユルース・ブカ(ペルシア: اولوس بوقا, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Ūlūs būqā)、トゥーラー・ティームール(ペルシア: توراتیمور, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Tūlā tīmūr)、トゥーマーン・ティームール(ペルシア: تومان تیمور, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Tūmān tīmūr)、ブザードゥ(ペルシア: بوزادو, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Būzādū)という4にん名前なまえげている。このうち、ユルース・ブカはウルス・ブカに、トゥーラー・ティームールはトレ・テムルに、トゥーマーン・ティームールは『もと』に散見さんけんされる武平ぶへいおうトゥメン・テムル禿かぶろまんじょう)に相当そうとうする。

トレ・テムルの名前なまえは『もと』に記載きさいがないものの、『あつまり』ではカイドゥからジョチ・ウルスに派遣はけんされた使者ししゃ一人ひとりとして名前なまえげられている。『ふんえだ』『高貴こうき系譜けいふ』ではトレ・テムルは「メリク・テムルのしたにいる」としるされており、あにのウルス・ブカの投降とうこうもカイドゥがわとどまっていたが、その動向どうこう不明ふめいである[4]。ブザードゥについてはなん記録きろくがなく詳細しょうさい不明ふめいである。

また、コンコ・テムルをシリギのとすると没年ぼつねんがあまりにおそすぎるため、実際じっさいにはシリギのまごであって、『あつまり図表ずひょうしるされるシリギのまごのクーナーン・ティームール(ペルシア: قونان تیمور, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Qūnān tīmūr)に相当そうとうするのではないかと推測すいそくされている[5]

モンケ系図けいず[編集へんしゅう]

  • モンケ・カアン…トルイの長男ちょうなんで、モンケ・ウルスの創始そうししゃ
    • バルトゥ(Baltu,はん禿かぶろ/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子ちょうし
      • トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…バルトゥの息子むすこ
    • ウルン・タシュ(Ürüng-daš,たまりゅうこたえしつ/اورنگتاشŪrung tāsh)…モンケの次男じなんで、だい2だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
      • サルバン(Sarban,撒里蛮/ساربانSārbān)…ウルン・タシュの息子むすこ
    • シリギ(Sirigi,むかし里吉さとよしشیرکیShīrkī)…モンケの庶子しょしで、だい3だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
      • ウルス・ブカ(Ulus-buqa,兀魯おもえ花王かおう/اولوس بوقاŪlūs būqā)…シリギの息子むすこで、だい4だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
        • コンコ・テムル(Qongqo-temür,并王あきらじょう/قونان تیمورQūnān tīmūr)…ウルス・ブカの息子むすこ
          • チェリク・テムル(Čerik-temür,とおるさとじょう)…コンコ・テムルの息子むすこで、だい7だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
        • テグス・ブカ(Tegüs-buqa,武平ぶへいおうじょうおもえはな)…ウルス・ブカの息子むすこ、コンコ・テムルのおとうとで、だい2だい武平ぶへいおう
      • トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…シリギの息子むすこ
      • トゥメン・テムル(Tümen-temür,武平ぶへいおう禿かぶろまんじょう/تومان تیمورTūmān tīmūr)…シリギの息子むすこで、初代しょだい武平ぶへいおう
    • アスタイ(Asudai,おもねはや歹/آسوتایĀsūtāī)…モンケの庶子しょし
      • オルジェイ(Ölǰei,まもるおうかんさわ/اولجایŪljāī)…アスタイの息子むすこで、だい5だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
        • チェチェクトゥ(Čečektu,郯王てってっ禿かぶろ)…オルジェイの息子むすこで、だい6だいモンケ・ウルス当主とうしゅ
      • フラチュ(Hulaču,ゆるがせ剌出/هولاچوHūlāchū)…アスタイの息子むすこ
      • ハントム(Hantom,هنتوم/Hantūm)…アスタイの息子むすこ
      • オルジェイ・ブカ(Ölǰei buqa,اولجای بوقا/Ūljāī būqā)…アスタイの息子むすこ

[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 志茂しも2013, 585ぺーじ
  2. ^ ドーソン 1971, pp. 109–110
  3. ^ ドーソン 1971, p. 112
  4. ^ 村岡むらおか 2013, p. 101
  5. ^ 村岡むらおか 2013, p. 117
  6. ^ 村岡むらおか2013,117ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 志茂しもせきさとし『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう 正篇せいへん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん
  • 村岡むらおかりん「シリギのらんもとはつモンゴリアの争乱そうらん」『東洋とうようえんだい24/25合併がっぺいごう、1985ねん 
  • 村岡むらおかりん「モンケ・カアンの後裔こうえいたちとカラコルム」『モンゴルこく現存げんそんモンゴル帝国ていこく元朝がんちょう碑文ひぶん研究けんきゅう大阪国際大学おおさかこくさいだいがく、2013ねん 
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国ていこく』 3かんこうとおる訳注やくちゅう平凡社へいぼんしゃ、1971ねん 
  • 新元しんもとまき112列伝れつでん9
  • こうむ兀児史記しきまき37列伝れつでん19