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1291年 ねん 以前 いぜん
1291年 ねん 以降 いこう
北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん
民衆 みんしゅう 十字軍 じゅうじぐん
対 たい キリスト教徒 きりすときょうと /異端 いたん 十字軍 じゅうじぐん
レコンキスタ (718年 ねん -1492年 ねん )
アラゴン十字軍 じゅうじぐん (カタルーニャ語 ご : Croada contra la Corona d'Aragó) は、アラゴン王 おう ペドロ3世 せい に対 たい して結成 けっせい され、1284年 ねん から1285年 ねん にかけてアラゴン王国 おうこく に侵攻 しんこう した十字軍 じゅうじぐん 。海上 かいじょう での敗北 はいぼく と伝染 でんせん 病 びょう により失敗 しっぱい に終 お わった。
シチリア晩 ばん 祷 いのり 戦争 せんそう でシチリア を征服 せいふく したペドロ3世 せい に対 たい し教皇 きょうこう マルティヌス4世 せい は破門 はもん を宣告 せんこく し、アラゴン王位 おうい をヴァロワ 伯 はく シャルル (フランス王 おう フィリップ3世 せい の息子 むすこ で、ペドロ3世 せい の甥 おい )に与 あた えると宣言 せんげん した。
さらにペドロ3世 せい の弟 おとうと のマヨルカ王 おう ジャウメ2世 せい が十字軍 じゅうじぐん 参加 さんか を表明 ひょうめい し、アラゴンは内戦 ないせん 状態 じょうたい に陥 おちい った。ペドロ3世 せい はジャウメ2世 せい がフランスのルシヨン 伯 はく を継承 けいしょう するのに反対 はんたい した経緯 けいい があり、兄弟 きょうだい の仲 なか は十字軍 じゅうじぐん で敵対 てきたい するほどに冷 ひ え切 き っていた。
ペドロ3世 せい はフィリップ3世 せい の息子 むすこ のナバラ王 らおう フェリペ1世 せい (後 ご のフランス王 おう フィリップ4世 せい )が大挙 たいきょ して侵攻 しんこう してくると予想 よそう し、ナバラ王国 おうこく との国境 こっきょう に長男 ちょうなん アルフォンソ(後 ご のアラゴン王 おう アルフォンソ3世 せい )を差 さ し向 む け防衛 ぼうえい にあたらせた。しかしナバラ王国 おうこく は小規模 しょうきぼ な襲撃 しゅうげき を仕掛 しか けてくるだけだった。フェリペ1世 せい 率 ひき いるナバラ軍 ぐん 本隊 ほんたい は、一旦 いったん 父 ちち フィリップ3世 せい の十字軍 じゅうじぐん 本 ほん 軍 ぐん に合流 ごうりゅう していたためである[ 1] 。
カルドナ城 じょう に描 えが かれた、ジローナ包囲 ほうい 戦 せん のフレスコ画 が 。現在 げんざい はカタルーニャ美術館 びじゅつかん に展示 てんじ されている。
1284年 ねん 、フィリップ3世 せい とシャルル率 ひき いる十字軍 じゅうじぐん の第 だい 一波 いっぱ がルシヨンに入 はい った。その軍勢 ぐんぜい は騎兵 きへい 1万 まん 6000人 にん 、石弓 いしゆみ 兵 へい 1万 まん 7000人 にん 、歩兵 ほへい 10万 まん 人 にん 、フランス南岸 なんがん からの軍船 ぐんせん 100隻 せき という威容 いよう だった。しかし十字軍 じゅうじぐん は、領主 りょうしゅ ジャウメ2世 せい の支援 しえん にもかかわらず、地元 じもと 住民 じゅうみん の抵抗 ていこう を受 う けた。エルヌ 市 し は、半 はん 世紀 せいき 前 まえ のルシヨン伯 はく ヌーニョ・サンチェス の庶子 しょし で「ルシヨンの私生児 しせいじ 」と呼 よ ばれた人物 じんぶつ のもとで十字軍 じゅうじぐん に果敢 かかん に抵抗 ていこう した。最終 さいしゅう 的 てき に市 し は陥落 かんらく し、十字軍 じゅうじぐん は教皇 きょうこう 特使 とくし が参加 さんか しているにもかかわらず聖堂 せいどう を焼 や き、市民 しみん を虐殺 ぎゃくさつ した。「ルシヨンの私生児 しせいじ 」は降伏 ごうぶく 交渉 こうしょう に成功 せいこう し、囚人 しゅうじん として十字軍 じゅうじぐん の南進 なんしん に随行 ずいこう することになった。
1285年 ねん 、フィリップ3世 せい はジローナ を包囲 ほうい し、街 まち を堀 ほり で囲 かこ んだ。市 し は激 はげ しく抵抗 ていこう したが、最終 さいしゅう 的 てき に占領 せんりょう された。4月28日 にち 、ここでシャルルはアラゴン王 おう への戴冠 たいかん 式 しき を挙 あ げたが、本物 ほんもの の王冠 おうかん はまだ手 て にしていなかったので、枢機卿 すうききょう ジャン・ショレ が自 みずか らの帽子 ぼうし をシャルルに与 あた えた。このためシャルルは「帽子 ぼうし 王 おう 」(roi du chapeau ) というあだ名 な をつけられ嘲笑 ちょうしょう の的 まと となった。
これ以降 いこう 、ペドロ3世 せい 側 がわ の反撃 はんげき が始 はじ まった。9月4日 にち 、フォルミーガスの海戦 かいせん でルジェ・ダ・ラウリーア 率 ひき いるアラゴン艦隊 かんたい がフランス・ジェノヴァ 連合 れんごう 艦隊 かんたい を破 やぶ った。陸上 りくじょう ではフランス軍営 ぐんえい に赤痢 せきり が流行 りゅうこう し、フィリップ3世 せい も感染 かんせん した。フェリペ1世 せい (フィリップ4世 せい )は十字軍 じゅうじぐん 続行 ぞっこう が難 むずか しいと判断 はんだん し、ペドロ3世 せい と交渉 こうしょう して王族 おうぞく がピレネー山脈 さんみゃく を越 こ えて帰国 きこく することを認 みと めさせた。取 と り残 のこ された十字軍 じゅうじぐん の兵 へい たちは、指揮 しき 官 かん 不在 ふざい のままパニサルス峠 とうげ の戦 たたか い で一方 いっぽう 的 てき に蹂躙 じゅうりん された。フィリップ3世 せい はマヨルカ王国 おうこく の首都 しゅと ペルピニャン で没 ぼっ し、ナルボンヌ に埋葬 まいそう された。ジャウメ2世 せい はペドロ3世 せい に降伏 ごうぶく し、臣従 しんじゅう を宣言 せんげん した。
歴史 れきし 家 か のH・J・チェイターは、アラゴン十字軍 じゅうじぐん について「カペー朝 あさ 史上 しじょう 、おそらく最 もっと も正義 せいぎ に欠 か け、不 ふ 必要 ひつよう で悲劇 ひげき 的 てき な企 くわだ てだった」と述 の べている。一方 いっぽう 、十字軍 じゅうじぐん を経 へ てフランス王 おう となったフィリップ4世 せい が反 はん 教皇 きょうこう 的 てき な人物 じんぶつ になるきっかけとして、アラゴン十字軍 じゅうじぐん はヨーロッパ史上 しじょう 重大 じゅうだい な事件 じけん であったとみる説 せつ もある。後 のち にフィリップ4世 せい はアナーニ事件 じけん やアヴィニョン捕 と 囚 しゅう などを起 お こして教皇 きょうこう の権威 けんい を失墜 しっつい させ、フランス王 おう の宗教 しゅうきょう 的 てき な独立 どくりつ 性 せい と権威 けんい を高 たか めていくことになる。どちらにせよ十字軍 じゅうじぐん がフランスに与 あた えた直接的 ちょくせつてき 影響 えいきょう は小 ちい さなものだった。一方 いっぽう でアラゴンではフィリップ3世 せい 死去 しきょ のわずか1か月 げつ 後 ご にペドロ3世 せい も世 よ を去 さ った。跡 あと を継 つ いだアルフォンソ3世 せい はマヨルカ、イビサ 、メノルカ を次々 つぎつぎ とアラゴンに併合 へいごう していった。1291年 ねん のタラスコン条約 じょうやく により、ペドロ3世 せい 以来 いらい のアラゴン王 おう への破門 はもん が公式 こうしき に解除 かいじょ された。なお、ジャウメ2世 せい は1295年 ねん のアナーニ条約 じょうやく でバレアレス諸島 しょとう の旧領 きゅうりょう を返還 へんかん されたが、これ以降 いこう マヨルカ王国 おうこく はアラゴンのより強 つよ い影響 えいきょう 下 か に置 お かれることとなった。
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