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1291年 ねん 以前 いぜん
1291年 ねん 以降 いこう
北方 ほっぽう 十字軍 じゅうじぐん
民衆 みんしゅう 十字軍 じゅうじぐん
対 たい キリスト教徒 きりすときょうと /異端 いたん 十字軍 じゅうじぐん
レコンキスタ (718年 ねん -1492年 ねん )
アレクサンドリア十字軍 じゅうじぐん (アレクサンドリアじゅうじぐん)は、1365年 ねん 10月 がつ にエジプト のアレクサンドリア を短期間 たんきかん 占領 せんりょう した十字軍 じゅうじぐん 。 アレクサンドリアの奪取 だっしゅ (英語 えいご : Sack of Alexandria)とも呼 よ ばれる[ 2] 。指導 しどう 者 しゃ はキプロス王 おう ピエール1世 せい で、ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく や聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん の支援 しえん を受 う けていた。第 だい 10回 かい 十字軍 じゅうじぐん と呼 よ ばれることもあるが、以前 いぜん の「聖地 せいち 奪還 だっかん 」を目的 もくてき とした十字軍 じゅうじぐん と異 こと なり、多分 たぶん に経済 けいざい 的 てき な動機 どうき によるものであった[ 3] 。
1362年 ねん から1365年 ねん にかけて、ピエール1世 せい は十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい のために軍 ぐん を集 あつ め、各国 かっこく 宮廷 きゅうてい に金銭 きんせん 支援 しえん を打診 だしん してきた。エジプトのマムルーク朝 あさ がキプロス島 とう 遠征 えんせい を計画 けいかく していることを知 し ったピエール1世 せい は、それまでトルコ人 じん に対 たい して用 もち いて成功 せいこう してきた先制 せんせい 攻撃 こうげき 戦略 せんりゃく をエジプト方面 ほうめん にも用 もち いることにした。ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく が海軍 かいぐん を提供 ていきょう し、十字軍 じゅうじぐん 戦士 せんし たちはロドス島 とう に集結 しゅうけつ してロドス騎士 きし 団 だん (聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん )と合流 ごうりゅう した。
1365年 ねん 10月 がつ 、ピエール1世 せい はロドス島 とう を出発 しゅっぱつ した。その船団 せんだん は165隻 せき を数 かぞ えたが、それはヴェネツィアの政治 せいじ 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく あってのものだった。10月9日 にち 、十字軍 じゅうじぐん はアレクサンドリアに上陸 じょうりく し、3日間 にちかん 街 がい を略奪 りゃくだつ し、数 すう 千 せん 人 にん の住民 じゅうみん を殺害 さつがい し、5000人 にん を奴隷 どれい とした[ 1] 。モスクや寺院 じいん 、教会 きょうかい 、図書館 としょかん などもこの間 あいだ に焼 や かれた[ 4] [ 5] 。
しかし、マムルーク朝 あさ の本 ほん 軍 ぐん に対 たい する防衛 ぼうえい 体制 たいせい を築 きず くことができないと判断 はんだん した十字軍 じゅうじぐん は、10月12日 にち にアレクサンドリアから撤退 てったい した[ 3] 。ピエール1世 せい としてはアレクサンドリアにとどまり、ここを今後 こんご のエジプトに対 たい する十字軍 じゅうじぐん の拠点 きょてん としたかったのだが、大 だい 部分 ぶぶん の家臣 かしん は略奪 りゃくだつ に満足 まんぞく してキプロスへの帰還 きかん を主張 しゅちょう したのである。ピエール1世 せい 自身 じしん は最後 さいご までアレクサンドリアに残 のこ り、マムルーク兵 へい が街 まち に入 はい ったのを見届 みとど けてから船 ふね に乗 の り込 こ んだ。ヨーロッパの王侯 おうこう は、アレクサンドリアの十字軍 じゅうじぐん の中 なか でただピエール1世 せい だけが真 しん の十字軍 じゅうじぐん 戦士 せんし だったと評 ひょう した[ 6] 。
オランダの歴史 れきし 家 か ヨ・ファン・ステーンベルゲンは、アレクサンドリア十字軍 じゅうじぐん は第 だい 一 いち に経済 けいざい 的 てき な動機 どうき のもとに行 おこな われたものだとしている。東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 最大 さいだい の貿易 ぼうえき 拠点 きょてん アレクサンドリアを没落 ぼつらく させることができれば、ピエール1世 せい はキプロス島 とう のファマグスタ を中継 ちゅうけい 貿易 ぼうえき 拠点 きょてん として栄 さか えさせることが期待 きたい できた[ 3] 。宗教 しゅうきょう 的 てき 動機 どうき は二 に の次 つぎ だった。
またファン・ステーンベルゲンによると、アル=マクリーズィー ら同 どう 時代 じだい のムスリム側 がわ の記録 きろく から、十字軍 じゅうじぐん の優 すぐ れた陽動 ようどう 戦術 せんじゅつ が浮 う かび上 あ がる。アレクサンドリア守備 しゅび 隊 たい は先 さき に西側 にしがわ の海岸 かいがん に上陸 じょうりく してきた十字軍 じゅうじぐん 部隊 ぶたい につきっきりで、十字軍 じゅうじぐん の騎兵 きへい を含 ふく む「本 ほん 軍 ぐん 」は他 た の場所 ばしょ から簡単 かんたん に上陸 じょうりく し、墓地 ぼち に潜 ひそ むことができた。このため十字軍 じゅうじぐん はアレクサンドリア守備 しゅび 隊 たい を挟 はさ み撃 う ちにして混乱 こんらん に陥 おとしい れることができたのだという[ 3] 。
^ a b c Sack of Alexandria (1365) , Alexander Mikaberidze, Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia , Vol.1, ed. Alexander Mikaberidze, (ABC-CLIO, 2011), 72.
^ A History of the Crusades: The fourteenth and fifteenth centuries , ed. Kenneth M. Setton, Harry W. Hazard, (The University of Wisconsin Press, 1975), xiii, 5, 316, 664
^ a b c d “Van Steenbergen, Jo (2003) "The Alexandrian Crusade (1365) and the Mamluk Sources: Reassessment of the kitab al-ilmam of an-Nuwayri al-Iskandarani" (PDF) ”. 2006年 ねん 10月 がつ 18日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2006年 ねん 9月 がつ 3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Steven Runciman, A History of the Crusades: The Kingdom of Acre and the Later Crusades , Vol. III, (Cambridge University Press, 1951), 446.
^ Richard W. Barber, The Reign of Chivalry , (Boydell Press, 2005), 121.
^ Thomas F. Madden, The Concise History of the Crusades , (3rd ed. Rowman & Littlefield Publishers, 2013), 179