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アラン3せい (ブルターニュこう)

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アラン3せい
Alain III
ブルターニュこう
在位ざいい 1008ねん - 1040ねん

出生しゅっしょう 997ねんごろ
死去しきょ 1040ねん10月1にち
配偶はいぐうしゃ ベルト・ド・ブロワ
子女しじょ コナン2せい
アヴォワーズ
家名かめい レンヌ
父親ちちおや ブルターニュこうジョフロワ1せい
母親ははおや アヴォワーズ・ド・ノルマンディー
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アラン3せい(Alain III, 997ねんごろ - 1040ねん10月1にち)は、レンヌはくおよびブルターニュこう在位ざいい1008ねん - 1040ねん)。

生涯しょうがい

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アラン3せいブルターニュこうジョフロワ1せいアヴォワーズ・ド・ノルマンディー息子むすこである[1]

1008ねんちちあといでブルターニュこうとなった[2]おおやけ継承けいしょうしたとき未成年みせいねんであったため、ははアヴォワーズが摂政せっしょうとなり[3]ははあにノルマンディーこうリシャール2せいがブルターニュの後見こうけんをつとめたとみられる[4]

1018ねん、アラン3せいブロワはくウード2せいとその2番目ばんめエルマンガルド・ドーヴェルニュのむすめベルト結婚けっこんした[1]

1026ねん8がつにノルマンディーこうリシャール3せい死去しきょし、おとうとロベール1せいおおやけ継承けいしょうした[5]。アランはこのときしょうじた混乱こんらんじょうじてノルマンディーの宗主そうしゅけんから解放かいほうされた[4]

1130年代ねんだいはじめ、ロベール1せいドル攻撃こうげき成功せいこうし、アヴランシュたいするアランの報復ほうふく攻撃こうげき撃退げきたいされ、両者りょうしゃあいだ継続けいぞくてき攻撃こうげきつづいた[6]。ノルマンディーの陸路りくろおよびロベール1せい艦隊かんたいからの侵攻しんこう直面ちょくめんしたルーアン大司教だいしきょうロベール2せいははアヴォワーズとリシャール2せい叔父おじ)は、アランが従兄弟いとこロベール1せい忠誠ちゅうせいちかったル・モン=サン=ミシェルにおいて、2人ふたりだいおいあいだ休戦きゅうせん調停ちょうていした[7]

ロベール1せい聖地せいちかいノルマンディーをったとき従兄弟いとこアラン3せい自身じしん息子むすこギヨーム後見人こうけんにん指名しめいした[a][8]

アラン3せいは、ル・マン司教しきょうアヴェスゴーと対立たいりつするメーヌはくエルベール1せい支援しえんし、ラ・フェルテ=ベルナールにあるアヴェスゴーのしろをエルベール1せいとともに破壊はかいし、アヴェスゴーは逃亡とうぼうした[9]

1037ねんにルーアン大司教だいしきょうロベール2せい死去しきょし、若年じゃくねんのギヨームの後見こうけんはアラン3せい従兄弟いとこブリオンヌはくジルベールたくされ、両者りょうしゃ一時期いちじきともにノルマンディーを統治とうちした[10] 。また、2人ふたりはギヨームにたいする支持しじるため、従兄弟いとこモージェ(リシャール2せい息子むすこ、ロベール1せい異母弟いぼてい)をルーアン大司教だいしきょうにんじ、そのおとうとギヨームをアルクはくとした[10]

1040ねん10月1にち、ノルマンディーのヴィムティエちかくにあった反乱はんらんぐんしろ包囲ほういしていたとき、アラン3せい突然とつぜん死去しきょした[10]。『Orderic Vitalis』によると、アラン3せいはあるノルマンじん毒殺どくさつされたという[b][11]

子女しじょ

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アラン3せいベルト・ド・ブロワあいだ以下いか子女しじょまれた。

1046ねん5がつ14にち以降いこうに、ベルトはメーヌはくユーグ4せい再婚さいこんした[1]

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ロベール1せいえらんだ後見人こうけんにんなかにはすくなくとも3にん親族しんぞくがいた。アラン3せいおそらく親族しんぞくであることと若年じゃくねんのギヨームと対立たいりつしないであろうという両方りょうほう理由りゆうからえらばれたとみられる。ブリオンヌはくジルベールもリシャール1せいまごであり、ギヨームにたい軍事ぐんじてき支援しえんができるとかんがえられたとみられる。おなじく親族しんぞく年長ねんちょうのルーアン大司教だいしきょうロベール2せいもまた、ギヨームをつよ支持しじした。以下いか参照さんしょう:Crouch, The Normans (2007). p. 60.
  2. ^ ギヨームの3にん有力ゆうりょく後見人こうけんにん一人ひとりブリオンヌはくジルベールが友人ゆうじん乗馬じょうばちゅう殺害さつがいされてからもなくのことであった。以下いか参照さんしょう:Crouch, The Normans (2007), p. 61; and Cokayne, The Complete Peerage IV, pp. 308–9.

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ a b c d e Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band II (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany, 1984) Tafel 75
  2. ^ Gwenno Piette, A concise History of Brittany (University of Wales Press, Cardiff, 2008), p. 38
  3. ^ The Gesta Normannorum Ducum of William of Jumieges, Orderic Vitalis, and Robert of Torigni, Vol. II, Ed. & Trans. Elisabeth M. C. Van Houts (The Clarendon Press, Oxford, New York, UK, 1995), pp. 14–5
  4. ^ a b Francois Neveux, A Brief History of the Normans, Trans. Howard Curtis (Constable & Robinson, Ltd., London, 2006), p. 108
  5. ^ David C. Douglas, William the Conqueror (University of California Press, Berkeley and Los Angeles, 1964), pp. 32–3
  6. ^ David Crouch, The Normans (Hambledon Continuum, New York, 2007), p. 50
  7. ^ The Gesta Normannorum Ducum of William of Jumieges, Orderic Vitalis, and Robert of Torigni, Vol. II, Ed. & Trans. Elisabeth M. C. Van Houts (The Clarendon Press, Oxford, New York, UK, 1995), pp. 78–9
  8. ^ Ordericus Vitalis, The Ecclesiastical History of England and Normandy, Trans. Thomas Forester, Volume II (Henry G. Bohn, London, 1854), p. 161
  9. ^ Richard E. Barton, Lordship in the County of Maine, c. 890–1160 (The Boydell Press, Woodbridge, 2004). pp. 47, 87
  10. ^ a b c David Crouch, The Normans (Hambledon Continuum, New York, 2007), p. 61
  11. ^ Ordericus Vitalis, The Ecclesiastical History of England and Normandy, Trans. Thomas Forester, Volume II (Henry G. Bohn, London, 1854), p. 74
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